ともみ@ピクニック

生活保護ジャンパー問題その後

荻上チキさんが、先日(1月19日)のラジオで
産経新聞のコラムを取り上げていた。

わたしは昨今の「意味を吟味せず、リベラルを
リベラルという理由だけで叩く」一部の風潮を
常々おかしいと思っていたし・・・
チキさんの意見に一票を投じたい。

以下、チキ発言をできるだけ忠実に要約。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(まず産経新聞に何が書かれていかたの説明)

小田原市の生活保護のジャンパー問題を
批判している人たちを叩く論調になっていた・・・

政治的に正しいことばかりを言っていると
現場で疲弊が広がる・・・とか

建前の押しつけに疲れたアメリカでは
差別的な発現を繰り返すトランプ氏が大統領になった・・・とか

要は、正しいことを言う奴がいるから
差別発言に酔うような奴が生まれてくるんだ・・・
そんな(産経の)論調。

(中略)(ここからチキ節が加速)

「職員たちはますます仕事に追われるようになった。
同時に、職員たちの人権意識を糾弾するだけでは
すまない問題になった」と(産経は)書いている。

「この間、暴力の危険も増えている、別の自治体では
殺人事件も起きている。第一線の過酷な状況に
あらためて光をあてる機会にすべきだ」
というふうに(産経は)書いてある。

職員の人たちが大変な状況にあって
より追い込まれている、ということが書かれている。

それだったらそれで、今目を向けるべきは

自治体の一人ひとりの意識ももちろん問題なんだけど
そういうことを改善するには
生活保護を支給しやすくするために
窓口の人を増やすとか、担当のケースワーカーを増やすとか
そういうことが義務として必要だよね
という話をすればいいと思うんですよ。

しかし、産経新聞は最後に
ポリティカル・コレクトネス批判につなげている。

つまり、そういう政治的正しさに疲れた人たちが
アメリカでトランプ現象を生んだ、と。そういった
「実体と離れた正義の声だけがまかり通れば
疲弊が広がる」と書いてある。

(産経新聞が)ポリティカル・コレクトネスが嫌いなのは
よくわかるんですけど

いくつか整理すると

不正受給の割合は、生活保護受給者の
ほんの0.数パーセント
かたや受給すべきなのに受給していない世帯の
割合は受給者の何倍にものぼっている。

生存権が満たせていない状況がある。

なぜか? 「福祉を受けることへの後ろめたさ」や
「役所での窓際作戦」や「そもそも制度を知らない」など
適切に生活保護を利用されていないほうが高い。

そうしたなかで、(我注・一部の)不正受給を取り上げていって
ある種「実体から離れた正義の言葉」を振りかざすことによって
生活保護全体を追い込んでいった。

そういった現状があるなかで、今回のジャンパー問題が話題となり
生活保護バッシングだとか、生活保護に対する負のイメージがつい
ている現状に対して異議申し立てをしているという状況が
そもそも生まれているなかで

何かポリティカル・コレクトネスのほうが、とっくに世の中で強くって
多数派で、抑圧になっているんだというイメージで産経新聞は書いていて
まあ朝日新聞はそうした論調で書いているかもしれないけれど
それは多数派にはまだなっていない

そうしたなか、結果として(ジャンパー騒動を)擁護する論調になってしまうと
ますます生活困窮している世帯の方が苦しむということになるので
基本的にはそうした言説を批判するのではなくて、より「ホワイトな職場」に
公務員の方々をしていかないと、市民生活もホワイトにならないよねって
いうほうに話をしていけば済む話なんですよ。

ポリティカル・コレクトネスは最近
日本でも叩かれはじめていて、それに対して
不思議だな~と思うのは

ポリティカル・コレクトネスは、まだぜんぜん実現していない
この社会において。例えば、同性愛差別はやめましょう
宗教差別はやめましょうとか、ある種の建前は
一部の人たちの言葉であって、まだまだ社会的にも
制度的にも、人々の意識の上でも、少数派なんですね。

そうしたなか、ポリティカル・コレクトネスは
マイノリティーが受けている攻撃から守るためのものであって
つまり抑圧を受けている者が跳ね返すための言葉であって
誰かの言論を弾圧するためのものではない。

ただし、差別発言をして当然だと思っている人からすれば
「その発言を禁止されるなんて」と抑圧に感じるかもしれないけれど

その感じていた抑圧の何倍以上も他の人を抑圧している事実を
自制する理論がポリティカル・コレクトネスなんですね。

よく「政治的正しいこと、いい子ちゃん、優等生ぶったことを
言い続けることが反感を買うんだ」と、言われるんですけど
これには二つ意見があって

一つは、本当にその図式なんだろうか?

もともと日本は保守的な人が多い状況のなかで
ゆっくりゆっくりようやく声を上がられる状況に
なってきたという順番なんですね。

彼らは別に反動で保守になったのではなくて
そういった声がだんだん出てくることによって
自動的にゆっくり部分的に受け入れるという順番なんですよ。

ようやく出た「小さなささやき」「小さな叫び」というものを抑圧だと感じて
そうしたものが蔓延した社会が生きにくいと感じたときに
それが「自分たちのなにかが奪われる」という視点ばかりが考えられていて
この社会がどういう社会になったら多くの人が暮らしやすくなるのだろうか
という視点が欠けてしまうということがある。

当然ながら、コミュニュケーションの仕方には工夫がいるし
色々反感を買わないように工夫が場合によっては必要なんですけど
声を上げて政治を直すという社会運動の役割もあるから

そうしたことも含めて
いろんなポリティカル・コレクトネスの意義は
まだまだ実現していない社会においては重要かなぁと
思うんですね。

もう一つ、個人的意見としては
政治的正しさ、優等生的な意見と揶揄されたりするんですけど
その意見なるものを誰も言わなくなったら、どうなるんだ?
と思うんですよね。

当たり前のように思えるかもしれないけれど
まったく実現していないとか、あるいは
「こういう声も聞かないといけないじゃないか」というときに
「いい子ちゃんぶって」とか「政治的正しさばかり追求して」と
言われるかもしれないけれど

そういうことを全然言わなくなって
ある種の本音主義で、いいじゃん差別!とか
いいじゃん放っとけよ!という風潮を強化する
ようなことばかりやれば
そりゃ、反感を買わないですよ、その人たちの。

でも、その代わり、差別というものは温存されていきますよね、と。

ある意味、政治的正しさを追求することは
今ある既存の秩序や風潮を肯定する人たちの反発を買うことは
避けられないところもある。

そうしたなか、反発した人たちが「差別の言論」に傾いたのは
なにかポリティカル・コレクトネスの発言をしたリベラルな側の責任だ!
みたいに全て押しやる

いや、そもそも、そういう発言を是正する空気が
色んな人たちを押し込んできたわけで

それを跳ね除けた人たちに、「ああ、また跳ね除けたから
オレたち攻撃しちゃうもんねっ」ということを言うという
そのものがマジョリティ目線の、なにか抑圧的なものだったりする。

アメリカで起きていることは、そうしたなかの新たな弱者層
新たなマイノリティ層が見えてきたから、そうしたことをケアしなきゃね
と、語られなおされているわけですけど

一方で日本は、例えば生活保護バッシングする人たちが
生活が安定しているのかというと、意外と苦しいという状況もあったりして
そういう「苦しい人が苦しい人を叩く」という状況自体を改善したいよね
という議論がHAPPYな状況(我注・?)かなっという感じがするんですが

知識は知識として、「実際はこうなので叩かないほうがいいよ」と
言い続けていかないといけないし、「こんなジャンバーは
作らないほうがいいし、着ないほうがいい」と言わないとダメ。

「へ~、ジャンバー着たのぉ~。ふ~ん」ってスルーしたら
ダメでしょう。っていうときに、政治的に正しい
「ジャンバー、ダメでしょう」っていう言葉を言わなかったら、問題ですよね。

ということも含んで、たぶん今後日本でも、アメリカの姿勢も学んで
「ポリティカル・コレクトネスを叩こう~」「あいつらのせいで息苦しくなった~」
みたいな声が盛り上がっていく、今も盛り上がっていると思うんですけど

そうしたなか、そうかな? そう? 含めて疑問に思いながら
これまでどおり「こんな視点が必要なんじゃないか」と
色々発言を続けていく・・・・・・(以下略)。


――以上、「荻上チキ・Session-22」(2017年1月19日)
オープニングトークを要約文字起こし――

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