ともみ@ピクニック

教師への記憶

寝る前に久しぶりに観た
TV『ヨーコさんの“言葉”』。

第43話は

ヨーコさんの子ども時代は
頭にシラミを囲う子が珍しくなく
代用教員がシラミのいっぱいいる子に
現代でいうところの「差別」「いじめ」的な
態度をとっていたという話から始まって

教員から日常的に体罰的ふるまいを受けていた
男子たちのその後 ・・・三十歳頃の同窓会で
そんなもの水に流した態度の人もいれば
反面教師として大人になった人もいる・・・
が描かれていた。

以下、番組の一部を文字起こし。

同じ行為が受け手によって
全く違う意味を持つのだ。

こだわり続けることで
自分を創る人もいれば、
流すことで生き続ける人もいる。

私たちは教師によって育てられたのではない。

自分で生きてきたのだ。
それぞれの力で、それぞれの魂をもって。

(中略)

理想の子どもなんか
一人もいないように、
理想の教師なんてのもいない。
思い通りになんかならないのだ。
お互いさまなのだ。

生涯の導き手になるような
教師に出会えたら幸運である。
しかし出会えなくても不運ともいえないのである。

(中略)

それぞれが自分の中に
生き続ける力をもっている。

それぞれの異なった魂が
生き続けるのだ。
              ――佐野洋子『私はそうは思わない』



わたしは、教師に対して、トータル
いい思い出がない。

恩を忘れているのかもしれないが
特に、高校時代まで、これといった
教師との温かい・嬉しい記憶はなく

むしろ
思い出すと、胸の痛くなる、怒りもわきそうな
ある傷ついた記憶が一番にやってくる。

実はその記憶って、わりと近年になってから
たまーに自分のなかにやってくるように
(フラッシュバック?)なったのだよな。

不信感を伴う、その痛みの正体は
認めるとなにより自分が傷つくことになるので
「そういうこと」がある、「そういうこと」を感じている
とは、当時、誰にもいえなかった。

(実は今、初めてカミングアウト)

ヨーコさんのエッセイにあるところの
「こだわる」ことも「流す」ことも出来ず

長い年月、記憶を封印していたのだ。


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