ともみ@ピクニック

ポジとネガのバランスとり

こういうことを考えるのは
ひがみのエネルギーが関与しているのかもしれないな
という前提で、以下の話を書きます。


昭和の後半には
「ネアカ」と「ネクラ」という、人の性質を分ける
形容詞があった。
(今もあるのかな?)

まあ、厳密には人の性質をそんな簡単に
分けられないことはみんな知りつつも
そんな言葉が存在したのは

ポジティブなものを主軸に生きている人間
(根が明るい=ネアカ)と

ネガティブなものを主軸に生きている人間
(根が暗い=ネクラ)

傾向として、人それぞれのものがあることを
みんな知っていたからであろう。

(もちろん、「ネガ」を隠して「ポジ」に振舞う人は大勢おり
浅くて短い付き合いでは、懸命に演出する言動や振る舞いを
まわりが信じてしまうことも珍しくないけれど、そういうのとは別の
本質的な差異というのは確かにあると思う)

椎名誠さんは、先にとりあげた本のなかで
「自分はある時期までポジティブしかしらず
生きてきた」というようなことを書かれていた。

そうなのだろうなーと、読者として納得。

根が暗いことを自認するわたしは
この世には、わたしと違う
「ポジティブを軸に成長してきた人間」がいるのだ
という意識が拭えない。

やがては、どんな人間も、成長するにつれ
ポジとネガの両方にまみれるわけだけど

もって生まれた「重心のかけ方」の癖は残り
(三つ子の魂100までも、とは、こういうのも関係してる?)
それが成人後の個性とも大いに関係してくる。

(「どんな人間もポジとネガの両方があるって?
いーーーーや、おいらはネガ一色だよ」と
叫びたくなるお人がいるかもしれないが

「人間、ネガ一色では生きられないでしょ!」と、わたしは思う。

生きているということは
自分で認める以上にポジの面があるのだと思う。

そして、ある程度
暢気でなくては生きてられない! 人間は)。

ふぅーーーーーぅ。

ポジティブと、ネガティブ。

現実生活での(振る舞いとしての)重心のかけかたは勿論
「心のなかで認める(自分だけが知る)そのバランスとり」
これこそが自己責任というものだろう。

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