ともみ@ピクニック

結婚は誰としてもいい

(ひとつ上の続き)

ずばり、本書を要約すると
結婚は配偶者双方にとって市民的成熟のためにきわめて有意義な訓練の場ですし、「貧しきとき、病めるとき」における相互扶助のセーフティネットでもあります。(72頁)
結婚を通じて幸福になろうとしているのが、間違い。そう思っているからみんな結婚できないんですよ。今よりも不幸にならないように結婚するんです。(76頁)
という話の繰り返しなのですな。

ずっと反発していたけれど、年長者たちが
かつてわたしに伝えたがっていたことや
同年代の友人たちが結婚していったのも
多くはここに書かれていることを本能的に
知っていたからなのだろう。

みなさん、賢かったのね。

でもまあ、(いくら敬愛する内田先生に諭されようと)
今生のわたしにはこの賢さは実践できないだろうから

この賢さ以外の、別の賢さを身につけて
いくしかないのであるよ。


言ってみれば、あなたの中には、たくさんの「ひも」があるんです。あの人と結婚したらこの「ひも」が引っ張られて、自分の中にあるその「ひも」に繋がった部分が露出してくる。この人とだったら、また別の「ひも」が引っ張られて、別の潜在的資質が現勢化してくる。つまり人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的には眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。・・・中略・・・。あのですね、自分の中の潜在可能性は配偶者が変わるごとに、友人が変わるごとに、環境が変わるごとに、仕事が変わるごとに、そのつど新たに発現してくるんです。そのつど。そして、その様々な「自分」の中に、ある特権的条件においてのみ発現してくる唯一無二の「ほんとうの自分」なんてものはありません。ぜんぶ等しく「自分」です。ぜんぶが同格の「自分」です。「偽りの自分」と「ほんとうの自分」がデジタルに分離されるはずがない。・・・中略・・・。だから、ある配偶者との出会いによって出現してきた「自分」にたとえご不満があろうとも、それがあなた「そのもの」であることに違いはない。ほんものか贋ものかといえば、「ほんもの」なんです。・・・中略・・・。話をもとに戻しますね。誰と結婚するかによって人生は変わります。配偶者が違えば、出てくる「自分」も違ってきます。でもそれは、「生で食べても、漬け物にしても、煮ても、焼いても、揚げても、茄子はやっぱり茄子だ」というような意味で、どれも「ほんとうの自分」なんです。だから、結婚は誰としてもいいし、どれが良くてどれが悪いということもないと僕はつねづね申し上げているわけです。
(内田樹『困難な結婚』35~38頁)

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