ともみ@ピクニック

「足りないという経験」

長年連れ添った伴侶を失った悲しみを
ひとが語るとき、わたしはきまって
その心内を想像するより前に、自分の
欠損を意識してしまう。

ワタシは一生、そういう感情をもつことが、ない。

(そして、そういう感情をもつことがないということは
そこに至るまでのしかるべき経験も積んでいないのだ)と。

悲しみに類することだけじゃなく、たとえば
孫をもつ喜びにあふれる人の話にふれると
また同様の欠損を意識してしまう。

おそらく、こういうことは、まだまだずっと続くのだろう。
(長生きするならば、人生の大半をこういう状態で過ごすことになるのかも)

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と、いう話をすると

あたかも、「もっていないものを欲しがっている
(伴侶が欲しいのです、とか、子孫が欲しいのです、など)」
ように感じ取ってくれるひとびとがいるのだけれど

少なくとも、わたし自身にそういう自覚は、ない。

あるのは、足りない、という、認識。

そして、それに伴う、痛みのようなもの。

強がっているのではない。

痛みは痛みでとどまって、不足分を補いたいという
欲望には発展しないのだ。

(世の中には、配偶者と子孫をもってやっと一人前と考える人はおり
とくに田舎にはそういうことをあからさまに発する人もおり
自意識過剰なわたしは、ずいぶん痛みをこじらせました)

これは何度かこのブログにも書いてきたことだけれど

わたしは、なにももっていないのではなく
「足りないという経験」をもっているという、わたし自身の物語を
見つけられたことは、本当に恵まれていると思っている。

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