ともみ@ピクニック

「セラピスト」1

だいぶ前に読了した、最相葉月さんの
『セラピスト』の感想メモを書いておこう。

          

あー、読み応えある、渾身のルポだった。

さいごの章に、こんな著者の吐露がある。
いや、違う。私も、知りたかったのだ。心について取材しながら、自分の心を知りたかったのだ。私は、自分のことなら知っていると思い込むことで、自分を直視することを避けてきた。人に話をしてもどうせわかってもらえないだろうと決めつけることで、人に心を開くことをできない人生を生きてきた。中井久夫はそれを私に伝えようとしたのである。(440頁)

まわりまわって、著者が、この取材を始めた
おのれの隠れた動機に気付く場面だ。

なお、中井久夫とは精神科医であり
「風景構成法」という心理療法の発案者であり
著者は彼のもとに通い、実際にカウンセリングの
一端を体験している。

日本の心理療法家といえば、河合隼雄が有名であるが
著者は彼が登壇する前の日本の精神医療の夜明けから
現在のカウンセラー事情まで、丁寧に追跡し

さらに取材の対象を自身の存在にも置いて
この作品を仕上げている。

まあ、作家のサガかもしれないし、それにより
自己治療の一端にもなっているのだろうけど・・・
わたしは読者として、最相さんに敬意を払いたい。

ところで
本書には数々の「へぇ~」と思わされる
エピソードがあったのだが

精神の病といわれるものにもトレンドがある!
という話には、「へぇ~、へぇ~、へぇ~」だった。

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「セラピスト」2

最相葉月さんの『セラピスト』のなかで
印象に残った文章を書き写しておく。

         

「この来日に限らず、一連のワークショップを通じて思ったのは、日本の皆さんも、誰にも咎められない受容された環境にいれば、自分の抱える問題を自分で解決する潜在的な力があり、その力に対する確かな渇望があるということです」(139~140ページ)

←カール・ロジャーズのカウンセリング(非指示的療法)を日本に伝道した、ローガン・ファックスの回想


この研究を通して山中が認識したのは、絵は防衛手段である、ということだった。絵によって、真実が自分に迫るのを防御する。絵があれば、本当の自分を見せずに済むという意味だ。自ら絵を描きたいと願い出た患者たちには、うまいと褒められることへの期待があった。それは、表面的な自己満足である。本当の自分に肉薄し、晒け出し、そこからもう一度、自分を再構築するという考えをもちにくい。そのため、いつまで経っても治らず、むしろ社会復帰療法で体を動かすことでようやく退院することができたのだった。(略)〔改行〕看護師を困らせてばかりいた第二ターゲットの患者たちの退院が早かったのは、山中との個人面接を通して、ネガティブな自分は仮の姿であることを発見したからだった。これからは本当の自分を生きてもいいのだと気づくと目に見えて回復していった。(195ページ)

←初めて山中康裕が絵画療法を試みたとき、第一グループ(以下G)「長期入院患者(言葉による伝達ができない統合失調症患者たち)」、第二G「看護師を困らせている患者」、第三G「自ら願い出た患者」を集めた。結果、第一Gと第二Gには治療効果が現れ退院する者たちもいたが、第三Gにはちっとも効果がなかったことを振り返っての言葉


妄想は統合失調症の専売特許ではない――。私たちが言語をもち、言語の世界を生きる限り、そこから逃れることはできない。だからこそ、いったん因果律から解放される必要がある。特に治療の場面では。(247ページ)

←音楽が頭のなかに入って、なかなか離れない現象って、誰でもあるでしょう? まもなく改定されるアメリカの精神医学会の診断基準には「音楽が頭に入ってしまう」ことも病気の診断基準に付記されそうなのである。という話のところで。


「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら多いに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すなということです」「ええ」「箱庭も、あれは、全部物語を紡がない、ということも重要なのでしょう。(略)」(366~367ページ)

←「絵画や箱庭が治療的だとされるのは、そこに物語が作られるからか?」という著者の質問に中井久夫が答える場面。


つまり、クライアントが症状に悩むとき、それを解消することも意味があるし、解消せずにいるのも意味があると思っています。そして、おそらくそのどちらかを選ぶかは、クライアントの個性化の過程に従うということになると思います。(略)クライアントの最初の意識的な訴えは、症状を早くなくしたいということだし、そのことも決して忘れてはなりませんが、私の相手をしているのは、クライアントの全存在であり、それがどのように進んでゆくかは、よほど慎重に、そして、私の態度を柔軟にしていないとわからないと思います。(略)私は今はクライアントの症状がなくなったり、問題が解消したりしたとき、やはり喜びますが、根本的には、解消するもよく、解消せぬもよし、という態度を崩さずにおられるようになりました。(425~426ページ)

←河合隼雄『ユング心理学と仏教』より、孫引き

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太郎さんに拍手

山本太郎さんの国会での質問が
ものすごい頻度でネットシェアされた
(1月25日)。

こちらのサイトでは、ビデオのリンク
&文字起こしがありますの。
http://useful-info.com/yamamototaro-representative-questions-in-diet

【追記 山本太郎さんのサイトでも、ビデオ&文字起こし
が載った。内容は上記のサイトと同じであろう。
http://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/6635 】

なお、この質疑の最後に、議長が
「山本君の発言につきましては、速記録を調査の上
議長において適切に対応いたしたいと存じます」
と述べている。

ふうっ。

これも現政権でおなじみの「削除」となるのか。
(一旦記録された公文書を破棄するのもお得意ですよね)

そして、翌日(1月26日)には
予想されていたこととはいえ
それがマスメディアにおいて
ほとんど黙殺されたことを憂う弁が
この日本の片隅で見られた。

たとえば、山崎雅弘さんは
ご自身のツイッターで https://twitter.com/mas__yamazaki

(前略)主観だけで言い放たれる安倍晋三首相の演説とは異なり、大手メディアが触れない事実をいろいろと挙げているが、これがなぜ議事録から削除されるのか理由がわからない。安倍晋三様に不都合な質問は、抹消されるのか。

「戦後の日本人は自虐史観に洗脳されてきた」と呪文のように唱える人には、共通の「パターン化された単純な思考」が見られるが、こういう判で押したような「パターン化された思考」の植え付けを、一般的には「洗脳」と呼ぶ。洗脳が完了すれば、自分と異なる認識の持ち主が「洗脳された人間」に見える。

山本太郎参議院議員の長い代表質問、NHKが報じたのはこれだけ。安倍晋三様に不都合な事実の羅列は無視し、ありきたりな文面に無害化されている。これだけ見た人は、安倍首相が理路整然と山本議員の「言いがかり」を論破しているように思うだろう。


などと、(わたしからしたら)まっとうな
意見を寄せられていた。

これ、特別なことじゃなく、もはや
デイリーな国内行事なわけなんだが
・・・情報操作が当たり前で、情報弱者は
大手メディアの情報を信じるしかない。
片や、コツコツとウオッチングを続け
あきらめることなく情報発信を続ける人たち・・・

たまには、山崎さんのような方に敬意を払うためにも
そしてなにより、削除される国会議事録を憂いての
一国民のメモとして、ブログを記しました。

あっ、肝心なことを書きそびれていた。

山本太郎さんの質問は、大事なことを
とてもわかりやすく、的確に語っており
心のなかで拍手しながら聴きました。

こうなったら、私利私欲ばかり見て、立場を
守ることに精一杯になっている既成(製?)議員の代わりに
「A I 太郎」を、国会に送り込むのはいかが?


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土鍋カレー

1月24日(火) その三

実家にいると、どうしても
テレビに触れる時間が多くなる。

本日も
「日本人が…日本人が…、嗚呼
日本人の力士が横綱にぃ~」とか
「天皇退位に関して有識者会議が
論点を整理~」とか、あいかわらず
突っ込みどころ満載すぎる
(逆に言えば、突っ込みを誘わない
ものはない)TVニュース界だな。

普段、できるだけ胸に抑えてはいるものの

たとえば今日のように
「なんで日本人を強調するんだ?
モンゴル人をはじめ、外国人力士のおかげで
相撲界が生き延びているのにねぇ。(彼らが
いなければ日本の相撲はもっと衰退してるかも)。
外国人力士に失礼だよー」と

ときどき声を出して突っ込むことがあり

母にとっては、「なんでこの子はいつもTVに
文句を言っているのだろう」と訝りの材料かも。

         

夕飯は、土鍋で煮込んだカレー。

玉葱、ニンニク、ショウガを、第一陣
じゃが芋、人参、かぶらを、第二陣
冷凍トマト、鶏ひき肉を、第三陣とし
ストーブで、ぐつぐつ。

いつもの「カレー専用の深フライパン」より
短時間でおいしくできたのではないかしら。

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《家内労働者在中》

1月24日(火) その二

どかーんと、積雪増えた。

今日こそ「自宅に戻るぞ」だったのに
くじける。

表向きの心理には、こんなドカ雪のなか
母を独りにさせるのは酷だわ(独りが
とても苦手な人。こんな日は気晴らしの
散歩もできないので、つらかろう・・・)という
罪悪感があったのだが

ホントは、「こんな大雪のなか移動したくない」
という自分の怠け心が大きかったのだろうな。

         

こんな日は、雪の重さでたわんと
前傾した庭木(ただし背の低い)の
雪を払ったり

面積は超狭いのだが
(なんせ歩く場所だけなので)
雪すかしをしたり。

今日はちょっと背の高い木の雪も払ってみよう
と、シイの大樹の下に放置されていたモノホシ竿
(カラスを追い払うときに使うのに立てかけてあった)
を取りに行ったら

なにやら羽音を立てて、シイの樹のなかから
飛び立っていった。(おじゃまして、ごめんなさい)

数分後、モノホシ竿を元の場所に戻しに行くと
シイの樹からまたパタパタ出て行く鳥が。
(たびたび、ごめんなさい)

エサを探すというよりは、休憩しに来ているのだろう。

         

16時頃、新しく地域の世話役になったお方
(母の遠々々々~い親戚)が、はるばると
スコップをもって雪すかしに来て下さった。

ああ、申し訳ない。

過年、「老人独居宅」と思った近所の方が
雪すかしして下さったことが何度もあるので

できるだけ、早めに雪すかしするように
していたのだけどねぇ・・・。

《家内労働者(わたしのこと)在中》の札でも貼っとく!?

ともかく、わが老婆は、ほんとうに
色んな方面に恵まれていて、つくづく
皆に支えられている高齢生活だなぁ
と、わたくしも感謝しております。

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ビバ睡眠

1月24日(火) その一

きのうは
20時台に就寝し
(最後の一粒を服用)
早々に入眠。

ときどきプチ覚醒しながらも
25時まで眠るものの

毎度おなじみ、その後は眠れなくなって
しまったので、ムリせず居間に行き
録画のテレビを見ること数時間・・・

朝になり、眠くなってきたので
お布団に戻ると、それなりに眠れた 

そして、昼の起床。

午後、じわじわと
「元気になっていく自分」を発見。

ひとことでいうと、身体のなかから
気力が湧いてくる感じ。

「ちゃんと眠れば、こんな元気体になれるんだ!」
と、嬉しい自己発見。

(やはり睡眠はあなどれませんのぉ 

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白菜サラダ(マイブーム)

1月23日(月) その三のおまけ

セロリとカブの麹漬けがおいしかった
という話から、最近の漬もの事情を
書いたので、ついでに・・・。

             

最近のサラダのメインは、白菜。

(冬は温野菜派だったのだけど
今は生野菜にはまっているのだ)

キャベツは硬いのよね~。
その点、白菜は繊維に逆らって
細切りしたら、シャキシャキ維持しつつも
やわらかくていいわ~。

なのだけど、最近の雪中の白菜は
糖度がぐんと上がった分、葉っぱが
やや固めになってきたな~。

と思いつつも、日に1~2度は
白菜サラダを食べておる。

標準パートナーは、生人参(もちろん皮のまま。
スライサーですり下ろすので食べやすい)

それに日替わりの準パートナー(セロリとか
ブロッコリーとかカブラとか)も足して

亜麻オイルのシーザードレッシングかけが
最近のお気に入りだ。

ちなみに、大きいサイズの平皿の半分余に
どっさり生野菜を盛り、脇にハムかウインナー
目玉焼き(両面焼きスタイルで黄身は半熟)
気分によってはフルーツを添えたワンプレート
それにトーストと残り物を並べるのが、
最近の昼に多いパターン。

あっ、そういえば、このごろ
生大根を食べてないな~。

今の大根は甘くて美味なのだけど
白菜サラダのブームに押され、忘れていた。

今度、サラダ仲間に入れてみよう。

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セロリとカブの麹漬

1月23日(月) その三

昼4時間弱お布団で横になる。
(ちゃんと眠っている時間もあるのだろうが)
意識のうえでは、「あー、眠れん」のオンパレード。

どうしてコタツ寝のときのような、気持ちいい
うつらうつらが出来ないのだろう?

起きてからも、カラダ使いものにならず。

夕飯は、解凍したサバ干物を焼いて
あとは基本、残り物祭り。

( ↑ きのう仕込んでおいた
セロリとカブの麹漬けがおいしい)



塩麹もどきと甘酒をミックスしたものに
毎日1~2回、各種野菜を追加している。

食べて、追加して、また食べて、また追加…の
自転車操業的な展開で、漬物というよりは
サラダに近い感覚だ。

年末に漬けた数キロのカブラ寿司は
とっくの昔に食べ終えており、母は
その樽に残った、乳酸菌たっぷりの漬け汁に
大根などを追加しているのだが

わたしは自分のサラダっぽい漬物のほうが
好き。

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イゾラド(は私たちを映す)

1月23日(月) その二

ずうっと前に録画して、途中までになっていた
『NHKスペシャル 「大アマゾン 最後の秘境」
第4集 最後のイゾラド 森の果て 未知の人々』の
続きを観た。

「はぁ、こんな原始的な人々がいるのかぁ」という
文明側のおごりをもちつつ、「わ~、わたしの
ご先祖さんたちもこんな感じだったんだなぁ~
(前々々…世では、わたし自身もこうだった)」
と身の引き締まる思い。

そして、番組の終わり
「イゾラド」と文明側が呼ぶ、森のなかに暮らす民に
向けた質問が、あまりに文明側チックで滑稽だなぁと
感じてしまった。

――文明社会の人間をどう思う?
――あなたたちは幸せか?

「自分たちがどう思われているか」気になるのは
たぶん、わたしたちの側だけ。彼らイゾラドは
「自分たちが文明社会からどう見えるか」なんて
気にしないだろう。

「幸せであるかどうか」を他者に問うのは
おのれが幸せでない感情を存分に
知っているからであろう。

と、文明側にいるわたしは、やや自虐的に思ったのだ。

そして、文明側はもうひとつ質問をする。

―ーなぜ村人を殺した?

これについて、イゾラドは
「あなたたちが先に殺した」と答える。

文明側は、自分たちが理解できない
(例えば、ほんの百年余り前までは
世界中にいたであろう首狩り族など)
殺人を犯す、未文明人を「野蛮」と見がちだが

そのとき、自分たちの罪…例えば
森を破壊して彼らの暮らしを追いやった。
文明側が先住民族に病原菌をもちこみ
彼らを抹消してきた過去…を、おそらく
たいがい、忘れているんだよね。

なお、この質問のあった接触のあと
イゾラドは姿を消したそうである。

(イゾラドを文明側に取り込もうという政府の目論見や
文明社会の好奇心から取材をおこなう者たちに
警戒心を抱いたのであろう)

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今日は3袋

1月23日(月) その一

眠れず、朝。

通常の生活ゴミを1袋と、こっそり集めた
45リットルを3袋、可燃ゴミに出す。

(正確にいえば、一往復のあと
母が起きてきて、「こっそり集め」の2袋目で
彼女の目に留まり、“検問”に遭い、その間に
3袋目を別部屋でこしらえた(古い枕三つ等)
のである)

何年どころか何十年も死蔵されている物々
彼女の知らぬところで処分すれば
少しは物地獄から逃れられる、というのは

かなりヒドイ発想であるとは思うのだけど
そうでもしないと、こちらの精神がもちません。

あきらかにOK受けそうなものは、堂々と処分して
そうでないものは「こっそり」整理してゆく・・・
姑息な手段を今年は敢行しようと思っています。
(すでに敢行中)

というわけで、朝から雪道二往復なり。

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語ってもいい。

ふたつ下と、ひとつ下の続き

。  。  。  。  。  。  。  。  。  。  

だいぶ前、このブログにも書いたけれど

昔は「人類が誕生して以来、戦争は常にあったのだから
“戦争をなくせ”なんて、戯言だ。戦争はなくならない」
という意見に対して、そうかなぁー、そうなのかもなぁー
と、あいまい、あるいは賛同するしかなかったのだが

今ではこう思うのだ。「戦争はなくならない」と言っている
人たちの世界では地球が破滅するまで、たしかに戦争は
なくならないだろう。でも、「戦争はいらない」と感じ、それを
信じる人たちの住む世界では、戦争は招かれないのでは?
きっとそうに違いない、と。

(思考的には「なくせる」「なくせない」のレベルにある限り
戦争は存在するのだよね。そこにあるものとして。
しかし、はなから、その存在を認めなければ、それは
消えうるのではないか・・・。という仮説は、スピリチュアル的
かしら? でも、集合意識の観点からいうと、そうなるよね)

。  。  。  。  。  。  。  。  。  。  

「政治的な正しさ」を語ることに酔うのは問題だと思う。
(語っている自分が好き、みたいな態度は毒)

だけど、政治的な正しさを考え、語り、そこに一歩近づけるよう
努力していかない限り、そこには近づけないんだよ。

             *

自分がつらい状態にあるとき、(腹を空かせた者が
お腹いっぱい食べている人の意見に耳を貸したくないように)

政治的な正しい発言をしている者に対して
ナニ余裕こいてんだよ! 恵まれた状況のお前が憎らしい!
オイラはつらくて、しんどいんだよ。この苦しさどうしてくれるんだ・・・
・・・ああ、ナニカに当たり散らしたい! そうだ、オイラより
もっとつらい思いをしている奴をいじめてやろう。そうすれば
オイラの自尊心が少しは保たれるかもしれないぞっ!

という心境になってしまうこともあるだろう。

そういう己の思考回路に気づかずに、単純に
資本主義ピラミッドの上部を叩くことを正義と思い込んだり
様々なマイノリティをいじめることが世のためになると信じたり
することも、なかにはあるのだろう。

だけどね、そういうことをしている限りは
本当に自分の空腹は満たされないのだよね。

。  。  。  。  。  。  。  。  。  。  

わたしは、プライベートな話をよく書く。

なかには「理想(こうなりたいな~)」というか
「自分に言い聞かせる」ための文章もあると思う。

書くだけでは意味はないし、書くことで満足するのも危険だ。

しかし、理想の方向に(政治的正しさならぬ、おのれ道の正しさ)
アンテナを張らないことには始まらないのだよ。

また理性を脳内体験し、言葉にすることは、自分への
まじないのような意味もあろうと思う。

。  。  。  。  。  。  。  。  。  。  。

要するに、社会的なことも、個人的なことも
わたしの答えは同じなんだ。

「責任をもって語れ。ただし、理想に溺れるな」
(語ることだけに安住するな)

もしくは
「語る前に、行動を始めよう」なのだ。
( ↑ あっ、また理想を・・・

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ポリティカル・コレクトネス

ひとつ下、さらに要約すると

●産経新聞が、「政治的正しさ」を訴える人たちを
批判するコラムをのせていた。

●そこには、「今、世の中が疲弊している一因は
政治的正しい意見を言う人々に、うんざりしている
人たちがいるからだ。(=だから政治的正しい意見
ばかりではよろしくない)」(コラム筆者の)意図があった。

●福祉に携わる人々の人権意識の低さを
ごく一部の不正受給者のせいにするのはおかしい。

●市町村の役人たちの状況をよくしたいならば
「生活保護受給者を減らす」のではなく
福祉に携わる人の数を増やすのが道理である。
(今でさえ、必要な福祉が行き渡っていないのだし)

●わたしたちがわたしたちの世の中をよくしたいのなら
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の大切さを
もっと認識すべし。

●昨今、ポリティカル・コレクトネスは曲解されて
マジョリティがマイノリティを叩く手段とされることもある。

ふんがぁ。

米国では「セレブが言った意見」というだけで
ぶーぶー文句をたれている人がいるようだし

わが国では、芸能人が(石田純一とか)
真っ当な政治発言をしただけで、仲間の芸能人から
失笑される場面があったりして

はたまた庶民のポリティカル・コレクトネスな発言も
公の場では波風立たなくとも、その裏ではしばしば
「お花畑」と即座に見下される風潮もあるけれど

(↑ ある種の人々は「リベラルの匂いがする」
というだけで嫌悪する思考回路をお持ちなのよね)

(近年では、外国籍の人や弱者の人権を守る意見の人に
「売国奴」なんていう、意味不明なレッテル貼りも見受けられる)

くじけずに、生きていきましょう。

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生活保護ジャンパー問題その後

荻上チキさんが、先日(1月19日)のラジオで
産経新聞のコラムを取り上げていた。

わたしは昨今の「意味を吟味せず、リベラルを
リベラルという理由だけで叩く」一部の風潮を
常々おかしいと思っていたし・・・
チキさんの意見に一票を投じたい。

以下、チキ発言をできるだけ忠実に要約。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(まず産経新聞に何が書かれていかたの説明)

小田原市の生活保護のジャンパー問題を
批判している人たちを叩く論調になっていた・・・

政治的に正しいことばかりを言っていると
現場で疲弊が広がる・・・とか

建前の押しつけに疲れたアメリカでは
差別的な発現を繰り返すトランプ氏が大統領になった・・・とか

要は、正しいことを言う奴がいるから
差別発言に酔うような奴が生まれてくるんだ・・・
そんな(産経の)論調。

(中略)(ここからチキ節が加速)

「職員たちはますます仕事に追われるようになった。
同時に、職員たちの人権意識を糾弾するだけでは
すまない問題になった」と(産経は)書いている。

「この間、暴力の危険も増えている、別の自治体では
殺人事件も起きている。第一線の過酷な状況に
あらためて光をあてる機会にすべきだ」
というふうに(産経は)書いてある。

職員の人たちが大変な状況にあって
より追い込まれている、ということが書かれている。

それだったらそれで、今目を向けるべきは

自治体の一人ひとりの意識ももちろん問題なんだけど
そういうことを改善するには
生活保護を支給しやすくするために
窓口の人を増やすとか、担当のケースワーカーを増やすとか
そういうことが義務として必要だよね
という話をすればいいと思うんですよ。

しかし、産経新聞は最後に
ポリティカル・コレクトネス批判につなげている。

つまり、そういう政治的正しさに疲れた人たちが
アメリカでトランプ現象を生んだ、と。そういった
「実体と離れた正義の声だけがまかり通れば
疲弊が広がる」と書いてある。

(産経新聞が)ポリティカル・コレクトネスが嫌いなのは
よくわかるんですけど

いくつか整理すると

不正受給の割合は、生活保護受給者の
ほんの0.数パーセント
かたや受給すべきなのに受給していない世帯の
割合は受給者の何倍にものぼっている。

生存権が満たせていない状況がある。

なぜか? 「福祉を受けることへの後ろめたさ」や
「役所での窓際作戦」や「そもそも制度を知らない」など
適切に生活保護を利用されていないほうが高い。

そうしたなかで、(我注・一部の)不正受給を取り上げていって
ある種「実体から離れた正義の言葉」を振りかざすことによって
生活保護全体を追い込んでいった。

そういった現状があるなかで、今回のジャンパー問題が話題となり
生活保護バッシングだとか、生活保護に対する負のイメージがつい
ている現状に対して異議申し立てをしているという状況が
そもそも生まれているなかで

何かポリティカル・コレクトネスのほうが、とっくに世の中で強くって
多数派で、抑圧になっているんだというイメージで産経新聞は書いていて
まあ朝日新聞はそうした論調で書いているかもしれないけれど
それは多数派にはまだなっていない

そうしたなか、結果として(ジャンパー騒動を)擁護する論調になってしまうと
ますます生活困窮している世帯の方が苦しむということになるので
基本的にはそうした言説を批判するのではなくて、より「ホワイトな職場」に
公務員の方々をしていかないと、市民生活もホワイトにならないよねって
いうほうに話をしていけば済む話なんですよ。

ポリティカル・コレクトネスは最近
日本でも叩かれはじめていて、それに対して
不思議だな~と思うのは

ポリティカル・コレクトネスは、まだぜんぜん実現していない
この社会において。例えば、同性愛差別はやめましょう
宗教差別はやめましょうとか、ある種の建前は
一部の人たちの言葉であって、まだまだ社会的にも
制度的にも、人々の意識の上でも、少数派なんですね。

そうしたなか、ポリティカル・コレクトネスは
マイノリティーが受けている攻撃から守るためのものであって
つまり抑圧を受けている者が跳ね返すための言葉であって
誰かの言論を弾圧するためのものではない。

ただし、差別発言をして当然だと思っている人からすれば
「その発言を禁止されるなんて」と抑圧に感じるかもしれないけれど

その感じていた抑圧の何倍以上も他の人を抑圧している事実を
自制する理論がポリティカル・コレクトネスなんですね。

よく「政治的正しいこと、いい子ちゃん、優等生ぶったことを
言い続けることが反感を買うんだ」と、言われるんですけど
これには二つ意見があって

一つは、本当にその図式なんだろうか?

もともと日本は保守的な人が多い状況のなかで
ゆっくりゆっくりようやく声を上がられる状況に
なってきたという順番なんですね。

彼らは別に反動で保守になったのではなくて
そういった声がだんだん出てくることによって
自動的にゆっくり部分的に受け入れるという順番なんですよ。

ようやく出た「小さなささやき」「小さな叫び」というものを抑圧だと感じて
そうしたものが蔓延した社会が生きにくいと感じたときに
それが「自分たちのなにかが奪われる」という視点ばかりが考えられていて
この社会がどういう社会になったら多くの人が暮らしやすくなるのだろうか
という視点が欠けてしまうということがある。

当然ながら、コミュニュケーションの仕方には工夫がいるし
色々反感を買わないように工夫が場合によっては必要なんですけど
声を上げて政治を直すという社会運動の役割もあるから

そうしたことも含めて
いろんなポリティカル・コレクトネスの意義は
まだまだ実現していない社会においては重要かなぁと
思うんですね。

もう一つ、個人的意見としては
政治的正しさ、優等生的な意見と揶揄されたりするんですけど
その意見なるものを誰も言わなくなったら、どうなるんだ?
と思うんですよね。

当たり前のように思えるかもしれないけれど
まったく実現していないとか、あるいは
「こういう声も聞かないといけないじゃないか」というときに
「いい子ちゃんぶって」とか「政治的正しさばかり追求して」と
言われるかもしれないけれど

そういうことを全然言わなくなって
ある種の本音主義で、いいじゃん差別!とか
いいじゃん放っとけよ!という風潮を強化する
ようなことばかりやれば
そりゃ、反感を買わないですよ、その人たちの。

でも、その代わり、差別というものは温存されていきますよね、と。

ある意味、政治的正しさを追求することは
今ある既存の秩序や風潮を肯定する人たちの反発を買うことは
避けられないところもある。

そうしたなか、反発した人たちが「差別の言論」に傾いたのは
なにかポリティカル・コレクトネスの発言をしたリベラルな側の責任だ!
みたいに全て押しやる

いや、そもそも、そういう発言を是正する空気が
色んな人たちを押し込んできたわけで

それを跳ね除けた人たちに、「ああ、また跳ね除けたから
オレたち攻撃しちゃうもんねっ」ということを言うという
そのものがマジョリティ目線の、なにか抑圧的なものだったりする。

アメリカで起きていることは、そうしたなかの新たな弱者層
新たなマイノリティ層が見えてきたから、そうしたことをケアしなきゃね
と、語られなおされているわけですけど

一方で日本は、例えば生活保護バッシングする人たちが
生活が安定しているのかというと、意外と苦しいという状況もあったりして
そういう「苦しい人が苦しい人を叩く」という状況自体を改善したいよね
という議論がHAPPYな状況(我注・?)かなっという感じがするんですが

知識は知識として、「実際はこうなので叩かないほうがいいよ」と
言い続けていかないといけないし、「こんなジャンバーは
作らないほうがいいし、着ないほうがいい」と言わないとダメ。

「へ~、ジャンバー着たのぉ~。ふ~ん」ってスルーしたら
ダメでしょう。っていうときに、政治的に正しい
「ジャンバー、ダメでしょう」っていう言葉を言わなかったら、問題ですよね。

ということも含んで、たぶん今後日本でも、アメリカの姿勢も学んで
「ポリティカル・コレクトネスを叩こう~」「あいつらのせいで息苦しくなった~」
みたいな声が盛り上がっていく、今も盛り上がっていると思うんですけど

そうしたなか、そうかな? そう? 含めて疑問に思いながら
これまでどおり「こんな視点が必要なんじゃないか」と
色々発言を続けていく・・・・・・(以下略)。


――以上、「荻上チキ・Session-22」(2017年1月19日)
オープニングトークを要約文字起こし――

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強烈一味

1月22日(日)

45度の傾斜で降る雪。

あまりの運動不足なので、夕方
散歩に行こうとしたけれど
たいそう水分含んだ「べちゃ雪」で
滑りそうだったので、コタツに舞い戻る。

こんな寒い晩は、キムチ鍋でしょ、っと
食材を土鍋に並べ、ストーブで温める。

ぐつぐつぐつ。

玉ねぎ、にんにく、人参、白菜、しいたけ
結びコンニャク、ミニいりこ、昆布、焼豆腐
豚肉、キムチが踊る。

ぐつぐつぐつ。

味付けは、日本酒、甘味噌、「キムチの素」
それから自家製一味。

一味は、市販の七味に加えて使っていたのだけど
(これが絶妙な辛さ!)、先日、小瓶に一味を
追加しすぎて、七味と混ざらなくなってしまい

強烈な個性(辛さ)を発揮している。
(なので、今日は豆板醤はお休み)

〆は、うどん也。

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シーソーゲームのひと時に

1月21日(土) その三

日本時間でいうところの、夕べの
オバマ夫妻とトランプ夫妻さんが
一緒に居合わせる場面を見て

「苦手な相手だからといって
それを表情に出さないことは
大事なのかなー」と

(今更なのだけど)思った。

わたし、ダメなんだよね。

苦手な相手の前でニコニコできない。

やってみたことゼロではないが
基本的には超下手だと思う。

(好きでも嫌いでもない相手や
なんらかの集合体の前では、思考より先に
ニコニコ表情を出す癖はあるけれど
「この人、苦手だな」と自覚している人の前では
そういった繕った表情ができない)

まあ、もちろん、マバマ夫妻やトランプ夫妻が
互いにどう思っているかなんて、わたしには
知りようがないのだけれど

あの方たちの大人な対応を見て、ちょっと
ビクッとなったのでした。

             *

「来世雪だるま式」の話を、しばらく前に書いた。

辛いとき、わたしは、「来世に問題を持ち越してもいいから
今、この問題を凍結してしまいたい。(具体的には
「問題から目をつむる」とか「問題の相手から遠ざかる」とか)」
と願うのだけど

オバマ夫妻とトランプ夫妻の居合わせた場面を見て
「嫌な相手から目を背けてはいかんのかなぁ」と思ったのだった。

(たった数分のことであっても、それを苦手とするわたしには
すごい大人の対応だ、と思うのだ)

ま、これに関しては、長年
「少しでもココロの和解せねば」という思いと
「無理したくない。これ以上ネガティブにならないよう、逃げる」
という思いの、シーソーゲームなのだけど。

擬似の笑顔なんてクソくらえ! なのか
嘘でもいいから笑顔が大事! なのか
いまだ、わたしは分かっていません。

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