ともみ@ピクニック

澱の発散

補足

***

さりげなく、(さりげなくないか)
高齢者に対するグチを書いて、「気持ちの澱」のようなものを
発散しようとした日記となったな。

大きなストレスは、言葉にしやすいが
小さなストレスって、なかなか自覚しにくいし
ましてや外に漏らす機会って、ほとんどない。

たまには許して下さいな、日記の神様。
こういう、さりげない(さりげなくない!)グチも。

***

今の時間も、いつかは
かけがえのない思い出になる。

それを知っているから
今をがんばれる。

それを知っていても
グチを言いたくなる日もある。

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高齢者とTVと、わたし

誰もが通る道なのだろうが
老親と時間の共有をしていると、幼児の
面倒を見ているような気分になることがある。

退屈そうな母用に、せっせと彼女の
好みそうなテレビ番組を録画し、いくど
お教えしても「再生」視聴がなかなか難しいようなので
ちょくちょく様子を見に行って、その都度
視聴する番組を選び・・・、が、実家にいる
ときの、ほぼデイリーな日中作業。

希少なタイプの番組は、すぐに消去せず
何回か再生することがあるのだが
あいだにしばしの期間を経ると
複数回目の視聴なのに「初めて見た」
ということもある母さま・・・。

ところで
高齢者の楽しめるドラマって、ほんと少ない
(CMは、高齢者向けのものが多いのにねぇ)
のは残念だ。

最近、わが家でたのしんだのは、NHK時代劇の
『みおつくし料理帖』だな。

(母がドラマの画面を眺めているからといって
あらすじを理解できているとは限らない。なので
そばにいるときは、ちょくちょく彼女の質問に答え
人物関係や話の展開を説明しなければならん)

(先日は『幕末グルメ ブシメシ』の視聴で
なんども草刈氏の二役を説明しているのに
最終話近くになって、え、まだ把握してなかったの!
・・・なんてこともあり、母とテレビの関係を
あらためておもう)

テレビは、高齢の母にとって、身近な退屈しのぎ
であり、「ああ、こんなに理解力低下しているのかぁ」と
娘の把握するきっかけのひとつであり

なにより、本日の、由紀さおりの出演している
歌番組(録画)のように、昔の歌を、たのしそうに
大きな声で歌う母の姿をひっぱりだしてくれ

それはわたしにとって、幸せそのものでもある。

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ナムル丼

7月25日(火)

一日中、雨。

ときどき滝のような雨。

全体的に休養モードで過ごす。

母、由紀さおりの出演している
歌番組を見ながら、一緒に
たのしそうにうたっている。

平和だ、平和。

      *

お夕飯は、久しぶりに
自宅で炊いたご飯を。

(といっても炊いたのは半月前で
冷凍庫で眠っていたもの)

ご飯の上に、ナムルセット(←昨日購入)と
そぼろ餡(醤油漬のニンニクを微塵切りして
鶏挽肉と一緒に炒め、濃い目に味付けし
片栗でとろみ)を乗せた、平たい皿の
どんぶりもの。

(まあ、ご飯は二人でおにぎり一個分
くらいなんだけどね。どんぶりスタイルは
滅多にしないが、なかなかよかった)

あとは

豆腐とエノキとワカメの味噌汁と

いつもの蒸したり塩もみしたりした
夏野菜のあっさり副菜を。

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カーテンと既成観念

カーテンの話に戻るが

帰宅後、母ちゃんが

「レースのカーテン要らないんだけど」

と、のたまったので、のけぞった。


よくよく考えてみると

「レースのカーテン使ったことがない」という
彼女の言い分には、同意しかねるものの

「ふだん、ほとんど使わない」
とは言えるのである。

実家のカーテンは

「全開するか or (夜間)閉めるか」の
ほとんど二択であって

レースのカーテンだけ閉める
なんてことはめったにないのだ。


本日注文したカーテン、当日中なら
変更やキャンセル可能なので

一瞬、「レースだけキャンセルする?」
案も浮かんだのだけど

(ぱっと思いつきでキャンセルして)
あとで後悔するのも困るしなぁ。。。

(キャンセルは一瞬でできるが
また注文するとなると、おおごとだ)

と、そのままにしておくことにした。


(後日談→) レースのカーテンは
なければないで構わないし、むしろ
カーテン周りがすっきりしてホコリも
溜まりにくい利点があるかも

という思いが残った。

なによりの教訓は

カーテンはドレープ(厚手)とレースが
セットになっているもの、という観念が
我のなかで凝り固まっていたことである。

実はカーテンなんて「ない」ならないで
生活はできるし、とくに、うちの場合は
ドレープだけ、あるいはレースだけでも
一向に困らない・・・ということに
気づいたのである。

あー、既成観念よ!


(宅地の密集した都会なら
レースのカーテンはプライバシーを
守るのに必須かもしれんけど・・・)

(ちなみに今回オーダーしたのは
縁側である廊下のカーテンである)

わたしはね、近年思うのだ。

隠す、閉じる、方向にすすむより

見えても困らない、開く、よう気持ちや行動も
シフトしたほうが

ラクだし、安心安全に暮らせるのでは?

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お惣菜との関係

補足

しかし、やはり思うが
ご飯は自分で作るに勝るものは
ないよなあ。

巷で売られている
バリエーション豊かなお惣菜の数々・・・

「買って来たほうがお得」だし
場合によっては
「幅広い食材・調理法」を楽しめる

だから、気分転換する意味含め
生活の知恵として利用するのは
まことにけっこうなことだとは思う。

でも、そこには「安心」が欠けるし

(添加物の使用とか、舌をごまかすため
多用される甘味料とか、もちろん
揚げ物の「油の質」も気になる)

自分のなかの、なにかが
「さみしい」と言っているように
感じるのだよ。


今後も、わたしにとって
スーパーのお惣菜は、ときどきの
息抜きであり、ときにご馳走であり
の位置づけだろうな。

ま、高齢となった将来の自分と台所の
関係はまったく未知の世界で
そのときは、毎日が
「出来合い惣菜のパラダイス」になっている
かもしれんけど。

(それはそれでいいのだろう。自分の
納得できるかたちで折り合いをつけていく!)

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カーテン注文

7月24日(月)

思い切って、カーテンのオーダーに行く。

ドレープ(厚手)はすぐに決まったが
・・・廊下の壁が抹茶色なので、同系色にしようとは
思っていた。落ち着いた薄い緑系の、派手じゃない柄・・・

レースが、なかなか決まらん。

わたしは「レースのカーテンって、透けて当然」と
思っていたのだが、今の時代は違うのね。

「外(明るい場所)から中が見えない」だけじゃなく
「中から外も見えない」のか・・・。

なーんか、それって、圧迫感あるわ。

(母ちゃんに電話で確認したら、透けなくてもいいわ
ということで、結局、透けない仕様のものに決意)

ドレープとセットではないのだけれど
柄に違和感のないものをチョイス。

ふー。

お次は、書類上の注文。

老眼鏡を借りて(!!!)、測ってきた
それぞれの長さを伝える。

(やっぱ、かなりのイレギュラーサイズなのね。
お店のほうでも戸惑っておりました・・・)

(計4セット・・・8枚・・・、一続きの廊下なのに
サイズが全部ばらばら)

来月上旬には仕上がる予定。

            *

夜はいつもの野菜のほか
買って来たお惣菜を並べる。

(代わり映えのしない自分のご飯に
イヤ気がさしていた今日この頃・・・)

普段は買わない、スーパーの煮物
(焼豆腐、筍、卵、椎茸、こんにゃく
大根、人参、菜っ葉、だったかな)も

ひじきの五目煮も、おいしくて

・・・スーパーの和の惣菜って、甘すぎる
イメージがあったけど、これは違った・・・

ありがちなセリフ、でもわが家では
これまでほとんど登場しなかったセリフ

「1~2人前なら、買って来たほうがお得よね
(一度作ると大量に作ってしまうので、1~2人だと
そればかり食べなきゃいけなくなるし)」が

おもわず出てしまった。

ちなみに、メインは、トンカツ。

これも買って来たものである。

高齢親子の食卓では、すでに何年も前から
極たまにの天麩羅や揚げ焼きを除いて
カツなどはすでにお店の惣菜にシフトしている。

            *

たいした運動量ではないのに、今日は

長年の懸案だった用をこなしたのと

公共交通を乗り継いで、おまけに
帰りは豪雨のなかを移動したので
(実家の近所が冠水してた!)

思いがけず疲れたようだ。

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「感情」主義

好きとか、キライとか
共感するとか、共感しないとか
・・・そういう個人の感情を
至上主義的に盛り立てる場面を
近年見かけることが多い。

「感情」を大切にするのは
個々の尊厳という意味で
大事なことだと思うけれど

感情って、たぶん
わたしたちが思っているほど
立派なものでもないのだろう
(と推察。感情はご都合主義だし)。

感情を至上とする馴れ合った意識が
いつのまにか「不本意なこと」に
迎合するオトシアナをつくる
なんてのは、日常に度々潜んで
いそうだし。



名越康文さんのツイート
https://twitter.com/nakoshiyasufumi 2017年7月20日 より

好き嫌いでものを判断すると、始めは大いに自由を感じるが、次第に他人の好き嫌いに支配され始める。迎合である。つまり、好き嫌いは人間の当たり前の感情だが、主義になるべきレベルではない。しかし思想というようなレベルでも、日本では好き嫌いが無意識に混入し、固定した仲間になって行く。

そう、好き嫌い言ってる内に、人一倍好き嫌いが言えない立場になって行く。群れの構造。

では好き嫌いとは何なのだろうか。少なくとも、判断基準として避けなければならない「好き嫌い」とは、自分の中に植え付けられた、感情を伴う固定観念である。ここに至ると、人間は突然、ある固まった同じ表情になる。


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大雨の日曜

7月23日(日)

朝から、はげしい雨。

忘れていたが、当地では
まだ梅雨だったのだ。

外出の予定はとりやめ
(冷房をかけずに)ラーメンを食べ
気づいたら昼寝をしておった。

        *

暑いと、甘いものも「和」好みに
なるのだろうか?

最近はチョコでなく、黒砂糖を
かじるのが習慣だし

珍しく「ぜんざい」なんてものも
きのう買ってしまった。

そういえば、油摂取も自然と
少なくなっているような・・・。

油はある程度、摂ったほうがイイ
のだよね。

(生野菜を食べるときも、油と一緒
のほうが栄養を吸収されやすいと聞く)

        *

今夜は、残り物が色々あったし
(きのうの、カツオたたきとか、海苔巻きとか)
母ちゃんが退屈そうだったので、リクエストして
茄子を中心とした野菜の味噌炒めと
長葱入りの卵焼きを作ってもらった。

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夕の蝉

7月22日(土)

少し曇っている、と油断したら
いっちょまえの猛暑日であった。

スーパーに食糧品の買出しに
行っただけで、へろへろへろ。

         *

最近、あまり眠れていない。

今朝も早朝から、草刈り機の
うぃぃぃ~、がぁぁぁ~ という
不快な音が枕元に届き

(ここら辺では、朝の5時台、6時台から
農作業する人の声や機械音が響き
わたるのが日常)

いつもは暑さや明るさに負けない
どころか、騒音にも負けず寝ているのだが
今日は、わしの睡眠力のほうが
負けてしまったぞ。

         *

冷たいものばかり、食べたり飲んだりして
胃腸も疲れているような・・・、と気づいて
いるのだが、それでも、ついつい
冷たいものを飲み、冷たい献立になってしまう。

明日の昼は、冷房がんがんかけて
あったかいラーメン食べようかな。

         *

冷房になれていない我が家では
27度くらいの設定だと、とたんに
身体が痛い! 感覚が押し寄せてくるので

今日は28~29度(ほとんど29度)の
設定で終日過ごす。

(居間と、となりの台所を冷房)

快適であった。

今年も、蝉は夕から夜にかけ
鳴く生き物となっている。

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内田説「法治から人治へ」

日々の光のようなものは
ひきこもりの我にもあって
その一つは、どこかの誰かが
小さなメディアからこの世に放った
「世界の見方」であることも多い。

毎日拝読している
内田樹先生のお言葉には
ずいぶん救われてもいる。

(大手新聞に掲載されたばかりの
内田先生のお話が、ラジオ番組で
読まれることもあるのだが、それも
いつも惚れ惚れする観察力で
ああ、こんな大人がいる世界は
まだ大丈夫だと思わせられるんだよね)

(生きる安堵が見込まれる・・・
良心が担保される感覚・・・)

内田先生は、以前(ゴッチさんのサイトでだったか)
自分の文章が引用されることは全然かまわない
それどころか、ただで考えを広めてもらえるのだから
署名を変えて引用者の名前で発表されても
おおいに感謝するくらいだ、という意のことを
話されていて・・・・ほんと太っ腹。身近にいたら
絶対に惚れちゃうわよね・・・

わりと、わたしは自分のブログでも
遠慮なく、内田先生の文章を引用させて
もらっている。

 。  。  。  。  。  。  。  。  。  。  。

以下、2017年7月20日
内田樹氏のツイートより

電話取材お題は「法治から人治へ」。法治というのは私人が私権・私利の一部を「公共」に供託し、権限を付託された「公人」が私人間の利害を調整し、資源を分配するという仕組みのことです。ですから、「公人」は「私人としては競争者・敵対者である他の私人」の利害も配慮しなければならない。

公人としてふるまうときには私人としての判断基準や行動規範を「かっこに入れる」というのが「法治」の基本原理です。でも、前世紀末から「公的場面で私人としての価値観や物言いを剥き出しにする」ことが「裏表のない、正直な、人間として好ましい」ふるまいだという見方が支配的になってきました。

そういう人が「公人」になると、供託された権限や資源を「オレの身内」には手厚く配分し、「オレのキライなやつ」には何も与えないということになる。それが「人治」です。いわば近代市民社会の原理を否定して、前近代に退行したわけですけれど、この「中世化」は世界的規模で起きているようです。

という話をしました。どうして「中世化」が起きたのか、理由は複雑です。理由の一つは経済活動のグローバル化・企業の無国籍化によって「公共」という概念が空洞化したことです。経済活動のもたらす利益はできるだけ税金として公共に供託されることなく個人資産として排他的に蓄積されるようになった。

もう一つは公的立場にあって権限が付託されているときには私見を抑制し、私権を行使しないという自己抑制の技術が失われたことです。むしろ弱い立場にあるときは言いたいことを我慢し、権限が与えられると嵩にかかって言いたいことを言い、私利私欲を追求するようになった。反対なんですけどね。


 内田樹ツイートサイト https://twitter.com/levinassien 

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ゼリーの悲劇

7月21日(金)

朝、ビール、不覚にも
2本飲んでしまった。

(早起きしなきゃ、と思って
ほとんど眠れなかった、前晩)

そして、午前中、二度寝。

        *

起きたら、室温34度の居間で
母、テレビを見ながら、ちんまり
寝転がっている。

「暑くないよー」って。

(朝、エアコンをかけて、今日は暑くなりそうだし
このままでいてくれるだろうと、我は9時ごろ
別室に移ったのだが、その後、彼女はエアコンを
消して、いつもの窓開けの部屋にしたのだな。

年寄りは暑さを感じにくい、という説は
たしかにうちでも実証されている、日々)

        *

暑さで身体がバテているのだろう

(立ち仕事したくない、少しでも楽に作業したいと)
涼しくなった居間で、ゼリーを作る準備をしていたら

溶かしたばかりのゼリーを
床の敷物にぶちまけ・・・てしまった。

嗚呼、ああ。

        *

すぐに洗濯機に放り込み

でも敷物はかさばって、洗濯曹の中に
入れるのがやっとで、自力でぐるぐる
回って洗濯できないので

手でアシストするべく
洗濯曹のなかの敷物に触ったら

ゼリーが、しっかり
敷物にへばりつき、固まっていた。

(井戸水だから
外が暑ければ暑いほど
水が冷たいのよね。

敷物にこぼしたときは
液体だったゼリーが、洗濯中に
固まったのである)

お湯を沸かして、敷物にかけて
ゼリーを溶かす手間まで発生。

        *

のち、気をとりなおして
缶詰みかん(国産)と牛乳で
ゼリーを作りなおす。

(考えてみれば、溶かしただけの
段階でこぼしたのだから、まだ
良かったともいえるわい)

        *

ふーー、本日も猛暑を生き延びた。

日が沈んで、アジサイの剪定。

夜は(解凍した)カレーなど。

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「本当の怒りの理由」

家族の半世紀あまりの
モノモノを片付けて

これまでわたしは
感情をおおいに乱してきた。

(最近、急に熱が入ったように
見えるかもしれないが、これまで
いく度も片付けの波はあったわけで
今回が初めての片付けではないのだ。

その度、わたしは怒りのようなものに
襲われて、挫折を繰り返してきたのだな)


怒りのようなものを主とする
乱れた感情は、誰から与えられた
わけではない、自分が作りあげている。

ついでをいえば、誰かが片付けしなさいと
命じているわけでなく、(母の目には
ゴミがゴミとは映らぬようだし、四半世紀前に
嫁いだ姉にとっては、ヒトの家の感覚のようだし)

わたしがわたしの欲求にもとづいて
行っている行為に、わたしが勝手に
怒りのようなものを生み出しているのだね。


ニー仏センセイが仰っていた。

怒りに限らず、人間が自分の感情の説明として意識する「理由」というのは、基本的に全て後付けなんだろうと思いますが、かりに「感情の理由」というのが一般にそうした虚構的な性質のものなのだとしたら、そもそも「本当の怒りの理由」なんてどこにもないのかもしれません。

(  https://twitter.com/neetbuddhist 7月14日より )

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糸のような月

7月20日(木)の四

夜は、台所の地獄のような
エリアに手を出して、ビンを
集める。

(中身を捨てたり、一部移し替えたり。
お湯で洗っても除けない汚れも・・・)

すでに納屋で回収日を待っている
デイリーなビン・・・栄養ドリンクが大半・・・
と合わせたら、何十本になるやらのぉ。

しかし、まあ、ビン処分も
完全に、ではない。

母ちゃんに「残っているよ」印象を
アピールするため、あえて全部には
手をつけず、の策である。



ここ数日、寝る前に窓外をのぞくと
糸のようなお月様が納屋の上に
ちょうどのぼったタイミング。

今夜は濃いオレンジ色で
姿形がいっそう繊細に映る。

おやすみ、お月さん。

(じきに太陽ものぼってくるね)

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マヨちゃん白旗

7月20日(木)の三

きのうの二番煎じで
マヨちゃんサラダを作ったら
今日はイマイチ。

(柚子甘味噌と米酢を引いて
代わりに、レモン果汁をプラス)

うーん、近年、マヨちゃんを摂取しにくい
カラダになっているような。

キューピーさんを止め、一時評判になっていた
松田のマヨネーズを使ってみたこともあるのだが
わたしの舌には、その違いがわからず
・・・・・・ってことも。

ただ、スーパーのお惣菜のポテトサラダは
ときどき食べるので、マヨちゃんが完全に
苦手になったわけではないと思うのだけど。

まあ、きのうの今日で、二日連続
マヨちゃんサラダを試みたのが
(舌が飽きて、イヤんイヤん)
敗因だったのかも。

ちなみに、今夜のほかの献立は

味噌汁
(じゃがいも、玉葱、油揚げ、えのき、ワカメ)

ちぢみもどき
(とうもろこし、枝豆、トッピング)

市販のしゅうまい
(お肉がぎっしり、食べ応え満点)

玉葱の酢漬(頂きものの缶詰
紅ズワイガニの身をうやうやしく乗せる)

ふー。

最近は、肉や魚を調理する気が起きなくて
レトルト系のものに助けてもらっている。

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盆栽~永遠の未完

7月20日(木)の二

夕、庭の水遣りをしていたら
突如、M氏現れる。

何日か前に、電話をしたら
「かけなおす」と暗い声で言われ
ガチャ切りされた・・・以来
音沙汰なかったヒト。

6月くらいまでは、シイの木を
自分で切る気持ち、満々だったのだが
(そのために地下足袋まで購入して)

いつのまにか、わしわしわしっと
新芽は強固な枝となり、枝葉の隙のほとんどない
こんもり茂った大木を、どっから手をつければ
いいやら・・・、手をつけても剪定に
何日かかるやら・・・、しかもその枝葉の
後始末を考えると、途方に暮れる・・・
状況となり

自分で手入れしたいという執着には
目をつむり、プロの職人に頼むことにして
M氏に電話をしたのだった。



突然現れた二年ぶりのM氏

今は忙しい時期のようだが、お盆前までには
なんとかシイの木の手入れをしてもらうよう
話はまとまる。

あと、五月に盆栽の植え替えの手伝いを
依頼する電話をしたとき、「松柏が中心でしょ。
早くても10月以降のほうがいい。今は時期じゃない」との
アドバイスでおわっていたのだが

今期わたしが一番心配している
(買ってから半世紀経っている、おそらく
樹齢は百年以上であろう)盆栽を見て
危ない状態であることを示唆。

むんーーーーーー、素人のわたしから見ても
その予感は十分にあったが、盆栽知識人から
見ても、やはり、そうか・・・。

あと、夏場は朝夕の日に二回の水遣り
(しかし朝は葉水は避ける)という話なども
伺う。



盆栽趣味人だった元世帯主の残した
遺作の数々を、ぜんぜん興味のない
遺族(母と我)がここまで

・・・もう、前のレベルは全然保っていない。
間延びした枝、枯れて不自然に切った枝
生命力そのものを失くしてしまった盆栽も
幾多あれど・・・

やっているのは、希少なことだよね。

元世帯主は、「孫の代までやって
やっと一人前」と盆栽のことを言っていたっけ。

(三世代世話してやっと一人前の盆栽になる
という意味だろう)

盆栽は、数十年なんてかわいくて
百年以上の年月かけて
たのしみ続けるものなのだ

と、誰かに言われたら

黙って頷きそうな、今の我である。

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