ともみ@ピクニック

2.こんこんと自分の都合がわき上がる

釈徹宗著『お世話され上手』(ミシマ社)より、気になった文章を引用。
(改行は省略します)


「はるかいにしえより、このパスが途切れずに私へと届いたのは、まさにこの私ひとりのためであった」となれば、もうそれは深い宗教体験と言ってよい。(14頁)


仏教では、「これが正しいと思った瞬間に見えなくなるものがある」と説く。だから、枠組みを常に点検して、偏らないようにするのだ。どんなに正しいと考えられている意見や行為も、偏るとダメなのである。(91頁)


〔認知症の人と接する経験のほとんどなかった著者が、戸惑いの先に見つけた話〕

あるとき、“自分というもの”をキープしたままで相手に寄り添おうとするからしんどいのではないかと気づいた。そこで、“自分というもの”を(  )カッコに入れるイメージでやってみたら、けっこう楽になった。“自分”という枠をがっちりと持ったまま他者に寄り添うのは、どうもうまくいかないらしい。そこで、(自分)をイメージして、相手の語りに身をゆだねるようにする。するとあんまりしんどくない。周囲を観察してみると、認知症とのコミュニケーションがうまい人の多くはそうしていることがわかった。(124頁)


〔認知症の人も“自分というもの”を抱え生き抜いていく姿から、「自分の抱える闇」と生涯向き合い続けた親鸞聖人を想起する話〕

我々はどこまでいっても、“自分というもの”にすがりながら生きていくのである。認識主体である“自分というもの”はかなりしぶとい。そうか、これが人間の実相なのか、と痛感する。(中略)親鸞は「この身があるかぎり、なにをしでかすかわからない」といった視座を保ち続けたからである。状況によっては人殺しでもしてしまうかもしれない、それが我々の実相である。どこまでいっても自分の都合がわき上がってくるからだ。それを抱えながら苦難の生涯を生き抜くのが我々の人生なのである。それはまるで底に穴が開いた船に乗っているような事態である。いくら水を汲み出しても、こんこんと自分の都合という水がわき上がってくる。だからといって汲み出すことを止めるわけにもいかない。そんな緊張状態。それが我々である。(130~131頁)


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