ともみ@ピクニック

消耗スイッチ

人は、その気になれば、少なくない割合で
なにかしらの現代的な病名を見繕うことが
できるのだろうと思う。

わたしの場合は
広義の自閉症が当てはまるのじゃないかしら?
とは、ずっと前から思っている。

               

過日、「自閉症スペクトラム」をとりあげたテレビを
録画しながら、観ずに削除してしまったのだけど

phaさん経由で知った、ことりさんの
ブログ『ことりのかけら』のなかにある
「金スマ「発達障害」頑張りすぎることの代償 」
http://korasophie.hatenablog.com/entry/asd
が気になって読んでみた。

どこから見ても、頼れるしっかりした「ピアノの先生」でした。レッスンが終わり子どもたちが帰った後。あすかさんの様子が変わります。そのまま倒れ込むように部屋へ。部屋の床に倒れ込み寝込んでしまいました。社会に合わせようとして一生懸命に頑張って作った先生の「顔」。その「顔」を持続させるのは、短い時間が限界だそうです。しっかりした自分を短時間保つ、そのことで体が悲鳴をあげるのです。「疲れ果てて倒れ込み寝込む」のです。これが、社会にあわせる「代償のようなもの」かもしれないと思いました。
(改行は省いて引用)
という部分が印象に残った。

わたしだけでなく、ある一定数、こんなふうに
「社会と向き合う ⇒ 自分を消耗」というスイッチの持ち主が
この世にはいるのだと思う。
(誰しも「消耗」はするだろうが、過度に「消耗」という意味)

なお、過去そして未来、わたしがどこかの誰かと会ったことを
「疲れた」とグチっても、それは、会った相手のせいじゃありませんよ。

これはわたし自身の性質を因とする問題なのだ。

ただ、このことはなかなか理解されにくい・・・・・・。

(だからときには、まわりまわって、「誰か」を傷つけてもきたのだろな。
ごめんなさい。遅いかもしれないけれど、過去と未来に謝罪しておく)

「社会(仲良い友人であれ)と向き合う ⇒ 過度に消耗」
タイプの人生は、生きるのがたいそうむずかしく感じる
ときもある。

けれど、そこに悲観の種を見るかどうかは自分次第なのかも。

               

ブログ『いばや通信』の http://ibaya.hatenablog.com/ 
「君は真面目過ぎる」(本年12月4日付)で
坂爪圭吾さんは次のように綴っている。

問題とは、多分、問題を問題と思うから問題になるのであり、問題を問題と思わなければ問題にはならない。私は、問題を解決したい訳ではなく「問題が問題ではなくなるような視点、および生き方」のようなものを模索したい類の人間なのだと思う。
(略)
たとえ、普通と呼ばれるものとは異なるものであったとしても、そもそもで普通と呼ばれるものにうまく馴染めなかった人間であり、普通であることにそれほどの面白みを見出せなかった人間でもあるのだから、別に問題はないのだと思う。別に問題はないはずなのに、油断をしていると「普通と違う」ことによるさみしさや悲しみを無意識に抱いてしまうこともある。


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