ともみ@ピクニック

今の「むなしい」の話

大竹さんのラジオで、光浦靖子さんが
最近行った一人旅の話をしていた。

「一人だと、怒りもしなければ、笑いもしない」

「愉しくはあっても、なかなか
声を出して笑うまでには至らない」

というのが印象的だった。


そういえば、数日前のラジオで
「お喋りが上手くできない高齢者」
の話を聞いたばかりだっけ。

(認知症ではなく、単に、人と喋る機会がなくて
発語がスムーズにできなくなるそうだ)

(むむむ、わたしは予備軍か!?)


人は一人で生きられない。

ってのは、標語のように知っているけれど
なかなか実感の深まらないまま、生きてきた。

でも、このごろ思うのさ。

昨今のわたしを蝕んでいるもののひとつは
「むなしさ」で、これは

(現在はかろうじて、月の半分以上を
実家に滞在することで、むなしい実感から
免れているともいえるし

一人宅に滞在しているときも
「近々また実家に戻らねば」プレッシャーから
むなしい実感と、かなりの距離をもっていられる
とはいえ)

他者とのエネルギー交換の乏しい
孤独な生活にも由来するんだろうなぁーと。


つまり、今現在の生活においては
「むなしい」が表面化する機会は少ないけれど

状況が一転すれば、これまで声を上げていなかった
分も、利息をつけて、「むなしい」「さびしい」地獄に
陥る可能性は大だなぁぁぁ、という恐怖はある。

(以上、最近考えていることの断片でもある)


◎おまけ 名越康文先生のツイッターより◎
https://twitter.com/nakoshiyasufumi

中身のない学びは社会的な通行手形という以外に意味がないだけではなく、虚しさが常態になるという副作用が生じる。生きることの楽しさを知らず、生きることはさびしく虚しくて当たり前、という固定観念に自らを蝕まれながら生きる、という人生が続くようにさえなる。つまり本質の教育こそ希望である。
さびしさは知を愛する方法を知らないからで、人を愛せないからではない。知の中の知、謎の中の謎が人なのだから。

(2017年5月30日)

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