ともみ@ピクニック

共生とオープンマインド

わたしは、まったくもって他人に対して許容度の高い人間ではない。
(それは、しばしば、このブログでも漏らしてきた)

すごく人の好き嫌いが激しいほうだと思う。
(実生活でそれを表に出すかどうかは別として)


「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしましたが、他者との共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだと僕は思います。僕自身の中にも、「さもしい私」、「邪悪な私」、「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、それなしには僕は僕ではない。自分自身の中にある(ろくでもないものを含めて)さまざまな人格特性を許容できる人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。世間で言われる道徳訓とは言葉がずいぶん違いますが、僕は自分を許すことのできる人間だけが他人を許せると考えています。

人格高潔で知性徳性にすぐれた人が「私はすべての他者を受け容れる」と言ったとしても、彼が行っているのは「共生」ではなく、ただの「我慢」です。汚物や悪臭に耐えるように不快な他者の切迫に耐えている。でも、そんな忍耐は長くは続かない。

「他者と共生する」というのは、「他者に耐える」ということではありません。「他者」を構成する複数の人格特性のうちにいくつか「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的には私自身である」と認めることです。

それは「感情移入」ということではありません。もっとずっと断片的なことです。(略)

自分の論理を細かく割っていく。自分の感情を割ってゆく。自分の身体を割ってゆく。分子レベル、元素レベルにまで割れば、どんな人間の特異な人格要素もいくつかの基礎的な要素の順列組み合わせでしかないことがわかります。(略)

(略・・・)

オープンマインドというのはそのことだと思います。のっぺりした「開かれた人格」というものがごろんと単体で存在するわけではない。(略)

(略・・・)

でも、「自分らしく生きたい」と言う人はしばしば自分の中にある複数の「私」に対して抑圧的になります。彼らは社会生活の全場面で同じ言葉づかい、同じ身ぶり、同じ服装、同じ価値観で押し通そうとします。それ以外の「自分らしくない私」は人格に統合されないで排除される。怠惰であっても、吝嗇であっても、貪欲であっても、「自分らしくない」要素は認められない。「そんなものは私ではない」と言って退けられる。

自分のそのような汚れを許せないピュアな「私」がましてや他者の怠惰や吝嗇や貪欲を許せるはずがない。自分について許せないものは他者においても許せない。自分の中にある「理想的に自分らしいところ」以外のすべてを抑圧しようとする人の眼に、他者はほとんどが「おぞましいもの」として映ります。そのような人が他者と共生することはきわめて困難です。


(内田樹著『呪いの時代』135頁~137頁より、抜粋して引用)


んー。

わたしは、まだまだ「自分を割り」足りないのだろう。

もっともっと「色んな顔をもつ自分」を知ってゆけば
この世の中ががさらに生きやすくなるのかなぁ。

そんなことを思わされた内田先生の話であったので
長~い引用だけれど、ここにメモをしたのだ。

なお、この内田先生の考え方は
(こう言ったら失礼な言い方になってしまうかもしれないが)
新しい考え方でもなんでもないのである。

すでに、わたしを含む、誰もが知っている話なのだろう。

ただね、それを忘れがちなの。自覚するのを忘れちゃうの。

それを先生は上手く言葉になさり、わたしたちに思い出させてくれる。

なお
平野啓一郎さんの「分人」というキーワードにも
通じる話なのかなぁ、と
(わたしは、それについて書かれた小説も、新書も読んでいないけど)
思うのだった。

まあ、わたくしよ
人さまの御本を書き写すだけでは、なんの意味もない。
この教えをちょっとずつでいいから血肉にする!


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