ともみ@ピクニック

(4)「共感」亡者

ちょうど、これらの(↓)文章も気になっておりました。

ここ十年ほどの傾向として、よく本や映画に触れた後の感想に「共感できたかどうか」というのがある。しかしながら、何かに共感できるのはとてもいいことだけど、「共感できなかったから駄目」という意見は乱暴ではないかと思っている。(中略)。共感できれば素晴らしいし、共感できなかったとしても、自分とは全く違うタイプの人を理解することにつながる。理解できなくても、少なくともそういう考え方があると深く知ることができる。(中略)。現在のシーンは、作家が「読者からの共感」を気にするあまり、「平均化」された小説が増えている傾向にあるのかもしれない。そういう流れに書き手としては抵抗していかなければ、文化そのものが痩せてしまう。
(『きみに贈る本』38~39頁。中村文則・・・1977年生まれ)

共感だけが読書ではない。私は常々そう思っています。本に対する感想の中で、共感できなかった、理解ができず楽しめなかった、というような文章を見つけると、私は少しさみしい気持ちになります。共感とはつまり、本を読む以前の自分と、読んだ後の自分に、何も変化がない状態のことです。心の中にあるモヤモヤをばしっと言い当てられたような文章に出会ったときはもちろん嬉しくなりますが、そうではない文章に出会ったときに、「これは私と違う」という理由だけで受け入れることをやめてしまうのは、とてももったいないことだと思います。(中略)。共感できないものを遠ざけてばかりいたら、私たちはずっと今の形のままです。
(『きみに贈る本』146~147頁。朝井リョウ・・・1989年生まれ)

特に若いころは、針で突くような局地的な共感に溺れることも、読書の楽しみのひとつでした。(中略)。確かに、自分が共感するものばかりに手を伸ばしていたら、自身の何かを様変わりさせるような想定外の衝撃には出会えません。ただ、それも十分理解したうえで、自分が共感できるものに全身を包まれたくなるときがあります。ネガティブな「自分だけ」を言い当てられて、そうなのそうなの、ありがとう、と、その許しのようなものにしがみつきたくなることがあります。
(『きみに贈る本』148~150頁。朝井リョウ)


共感は、生きる勇気だ。
(少なくとも、我にとって)

だけど、ひとは、共感を踏み台に
孤独に歩んでいかなければいけない
ときもあるのだと思う。

(すると、いずれまた、共感に出会える)

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