ともみ@ピクニック

「セラピスト」2

最相葉月さんの『セラピスト』のなかで
印象に残った文章を書き写しておく。

         

「この来日に限らず、一連のワークショップを通じて思ったのは、日本の皆さんも、誰にも咎められない受容された環境にいれば、自分の抱える問題を自分で解決する潜在的な力があり、その力に対する確かな渇望があるということです」(139~140ページ)

←カール・ロジャーズのカウンセリング(非指示的療法)を日本に伝道した、ローガン・ファックスの回想


この研究を通して山中が認識したのは、絵は防衛手段である、ということだった。絵によって、真実が自分に迫るのを防御する。絵があれば、本当の自分を見せずに済むという意味だ。自ら絵を描きたいと願い出た患者たちには、うまいと褒められることへの期待があった。それは、表面的な自己満足である。本当の自分に肉薄し、晒け出し、そこからもう一度、自分を再構築するという考えをもちにくい。そのため、いつまで経っても治らず、むしろ社会復帰療法で体を動かすことでようやく退院することができたのだった。(略)〔改行〕看護師を困らせてばかりいた第二ターゲットの患者たちの退院が早かったのは、山中との個人面接を通して、ネガティブな自分は仮の姿であることを発見したからだった。これからは本当の自分を生きてもいいのだと気づくと目に見えて回復していった。(195ページ)

←初めて山中康裕が絵画療法を試みたとき、第一グループ(以下G)「長期入院患者(言葉による伝達ができない統合失調症患者たち)」、第二G「看護師を困らせている患者」、第三G「自ら願い出た患者」を集めた。結果、第一Gと第二Gには治療効果が現れ退院する者たちもいたが、第三Gにはちっとも効果がなかったことを振り返っての言葉


妄想は統合失調症の専売特許ではない――。私たちが言語をもち、言語の世界を生きる限り、そこから逃れることはできない。だからこそ、いったん因果律から解放される必要がある。特に治療の場面では。(247ページ)

←音楽が頭のなかに入って、なかなか離れない現象って、誰でもあるでしょう? まもなく改定されるアメリカの精神医学会の診断基準には「音楽が頭に入ってしまう」ことも病気の診断基準に付記されそうなのである。という話のところで。


「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら多いに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すなということです」「ええ」「箱庭も、あれは、全部物語を紡がない、ということも重要なのでしょう。(略)」(366~367ページ)

←「絵画や箱庭が治療的だとされるのは、そこに物語が作られるからか?」という著者の質問に中井久夫が答える場面。


つまり、クライアントが症状に悩むとき、それを解消することも意味があるし、解消せずにいるのも意味があると思っています。そして、おそらくそのどちらかを選ぶかは、クライアントの個性化の過程に従うということになると思います。(略)クライアントの最初の意識的な訴えは、症状を早くなくしたいということだし、そのことも決して忘れてはなりませんが、私の相手をしているのは、クライアントの全存在であり、それがどのように進んでゆくかは、よほど慎重に、そして、私の態度を柔軟にしていないとわからないと思います。(略)私は今はクライアントの症状がなくなったり、問題が解消したりしたとき、やはり喜びますが、根本的には、解消するもよく、解消せぬもよし、という態度を崩さずにおられるようになりました。(425~426ページ)

←河合隼雄『ユング心理学と仏教』より、孫引き

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