FC2ブログ

そういうこともあるのでしょう

12月20日(火)

朝起きて、午後まで耐えきれず
昼寝をしてしまった。はふっ。

夏向けデザインのトートバック
洗濯しようかなぁーと過日から思っていた
ものだが、ふと目をやると、内ポケットの
一番小っちゃい所に、ナニカ入っている。

取り出すと、カギ。

「あれ、いつもの定位置に置かず、ここに入れたのか」
と一瞬思ったが、ちが~う!

これは何ケ月も前に失くした、マンションのカギである。
(ついているキーホルダーが証拠だ)

ど、ど、ど~して~。

あのとき持っていたカバンのなかは隈なく
探したはずである。

しかも、このトートバックはその後も何十回
さらには、ほんの数日前も使ったのである。

今までず~~~~っと気づかなかった
なんてことはあるのだろうか?

そして今日、ソファの上においてあるバックの
内ポケットに、ふと、目がいって、そこにカギが
「ちゃんとこれまでもず~っといましたよ」という顔をして
おさまっているなんて!!

ま、そういうことも、あるのでしょう。

前に読んだ本で、作者名をすぐに思い出せないのだが
「しまってある背広から、お金が出てくることが、よくある」
(それは記憶にまったくないお金です)
という話があったものね。

こういうことは実はちょくちょく、この世にあるのかもね。

夕方、大きな荷物をもって、実家へ。

三つの煩悩

小池龍之介さんの話で
(吉田照美さんのラジオ番組)
興味深かったことメモ要約します。

                 

仏教は心理学である。西洋の心理学と比べるとシンプルで
実践的で実用するためにある。

わたしたち人間は、基本的に身体から入力されるのは
「気持ちいい感覚」か「不快な感覚」のどちらかしかない。

快感が入力されると、「欲しくなる」反応をして

不快な感覚が入力されると、敵対して、嫌がって
争おうとする、そういう機械みたいなもの。

さらにいえば、フツウの、慣れた感覚に対しては
ぼーっとしてきて、ちゃんと認識しなくなる。
このことをあわせると、三種類のパターンしかない。

                 

三つの煩悩= 欲、怒り、無知

無知=そこにあるのは知っているけれど、ちゃんと観ていない。
(しっかり認識しなくなる)。「ながら食事」もしかり。

欲=無知の状態でなにか気持ちいい感覚が入力される・・・
たとえばお腹が空いていないのに、美味しそうなものを目にすると
「欲しい」気持ちが湧いてくる。

人から褒められるとか、肯定されるということが起きると
気持ちよくなって、もっと褒められたくなり、褒められるために
同じことを繰り返えそうとする。

感覚が入力され、それが気持ちいいと
嬉しくなったり喜んだりする自動反応のこと
それを欲望と名づける。

(脳にドーパミンが出て、繰り返したくなる)

それがコントロール下に置かれていて、適度な
ものであればいいが、それが暴走し始めると
同じことをひたすら繰り返し続けようとしてしまう。

かつ、「無知」の効果で
夢中になっている割には前ほど気持ちよくなくなる。

だんだん欠乏感が出てきて、自転車操業になり
苦しくなる。

怒り=不快な感覚が五感から入ってきたら
それを「やっつけ」たいと、敵対的になる感情のこと。

一回怒って、仮にその怒りが相手に受け入れられたら
「よかった」と思うだろうが
実際はその人にとってなんら幸せなことではない。

不快なものが入ってきたら怒る → 脳に強く焼き付けられる
→ パターン化する → 他の怒りも探すようになる →
腹を立てる(ノルアドレナリン高まる)

その都度、苦しむのはクレームをつけられた相手ではなく
クレームをつけたほうの人。

否定・ネガティブな感情は、繰り返せば繰り返すほど
物事をポジティブに受け入れられなくなる。


小池回答その1

(ひとつ上の続き)

【相談】
自分を好きになるにはどうしたらいいのでしょうか?
(最近特にイライラが募り周囲に当たりちらしてしまう。
これは自己肯定の裏返しなのか、自分でも分からない)

【小池さん】
薄々気づかれているように、ある意味、自分が好きすぎ。
「自分はこれだけ愛されるはず。大事に尊重されるはず」と
思う水準が、みんながしてくれる水準よりも高すぎるので
それが許せず、他者への怒りに転化され、嫌な刺激となって
怒りとなり、反応することを繰り返している。

そこで、もっと自分を好きになると、もっとそれが激しくなるので
あぶない。

「自分はもっと価値あるはず」「自分はもっと尊重されるべき」という
子供の時の自分が泣き叫んでいるような感じなんですけど
それを意識してみて、泣いている自分にやさしくしてあげるというか
「そうか、そんなにみんなから大事にされたいんだね。大事にされたいけど
うまくいかないから哀しくてしょうがないんだね。よしよし」と

自己愛の煩悩をやわらかく受け止めてあげる、抱きしめてあげる。

自分がその子供のお父さんにでもなったような心持ちで
「あなたはとてもしんどいのね。みんなから愛されたいんだね。つらいね」
という感じでやさしく受け止めてあげれば、泣き止みます。
泣き止めば、もう少し健全な自分観に変わると思います。

(吉田)自己愛なんてないほうがいい?
(小池)ないほうがいい。
(吉田)いらない?
(小池)いらない。

ただ難しいのは一般的に自分を大事にしたほうがいいというのは
その反対が問題だからなのです。

「自分なんてどうでもいい」と自己否定のようなものに向かうよりは
自己肯定のほうがいいというだけの話。

わたしが提案したいのは・・・
こういうとき、みんな二つの陣営に分かれて言い合っていて
自己肯定すべきだとか否定すべきだとか・・・

「肯定も否定もしなくていいよ~。ただ
あるだけだね~。よくも悪くもないね~。
自分って、ここにいるね~。確かにいるね~
よしよし」と受け止めてあげる。

それでOK。

(もっといえば、その自分もいない、っと)

小池回答その2

(ひとつ上の続き)

【相談】
同僚がキャバクラに目覚め、借金までして
通い詰めている。若いときに遊んでいなかった
同僚の行く末が心配。

【小池さん】
人は、人のことを心配したがるときは
なんのために心配したがるのかといえば
自分の、自分には問題がないと思いたいので
他の人の問題に着目すると、自分の今困っていることなどから
目を離せる、というのがポイント。

ですから、なんでその人のことが心配なのかと
自分に問うてみると興味深いことが分かるかも。


【相談】
細かいことばかりチェックする上司を殴りたい。

【小池さん】
そういうことをしてしまうのは、その人の悩みが背景にある。
(その上司が)なんでそんなに細かく物事が見えてくるのかっていうと
神経質で、細かいことでも自分の思い通りにいかないと
イライラしてしまうので、おおらかな人と比べて
いちいちイライラして苦痛を感じて辛い思いをしているんですよぉ。
なので細かいことを言ってきたら、「この人いつも細かいこと気になって
(略)かわいそうね~、よしよしよし~」と、頭のなかでその上司の
子供みたいにキィ~!っとなっているイメージをつくって
大人の自分がよしよし可哀相ね~っとなでてあげているイメージで
受け止めてあげる。

潤い

12月19日(月)

外はいいお天気のようなのに
なんども目覚まし止めて
15時頃、やっと起きる。

(最近トイレに起きる回数が減った。
電気毛布で膀胱も温まっているのか?)

ひきこもり、休息かじる日。

       *        *        *       *        * 

先日、「良いわー」と思ったツイート。



わたしも何か潤いを補おう。

キュンとしたり、きゃぴきゃぴしたり……
足りないホルモンを補えるようなもの
何があるのかな?

できれば未知の自分と出会えるようなサムシング
(今は地味に暮らしているので、より地味を極めたところ
にある意外なものか、あるいは正反対の世界に行くか)。

       *        *        *       *        * 

「自分を大切にする」ことを強調するあまり

卑屈な思考マジックで、自分を守るフリするのは
とても危険な行為だなーと、はたと思う。

自戒、自戒。

「きらきらアフロ」とおチビ

TV『きらきらアフロ』は、ときどき録画して観る。

ぽわんと緊張が抜けるし、話者ふたりの
掛け合い温度がほどよくて、好きなのかも。

              *

松嶋さんがおチビさん(男女ひとりずつお子がいる)の話を
よくするのだけれど、それも、面白い。

今日観たのでは(録画なのでだいぶ前の放送)
仮装した父兄が幼稚園の参会に行ったときの話が
よかった。

おチビだって、親の前と、その他の人(社会)の前では
態度がぜんぜん違うんだよね、というのが、ありありと
あらわれていて。

目の前のおチビの姿を「その子のすべて、ありのまま」と
(特に親は)思いがちかもしれないけれど
おチビでも、びっくりすくらい親や周囲の人の目を考えて
実は行動していることが多いのだよね。

              *

わたしは、子どもが天使だとは思っていない。
でも天使の面もあると思う。

松嶋さんの話には
それがほどよくにじみ出ているのよね。

1.『となりのイスラム』

前から、イスラムの入門書、できるだけ
「とっつきやすい」ものを読んでみたいと思っていた。

そこで、内藤正典さんの『となりのイスラム』に白羽の矢を。
(2016年、ミシマ社)

正直、わたしには、とてもよかった。

歴史的・政治的背景がすこんっ!と全部理解できた
わけではないけれど(文章のせいではありません。
やさしい言葉で分かりやすく解説されている)(これは、ひとえに
わたしの固有名詞に対する記憶力の弱さが問題)

小さな一歩くらいは、イスラムの人たちに近づけたような気がした。

で、わたしの小さな一歩をまとめると

イスラム教の人々の神さまの決めたことのもとで生きるというのは
わたしたち(特定に宗教をもたない者たち)が、できるだけ
おのれの良心のもと生きようとするのと同じではないだろうか?

要は、「神さまの決めたこと」 ≒ 良心 なのである。

そう理解した。

戒律のもと、さまざまな縛りのなかで生きることを
自主性がないとするのは、「西洋的」な見方なんだな。

(近代以降の西洋社会は神から離れて自由を獲得しようと
したけど、イスラム教は神とともにあることで自由になるのね)

生まれてきてから(いや胎児教育というものもあるから
それ以前も含めたほうがよかろうか)今にいたるまで
否が応でも獲得してしまった日本人的な「常識」や「価値感」を
排除したときに見るイスラム教というのは、今のわたしには
想像を絶するほどの力をもっているのだと思う。

ムスリムにとってのイスラム教は
この世の一番尊いものなんですね。

2.三人に一人がイスラム教徒の時代に

「世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代」とは
本書の副タイトルである。

(いまは世界人口の4分の1にあたる、15~16億人がイスラム教徒)

「なぜイスラムに魅せられるのか、分からん」と
わたしは、この本を読んで軽々しく言えなくなった。

(日本人の価値感をどっぷり背負っているこの身が
イスラム教に入信することはまずないであろうが)
イスラム教のすばらしさは、確かに「ある」のではある。

(そういえば、「9・11」のあと、イスラムについて
勉強するようになったアメリカ人のうちの幾人もが
イスラム教に改宗したと、かつて、誰かに聞いたっけ。
わたしにはこの現象が不思議ではないのである)



「あとがき」に著者はこうまとめている。

①人間が一番えらいと思わない人
②人と人とのあいだに線引きをしない人
③弱い立場の人を助けずにはいられない人
④神の定めたルールの下では存分に生活をエンジョイする人
⑤死後の来世を信じて、楽園(天国)に入れてもらえるように
善行を積もうとする人

これが本来のイスラム教徒の姿だと。



神の領分を侵してはならない。つまり、人間が生み出した技術によってすべてができるとは思っていないということです。ここから先は神の領分だから自分たち人間が手を触れるべきではない、という了解が成り立つ。それがイスラムの特徴です。〔改行〕そのことは、何度も触れてきたように、人のストレスを減らします。 (143頁)

起きたことは受け入れる。そこから先はあれこれ言ってもしかたないし、それは神の領分なのだから、触れないでおいたらどうだという感覚――こういうイスラム的な感覚は、日本人が抱えがちなストレスの連鎖を断ち切る力にもなるのではないでしょうか。 (145頁)

3.「神を信じる」とは?

イスラム教徒になるには、二人以上のイスラム教徒の前で
「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドがアッラーの使途であることを私は証言します」
という宣誓をするだけでよいそうなのだけど、はて? では、なにをもって
「神を信じる」ことになるのか?

イスラムの場合、「神を信じる」ということは、神に全面的に従うことです。神が人間に下したメッセージそのものである『コーラン』をそのまますべて受け入れるということに重なります。神の使途であるムハンマドの言行(スンナ)も受け入れなければなりません。ただ、実在した人間が、ああ言った、こうした、という話には当然間違いが含まれます。スンナを記した書物を『ハディース』といいますが、いくつもの系統があるなかで、信頼性の高いものを参照することになります。ここはキリスト教と少し違うところです。
〔中略〕
対して、『コーラン』は神からのダイレクトメッセージ、つまり、そのまま神の言葉です。その中には、イスラム教徒が守るべきルールに関することがたくさん語られており、人生のルールブックのような性格ももっています。それをすべて受け入れますか? 受け入れるなら神を信じたということになりますよ、というのがイスラムなのです。
〔中略〕
イスラム教徒のことをムスリムといいますが、ムスリムというのは「イスラムする人」という意味です。「イスラムする」というのは、唯一の絶対者である神に帰依することを意味するのですから、『コーラン』の神の言葉を勝手に解釈したり、いまでは時代遅れのルールだよな、というようなことを言ってしまうと、イスラムしていないことになるのです。

(152~154頁)

(注:アラビア語では、男性=ムスリム、女性=ムスリマ)

4.六信五行

でも、『コーラン』にはちょっと笑ってしまうくらい「神はできるだけ楽なことを命じた」とか「無理強いしない」という表現が出てきます。神様(アッラー)は、よほど人間は言いつけを守らないと思っていたようです。 (154頁)

■イスラム教徒の6つの信じなければいけないもの(六信)
アッラー、天使、啓典、使徒、来世、定命

■5つのしなければならない行為(五行)
信仰の告白、礼拝、喜捨、断食(齋戒)、巡礼

上記は「しなさい」の代表例で、「してはいけない」もたくさんある。


ただし、イスラム教徒がそのすべてを実践するかどうかは別の話です。私たち非イスラム教徒からみると、行動が必ずしもイスラムの教えどおりになっていないイスラム教徒をみることはいくらでもあります。大切なことは、そういう人に対して、あなたはイスラムの教えを守らないんですね、などと口にしないことです。〔改行〕イスラム教徒として正しい道を歩んでいるかどうかを、同じイスラム教徒でさえジャッジすることはできません。まして、非イスラム教徒にはそんなことはできません。彼らにとって、神だけが、その判断をすることができるのです。 (155頁)

ここって、かなり重要で、判断できるのは神のみ
というのは、あまり、ほとんど、いや全然
わたしたちにはなじみがないんだよね。

「だから平気で乱暴なことをする」という思考にもっていく
のは、これまた神を信じていない者の了見なのだろう。

ほんとーの、ほんとーに、神を信じていれば
世俗にまみれた者たちからも一目置かれる生き方に
なるのだと、わたしは思う。

5.殺人は刑事にあらず

ことさら、わたしが興味深かったのは、刑罰の下り

ハッド刑・・・アッラー(神)の大権。人が重くしたり軽くしたりできない。
どんな罪を犯したときにどのハッド刑が課せられるか決まっている。

ハッドというのは、「一線」のような意味で、神が定めた「一線」を越えたことに対する罰をこの世で科すもの。神が決めた「一戦」を越えたわけですから、量刑を人間が左右できないと考えるのです。何が「一線」なのかは、千四百年前に神の啓示としてムハンマドに下ってしまったのですから、後の世に変えることはできません。 (157頁)

★ハッド刑のうち、死刑になるもの
姦通
姦通の誣告〔ぶこく〕(うそを言うこと)
故意の棄教(故意にイスラムを否定した場合)

★その他のハッド刑
窃盗・・・手首(指)や足首の切断
飲酒・・・ムチ打ち

(ハッド刑が科せられるのは以上のみ)

☆殺人→ハッド刑の対象にならない。
「当事者」間の問題、民事ととらえる。

「姦通」や「窃盗」が死刑になるというのに、なぜ「殺人」にはそれに相当するようなハッド刑はないのか? 〔改行〕おそらくそれは、「殺人」は神と人との関係から起こるのではなく、人対人の関係から起こる出来事だからではないかと思います。私たちから見れば「姦通」も「窃盗」も人間どうしの間に起きることなのですが、これらの罪は『コーラン』で神が罰し方を決めたため、刑に人間が介在する余地がないのです。 (157頁)

「殺人」も大きな罪のひとつです。『コーラン』にはひとりの人間を殺すのは万人を殺すのと同じだという、非常に重要な殺人の禁止規定があります。遺族には、されたことと同じ程度の報復をしてもよいとする「同害報復」の権利があります。〔改行〕〔略〕。当事者間でなければできない。これが「同害報復」のルールです。つまり、肉親のだれかを殺された場合、その遺族には殺した相手に報復することが、権利として認められているということです。「同害報復」はあくまで権利ですから、遺族が血の代償として金銭での損害賠償を受け取るということも認められています。 (158頁)

(日本の刑事裁判を例に出し・・・・・・)
被害者の遺族がもっと重い罰を科してほしいと願っても、自分では上訴(控訴や上告)はできないということです。遺族の権利を何より優先して考えるイスラム法と大きく食い違うところと言えるでしょう。〔改行〕事故に遭って苦しんでいるのは遺族なのに、その遺族には上訴する権利がなく、被告と検察官にだけある。それははたして正当なことかどうか? 〔改行〕〔略〕。そこに、私的な復讐を禁じるという意味があるのは確かです。
〔中略〕
ひるがえってイスラムの法には、少なくとも遺族が裁判の埒外におかれるという理不尽さはありません。罰を与える権限をもっているのは、殺人の場合は遺族、窃盗の場合は「神」だけですから。そこに第三者である国家は介在しないのです。
(159~160頁)

司法機関(法)が、ともすれば民意に左右され
殺人の罰のおもさを決める社会になった日本。
(裁判員裁判は法の知識のない者も
刑罰のおもさを決めることに加担するもんね)

殺人は「当事者間」の問題というのは、目からウロコだ。
(しかし考えてみれば、かつて日本にも「敵討ち」という
制度があったわけで、なじみあるといえばあるのか)

(では遺族のいない場合、殺人者は野放しじゃないか!という
意見もあるだろうが、それはそれとして、わたしたち人間が
「社会正義」というものに酔いすぎな性質をもつ
(=ときに冤罪をも引き起こす)との観点から考えると
権力の傘を借りた正義感の発露を少しでも防ぐ策ではあるな)

(しかし、報復が「冤罪」だった場合、どうなるんだ・・・
ということを考えるとエンドレスになるから、やめておこう)

6.一夫多妻制

世の男性たちが羨んでいるかもしれない一夫多妻制は
たしかに4人まで『コーラン』のなかで認められているそうだ。

(しかし、そんな制度があっては、モテる男はますますモテ
モテない男はますます指をくわえることになるから
世の男性全員が、一夫多妻に憧れているわけではなかろうな!)

「ただし孤児たちの案ずるならば」というのは、千四百年ほど前のイスラム誕生の頃、宣教のための戦いで夫が亡くなった場合、残された妻と子どもを路頭に迷わせないように、その女性を引き取って重婚してもいい、という意味だったのでしょう。性欲に任せて複数の妻をもっていいと言っているのではありません。 (163頁)

また、イスラム教徒が結婚するときは、男性から女性へ
「婚資〔こんし〕」というものを支払うルールがあるそうな。

相手の親に渡すのではなく、相手の女性に渡すもので
仮に離婚することになっても、このお金を取り返してはいけない。

「離婚するときの慰謝料をデポジットとして渡すようなものかも」と
著者はいう。

多妻の場合、もちろん、全員平等に、この「「婚資」を渡さなければ
いけないそうだから、多妻婚しようとする男性も大変なのである。

結婚するときに、離婚したときに妻に渡しなさい、というのは、結婚式で永遠の愛を誓わせるキリスト教からすればとんでもないことかもしれませんが、イスラムでは「永遠」は神の手にしかありません。人間が永遠なんて誓ったってウソに決まっている、結婚するならできるだけ契約をフェアにしなさい、と言っているのです。 (165頁)

ヨーロッパにも日本にも、婚子外をひどく差別してきた歴史がありますから、千四百年前に姦通の禁止と重婚の承認を決めてしまったことは、ある意味ではすごいことだと思います。 (165~166頁)

妻はみな平等に、ということは徹底されています。〔略〕〔改行〕この、平等ということはあらゆる場面においてです。夜を一緒に過ごす回数も平等でないといけません。〔改行〕ちなみに、最初に結婚した人が歳をとったから若い子も、という選択も可能ですが、妻に対しては性的な関係も平等でなくてはなりません。その覚悟がありますか。複数の妻をもつとは、本来、そういうことなんです。 (166頁)

7.西欧のまねでは幸せになれなかった

同じように同性愛を禁じてきたキリスト教の社会では、時代とともに世俗化がすすみ、人は教会やキリスト教の教えに従って生きる必要はなくなっていきました。しかし、イスラムの社会は、これができないのです。実は、イスラム教徒たちのなかには、西欧諸国の圧倒的な力を見せつけられた十九世紀の後半から二十世紀にかけて、イスラムの教えを時代の変化に合わせて変えようとした人たちもいました。宗教から離れる「世俗化」は二十世紀の末まで、わりあいと一般的だったのです。〔改行〕しかし、一九八〇年頃から、イスラム教徒の多くは、それまでの世俗化の方向に背を向けていきます。このうねりは、たいへん大きなものでした。ひとことで言えば、西欧のまねをして西欧世界に近づこうとしたけれど、幸せにはなれなかった、という思いを世界中のイスラム教徒が共有するようになったのです。〔改行〕いまはむしろ、正しいイスラムを実践しようと考えている人たちが増えている時代なのです。 (178頁)

いったん神の決めたことは取り消せない、変更できない
というのは、イスラムの揺らぎない強さなのだろうとは思う。

同時に、それは人間社会において(時代によっては)
「寛容でない」部分をもちあわせることにもなり
イスラムの危うさともなっているよのぉ・・・ とも思う。


8.他者を強制しない

肝心なことを書きそびれていたが
イスラムの教えというのは、イスラム社会においての
ルールであり、日本や西欧諸国などイスラムの法の
およばない場所では、当然ながら
酒を飲んでもいいし、豚肉を食べてもいい
色んな性のあり方だって認められる。

イスラム教徒は隣人がなにをしていようと
(イスラムの法を犯していようと)
本来は、「どうぞどうぞ」のスタイルなのである。

共存はするけど、強制はしない。

自己を律する宗教であるけれど、決して
他者を縛る宗教ではないのだよね。

コーランには「無理強いは禁物」という言葉がよく登場するそうな。

(当たり前すぎることなのだけど)
「イスラム国」を名乗る者たちの言い分は
こんなことからも明らかにイスラムのルールから
外れているのである。

「イスラム国」の最大の問題とは、イスラム千四百年の「共存の歴史」に学ぶつもりがさらさらないということです。寛容であり、共存のために積み重ねてきたイスラムの伝統や知恵を、完全に無視してしまうことなのです。(204頁)

9.職業坊主おらず

わたしがイスラム教のいいなと思う点のひとつは
日本の仏教のように檀家をもたないところ。

「モスクは単なる礼拝場所」で、礼拝ができれば
どこのモスクでもかまわない。

ふだんは近所のモスク、旅先では旅先のモスク。

モスクを軸にした権力争いもないそうだし
これは日本の仏教界も見習うところですな。


しかし、「組織がない」ということは、「組織があるのが当然」と
思っている側からすると、つかみどころのない存在なのでしょう。

フランスのライシテ(個人も組織も公の場に宗教そのものはもちろん
宗教的なシンボルも一切もちこんではいけないという原理原則)
に触れた箇所で、著者はこんなことを書いている。

イスラムにはキリスト教のカトリックのようなピラミッド型の教会組織がない。そのため、イスラム教徒の組織と言っても、考え方は同じではありません。イスラムの教えよりも、その国の法律を大事にするよう説くところもあれば、国の法律など、しょせん人が作ったもの、神の法としてのイスラムのほうがより上位にあり、大切なんだと説く組織もあります。後者は、行き過ぎると、国の法など守る必要ない! と叫んだりします。過激派と呼ばれるのはこういう組織のことです。(40頁)

イスラムには、キリスト教、それも正教徒やカトリックに典型的な、教会の組織というものがない。ここが大切なところですが、建物として教会に似ているのがモスクで、集団礼拝のために集まりますが、しかし、モスクに信者が帰属するという発想はありません。モスクが教区の信者を管理するという考え方もないのです。そもそも、カトリックや正教会のように、聖職者という坊さんもいません。ですから位階のある聖職者なんて、当然、いません。(42頁)

少し細かいことを言うと、シーア派には学者のランクがあり、イスラム指導者が国を率いているので教会組織のように見えますが、多数を占めるスンナ派には存在しません。〔改行〕ですから、教会が人民を支配したり、教会が自由の妨げになったりするというようなことは、イスラムでは起きません。(43頁)

結果として、フランスのイスラム教徒は、政教分離や世俗主義と言われても、何と何を切り離せと言われているのかわからなかったのです。いまでも、わかっていません。イスラムには、国家や公の領分から切り離すべき「教会」が存在しなかったからです。(43頁)

背伸びせず、ゆるゆると日常生活などをつづります

はえともみ

Author:はえともみ
 
万の風になって、生きる。

ちちんぷいぷい~。
(HSPの自覚あり)
「うつと仲良く! ひきこもりだっていいじゃない」と
開き直って生きてたら
元気になってきました。

→ 近年は、老母の観察メモの
(&それに伴う自身の変化など)
色合いが濃くなっております。
・・・ま、長い人生の一コマですな。

徒然な日々も、留まることはない。
すべてがいとおしい。だから書く?

最新記事
過去ログ

2020年 05月 【54件】
2020年 04月 【66件】
2020年 03月 【56件】
2020年 02月 【28件】
2020年 01月 【90件】
2019年 12月 【66件】
2019年 11月 【68件】
2019年 10月 【74件】
2019年 09月 【50件】
2019年 08月 【95件】
2019年 07月 【59件】
2019年 06月 【100件】
2019年 05月 【76件】
2019年 04月 【67件】
2019年 03月 【74件】
2019年 02月 【55件】
2019年 01月 【70件】
2018年 12月 【57件】
2018年 11月 【73件】
2018年 10月 【63件】
2018年 09月 【76件】
2018年 08月 【54件】
2018年 07月 【65件】
2018年 06月 【72件】
2018年 05月 【86件】
2018年 04月 【104件】
2018年 03月 【112件】
2018年 02月 【88件】
2018年 01月 【89件】
2017年 12月 【91件】
2017年 11月 【89件】
2017年 10月 【94件】
2017年 09月 【88件】
2017年 08月 【80件】
2017年 07月 【77件】
2017年 06月 【97件】
2017年 05月 【120件】
2017年 04月 【83件】
2017年 03月 【102件】
2017年 02月 【87件】
2017年 01月 【77件】
2016年 12月 【100件】
2016年 11月 【91件】
2016年 10月 【70件】
2016年 09月 【73件】
2016年 08月 【86件】
2016年 07月 【70件】
2016年 06月 【63件】
2016年 05月 【70件】
2016年 04月 【74件】
2016年 03月 【64件】
2016年 02月 【44件】
2016年 01月 【57件】
2015年 12月 【64件】
2015年 11月 【68件】
2015年 10月 【74件】
2015年 09月 【71件】
2015年 08月 【66件】
2015年 07月 【71件】
2015年 06月 【65件】
2015年 05月 【74件】
2015年 04月 【68件】
2015年 03月 【56件】
2015年 02月 【63件】
2015年 01月 【56件】
2014年 12月 【52件】
2014年 11月 【50件】
2014年 10月 【41件】
2014年 09月 【40件】
2014年 08月 【38件】
2014年 07月 【36件】
2014年 06月 【32件】
2014年 05月 【32件】
2014年 04月 【31件】
2014年 03月 【40件】
2014年 02月 【35件】
2014年 01月 【27件】
2013年 12月 【48件】
2013年 11月 【79件】
2013年 10月 【57件】
2013年 09月 【28件】
2013年 08月 【28件】
2013年 07月 【33件】
2013年 06月 【46件】
2013年 05月 【25件】
2013年 04月 【26件】
2013年 03月 【59件】
2013年 02月 【85件】
2013年 01月 【73件】
2012年 12月 【34件】
2012年 11月 【59件】
2012年 10月 【50件】
2012年 09月 【43件】
2012年 08月 【22件】
2012年 07月 【23件】
2012年 06月 【21件】
2012年 05月 【17件】
2012年 04月 【27件】
2012年 03月 【4件】
2012年 02月 【10件】
2012年 01月 【11件】
2011年 12月 【14件】
2011年 11月 【10件】
2011年 10月 【34件】
2011年 09月 【2件】
2011年 08月 【4件】
2011年 07月 【2件】
2011年 02月 【2件】
2011年 01月 【1件】
2010年 11月 【50件】
2010年 10月 【16件】
2010年 09月 【38件】
2010年 08月 【40件】
2010年 07月 【30件】
2010年 05月 【22件】
2010年 04月 【20件】
2010年 03月 【12件】
2010年 02月 【45件】
2010年 01月 【16件】
2009年 12月 【31件】
2009年 11月 【15件】
2009年 10月 【14件】
2009年 09月 【45件】
2009年 08月 【28件】
2009年 07月 【37件】
2009年 06月 【27件】
2009年 05月 【29件】
2009年 04月 【38件】
2009年 03月 【33件】
2009年 02月 【42件】
2009年 01月 【39件】
2008年 12月 【37件】
2008年 11月 【35件】
2008年 10月 【41件】
2008年 09月 【35件】
2008年 08月 【32件】
2008年 07月 【33件】
2008年 06月 【29件】
2008年 05月 【25件】
2008年 04月 【30件】
2008年 03月 【31件】
2008年 02月 【28件】
2008年 01月 【32件】
2007年 12月 【33件】
2007年 11月 【38件】
2007年 10月 【33件】
2007年 09月 【46件】
2007年 08月 【36件】
2007年 07月 【47件】
2007年 06月 【33件】
2007年 05月 【57件】
2007年 04月 【52件】
2007年 03月 【49件】
2007年 02月 【69件】
2007年 01月 【8件】

リンク