ともみ@ピクニック

共感の側面

去年11月下旬~12月上旬、このブログで
「共感を重視することの危うさ」まわりの話を
だらだらと数本に分けて書いた。
http://picnik.blog91.fc2.com/blog-entry-5018.html など)

まとまりないのに加え、言いたいことが
上手く表現できないもどかしさがあったな。

その後、米国発の
「ポスト トゥルース」という言葉が世間を賑わせて

そこでは、我の言いたかったことの一部も
けっこう語られているようであった。

         *

今月6日、茂木健一郎氏の連続ツイートで
「共感にこだわると狭くなる」というタイトルの話があり
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8320136.html

〆にはこんな文章が。
確かに共感はめぐみをもたらすものだが、一方で、共感というものが時に人を狭い世界に閉じ込めてしまうものであるということも忘れてはいけない事実であるように思う。

あー。コレコレ、と思った。

わたしの言いたかったのはコレ。

時代が「共感」病に罹っているようななか
「共感」の負の側面を述べるのは勇気がいるし
誤解も多々受けやすいと思うんだけど

そうなんだよね、決して、共感を否定している
わけじゃないんだ。

共感に安堵して、共感のなかで溺れてしまうのは
危険だよ、と、共感の一面を云いたかっただけなんだ。

【追の記】
なお、茂木氏は、後日の連続ツイートで
(乱暴にまとめちゃうと)「共感を出発点に
他者との違和を学び、それが自分という
独立した存在を確認する手立てになる」
というような話も書かれている。

完全共感でつながれる他者なんていないし
共感を抱けずに違和感を感じることは
なんら悪いことではない、むしろ自己確認の
ためには必要な心的状況なのだ、と仰っている
ように、わたしは理解した。

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