ともみ@ピクニック

冬を祝福

11月24日(木)

13時半過ぎの起床。

窓のはじから青空が見えてきて
えいやっと、がんばって街に出る。

日の暮れが近かったので
中央公園から21世紀美術館を
ぐるっと、ぶらぶら散歩。

お久しぶりに街の空気を吸い
(ホントは紅葉の頃に来たかった)
お日さまも拝み、幸せでありました。

        

寒い寒い帰り道、自転車のペダルをこぎながら
「冬を、祝福しよう」という思いが落ちてきた。

寒いから、動くのイヤだ・・・
空が暗いから、外に出たくない・・・

これからの時期はそんな気持ちになりやすい
のだけど、だいじょうぶ、だいじょうぶ!

冬を祝福しよう、そうすれば
これからの時期も楽しい時間になるよ
と、晩秋の闇が教えてくれたのだ。

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さよならオータム

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整理して気づいたのだけど・・・
「躍動感に欠けた」画ばかりだなぁ。

ゴーストタウンっぽい、ちゅうか
「色彩があっても生命感がない」ちゅうか
センスが退屈なのだ。

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あとはオプションじゃ!

人生の上で、なさねばならぬことなんて
思っているよりずっとずっと少なくて

(我には、それが何かはまだハッキリと分かっていない。
もしかして、なさねばならぬのは「生きる」ことだけかも
しれないなーとも思う)

あとはオプションじゃ! という考えが
買い物帰りの夜道でやってくる。

家庭や社会における義務とか責任も・・・・・・
あくせく稼いでせっせと消費するのも・・・・・・
芸に励んだり身体を鍛えたりするのも・・・・・・
もしかしたら動物や人間に愛を注ぐことすら
人生のオプションなのかもしれない。

もちろん、それらのオプション(かもしれないこと)で
人は学んだり、豊かになったり、人生にバリエーションが
つくわけだし、オプションのおかげでカルマを解き
あるいはまた別のカルマを生じさせるという意味づけも
できるわけで、オプションはあなどれないのだけどさ!


よーするに、オプションみたいなことばかりに
目をとられ、くよくよしたり、いい気になったり
ココロを惑わしているわけど

わたしよ、わたし、わたしさん

もーちょっと、「生きる」本質を大切にしなさいよ
(本質を生きることから寄り道し過ぎ!)という
どこかからのメッセージなのかなぁと思った。


* じゃあ、「本質」ってなによ? と聞かれたら
これは 禅問答のようになりますの。

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おめでとう!

11月23日(水)

お蒲団に入ったのが朝7時くらいで
ぱらぱら本をめくって、その後
何時に寝たのかしら? 多くはない
覚醒と眠りを繰り返し、16時半ころ
宅配便さんの来訪で本格起床。

ひとーつ、春以来の懸案事項であった
ネット環境の変更ができた。

(すぐに設定ができず、むむむ~と格闘のち
「なんだ! こんなことか!」と解決できたのは
何時間後だったかしら)

新しいネット環境は、今までと比べて
すいすいすいと調子よく、ありがたや~。

おめでとう! わたし。 おめでとう! PC。

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(1)共感と排除

渡邉葉さんのツイートを読み始めたら
このたびの大統領選をまたぐ
アジア人としてニューヨークに暮らす
生の思いが伝わってきて
なかなか止めることができなかった。

渡邉葉さん https://twitter.com/yowatanabe101

~  ~  ~

また葉さんのツイートから知った
『感情化する社会』の著者・大塚英志さんのインタビュー
《 ネットのわかりやすさは共感できない現実を排除していく 》 も
https://cakes.mu/posts/14592
痛くなるくらい大事なことが語られていたと思う。

今は、あらゆるメディアが「わかりやすさ」を推し
「共感」ばかりもてはやされる時代になっている。

「共感できない感情」は簡単に排除して
文学ですら、サプリメント化している。

など、薄っすらとわたしも感じていた
(そしてわたし自身がはまっている)
現代の落とし穴を、大塚さんは指摘している。

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(2)共感の迷い子

え~っと、書きかけのブログに
「論理と感情の均衡がきわどい時代なんだと思う」
という一文があり、これ、どこかで読んで、ブログに
紹介しようと思って書き留めたのか
(普段は出典が分かるようにメモしているのにな)
それとも、自分で思いついて走り書きした言葉なのか
・・・ほんの数日前のことなのに、忘れてしまったよ。

実は、アメリカの大統領選の結果を見て、ちょっと立ち止まり
考えたいな、と思っていたことがあったような気がするのだが
「そのうち、そのうち。一人宅に戻ってから、ゆっくりね」と
先延ばしにしていたら

(ちなみに、考えたいことは、政治的な話ではありましぇん)

大塚英志さんの記事を知ることとなり、まあ、わたしの考え
たかったことと遠く離れる内容でもないように思うので
・・・おそらく、どちらも下地のテーマとして
「論理と感情の均衡」という共通項がある・・・

せっかくだから、「共感」病について
思うことを、つらつら書いてみる。

(前置き、長い!)

まとまりはありません。

(言い訳!)

。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。  。 。

共感が大事って風潮あるけど
大事すぎて、こじらせていない?

共感したり・されたりに敏感で
(私的にも公的にも)

社会の重要ポイントが感情に左右される面も。

。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。

わたしを含め、今の子ども~中年たちは
「共感」と離れた枠にある事象に弱いよな。

(「共感」感情の下僕かな)

言い方変えれば、嗜好のテリトリーから
外れたものを受け入れるが、下手。

(多様性=ダイバーシティなんて言葉が踊っているけど
ほんとうに多様性を受け入れる力は増しているのかな?

「それぞれ個性、大事にしようね」の表情を繕いながら
実際には「自分と違う価値感の存在を無視した」土台に
立っているだけなのでは・・・?

ちゃんと相手を視界に入れて、理解はし合えなくても
ひとまず「違うことを、認め合う」んだよ!

できているのか?わたし、多様性の受け入れを・・・)

。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。

のっぺりと共感病を罹っていることにつき

よくある指摘ではあるけれど

●メディアの視聴が個々人化していて
好みのものしか観ない聴かない・・・

●ネットの発達で、ピンポイントの情報ばかり
入れるようになった (アンチを排除し
徹底的に自分好みの世界を作り上げる。
そしてそれが現実だと思ってしまう)・・・

●本などの買い物だって、ネットの利便に頼る一方
書店の棚をのぞいて、つい予定外の本に手を出す
(想像を超える世界に触れる)機会も減っている・・・

などが挙げられよう。

これらのもたらす弊害には、たいがい自覚が薄い。

。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。 。

あとさ、若い人に特に見られるのかしら?

もちろん皆ではないけれど
「均質化」から外れることを極端に恐れ
“つながる”ことが大好きで 
共感を無性に欲しがるよね。

(共感をもったり、もたれたりすることで
自己存在を許される錯覚を得るのかな?)

(つながり好きなのは、裏を返せば
「つながれない自分」「ぼっちな自分」を
認めたくないし、人に知られたくもない証なのだろう)


ちなみに、わたしだって、共感の迷い子さ!
(日々、共感できるものを求めている)

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(3)「答えが欲しい」病

目立つところでいうと
政治のワイドショー化が顕著だけれど

世の中に「分かりやすさを求める」傾向は
増すばかりのような気がする。

(提供する側からすると、視聴者がそれを求めている
という言い分があるのだろう。たしかに視聴者側にも
手早くラクに情報を知りたいという向きがあると思う。
さらに現状は、一線を越えた次元になっているというか
「おもしろおかしく、ましてやカタルシスにつながれば最高だ」
といわんばかりのスタンスで情報が提供され&受け取られ
「浅い」「狭い」「本質からズレた」ものがぐるぐるぐる回って
いるだけの場合も多いのではないだろうか)


分かりやすさが100%ダメなのではない。

物事を分かりやすく噛み砕くことで
その物事に関心をもつ人が増えるのは
むしろ好ましいことともいえる。

問題は、答えを簡単に欲しがって
大事なことが伝わらなくなることなのだろう。

感情でとびついた「答え」には、より多くの
魔物が潜んでいるかもしれない。




「分かった」つもりになるのは、止まること。
それしか今のわたしには分からない。
(これ↑ ちょっとズルいというか、優等生的な、差しさわりのない
表現かしら? でも、そうとしか言いようがないのだよ、今のところ) 



もともと、人は誰かと共感し合うことに
(=同じ答えを見つめていることに)
喜びを感じる生物なのだろうけど

論理や理性より、感情を最優先される社会は
やっぱりコワイよなぁ。

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(4)「共感」亡者

ちょうど、これらの(↓)文章も気になっておりました。

ここ十年ほどの傾向として、よく本や映画に触れた後の感想に「共感できたかどうか」というのがある。しかしながら、何かに共感できるのはとてもいいことだけど、「共感できなかったから駄目」という意見は乱暴ではないかと思っている。(中略)。共感できれば素晴らしいし、共感できなかったとしても、自分とは全く違うタイプの人を理解することにつながる。理解できなくても、少なくともそういう考え方があると深く知ることができる。(中略)。現在のシーンは、作家が「読者からの共感」を気にするあまり、「平均化」された小説が増えている傾向にあるのかもしれない。そういう流れに書き手としては抵抗していかなければ、文化そのものが痩せてしまう。
(『きみに贈る本』38~39頁。中村文則・・・1977年生まれ)

共感だけが読書ではない。私は常々そう思っています。本に対する感想の中で、共感できなかった、理解ができず楽しめなかった、というような文章を見つけると、私は少しさみしい気持ちになります。共感とはつまり、本を読む以前の自分と、読んだ後の自分に、何も変化がない状態のことです。心の中にあるモヤモヤをばしっと言い当てられたような文章に出会ったときはもちろん嬉しくなりますが、そうではない文章に出会ったときに、「これは私と違う」という理由だけで受け入れることをやめてしまうのは、とてももったいないことだと思います。(中略)。共感できないものを遠ざけてばかりいたら、私たちはずっと今の形のままです。
(『きみに贈る本』146~147頁。朝井リョウ・・・1989年生まれ)

特に若いころは、針で突くような局地的な共感に溺れることも、読書の楽しみのひとつでした。(中略)。確かに、自分が共感するものばかりに手を伸ばしていたら、自身の何かを様変わりさせるような想定外の衝撃には出会えません。ただ、それも十分理解したうえで、自分が共感できるものに全身を包まれたくなるときがあります。ネガティブな「自分だけ」を言い当てられて、そうなのそうなの、ありがとう、と、その許しのようなものにしがみつきたくなることがあります。
(『きみに贈る本』148~150頁。朝井リョウ)


共感は、生きる勇気だ。
(少なくとも、我にとって)

だけど、ひとは、共感を踏み台に
孤独に歩んでいかなければいけない
ときもあるのだと思う。

(すると、いずれまた、共感に出会える)

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電気ブランケット

11月22日(火)

16時過ぎの起床。

いまだオイルヒーターも
ホットカーペットも出してない
ひとり宅。

昨シーズンの終わりに購入した
電気ブランケットがあったかく
まだこれだけで過ごしているのだ。

ところで、この電気ブランケット
ブロガーのちきりんさんの影響で買ったのだけど
(製品は彼女の紹介しているものとは違う)

要するに、わたしの冬の寝床に欠かせない
電気敷き毛布と、まーったく同じなのよね。

(まあ、「電気ひざかけ」として買ったわけだが
「敷き」であろうと「かけ」であろうと、同じなのは
当然か・・・。

違う点を上げるとすれば、ちょっと肌触りがいいのと
色がカラフルでデザイン性があるのと、それと
横端の部分に装飾の毛糸が出ているくらい)

一人の暖房としては、とっても手ごろ。

イスに座るとき、腰に巻いたり、あるいはひざに
かけたりしてね。

すぐに温まるし、温度調整もラク。

ただ、二つ、注意点があるな、と思った。

●暖房使っている感が薄いので、夜寝るとき
消し忘れる。・・・実際にやってしまった。
ちゃんとコンセントを抜くよう習慣づけよう。

●ちゃぶ台に座って食事するとき、ひざにかけて
使っていたら、カレーを落っことしてしまった。
(まる洗いできるけど、できるだけ汚したくないわけで)
食事中の使用は要注意なのだ。

追加するとすれば、長年愛用している電気敷き毛布も
同様なのだけど、「電磁波」の人体への影響はいかが
なものか・・・・・・。でも、まあ、わたしは温まるのが
優先で(湯たんぽじゃ物足りない。電気毛布がないと
就寝中の覚醒頻度が上がるので、冬は手放せない)
この問題には目をつむっている。

ところで費用についてだが
部屋全体を温めるわけではないので
さほど電気代もかからぬであろう。

(余談。以前、ある方にオイルヒーターの電気代を
尋ねられたとき、すぐに答えられなかったのだけど
わたしの場合は、ひと月千円ほどかかっているかな)

今年は秋の到来が早かったものの
冬への突入が遅いような・・・体感で
なかなか暢気に過ごしている。


おまけ

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食肉・佐川さん・クマ

このところ、「肉を食べる」ということを
意識させられるテレビ番組を偶々続けて観た。

『コイズミワー ~守り人マタギとクマ~』
http://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-32.html

『いのちいただくシゴト ~元食肉解体作業員の誇りと痛み~』
http://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-31.html

あらためていうまでもなく、わたしは
命をいただいて生きているんだよな。

言葉にするのは簡単で、その言葉の中には
ほとんどリアリティがなく、観念の感謝しか
存在していないというか。。。

また、犠牲になる(犠牲という表現は、ちょっと違うのか?)
生き物そのもののことだけじゃなく、生き物を
倒し(≒殺し)、解き(=解体し)、流通に乗るまでの準備を
してくれている人々の存在も、ほとんど見ないようにして
暮らしているんだよな。

(「犠牲」は、やっぱり違うかもね。
他の生命に「施しを与える」存在なんだよな・・・)

んー。

きっと、そのうち、「見ないようにしている自分」すら
また忘れてしまう日常に戻ってしまうだろうから
せめて番組を見たということだけでも、メモ。

                △

上記のテレビの内容と関係ないけど、佐川光春さん。気になる。
作家になる前、ナイフを手に食肉処理場で働いていらっしゃったのだよな。
最近、彼の文章に少し触れる機会があり、その作品に興味をもった。
『生活の設計』や『牛を屠る』、それから『おれのおばさん』を
読んでみたいな。
           
                △

全国的にも、また当地方でも、クマが里や町に出没する
事件を頻繁に聞くようになり、もう何年経つのでしょう。

「山に食べるものがないからクマが人のエリアまで来る」
というのが通説になっている印象だけど

このたびの『コイズミワー』では、マタギ(猟師)の数が減り
そもそものクマの頭数が増えているのだ、という話があった。

よくもわるくも、人間と、人間以外の動物たちとの
パワーバランスに変化が生じてきているのでしょうね。

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腰を上げる

11月21日(月)

昼の起床。

今日こそは重い腰を上げて
一人宅に戻らねば!

夕方に発つことにして、おき土産に
ありあわせの温野菜サラダと
煮物(糸こん、しめじ、白身魚の豆腐揚げ)
サツマイモとゆずのお菓子などを作る。

夜、三週間ぶりに、ひとり宅に到着。

           *

実家にいると、ますます視野が狭くなり
(目にするものも、漂う想いも、考えることも
「点」になりやすい)

ひとり宅に滞在したからといって、急に
視野が広がるわけではないのだけれど

余所見ができるというか・・・
息のつき方が変わるというか・・・
頭の回路に少しは変則性が生まれる・・・

ともかく自分に必要な時間なのだ。

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少々のおせっかい(老親)

人はなかなか自己認識の更新をできない……
(特に「老化」方面に関してはむずかしいのかな)
っと、エラソーな前置きをしてみる。


「自分は料理ができる」という老母の認識はあるものの
では実際に「ひとりでも積極的に料理してますか?」
「バランよくちゃんと食べていますか?」といえば
自信をもった答えを聞くのは難しかろう。

わたしが不在のあいだの食材の減り方からも
推測しやすい話だ。


離れて暮らす親子が、ときおり電話でorときおり会って
「困ったことない?」「ちゃんと食べてる?」と尋ねても
たいていは「ちゃんとやってる、大丈夫」と答えるだろう。

ある時代には、親が子を心配し
・・・でも親の心配は永遠ですね。うちは80代の母がいまだ
「ちゃんと食べてるの?」と、中年娘を心配してくる・・・

ある時代には、子が親を心配するわけだが

老親の「大丈夫」には、子に迷惑をかけたくない気持ちプラス
「自分が大丈夫でないことを認識できていない(老化)」要素が
あるように思われる。


もちろん、親の自主性は大切にしなければいけないし
「年寄りだから」と過保護にする必要もない

ましてや、親の面倒をみることで、おのれの欲を満たそうと
することは(←わたしにはこの傾向アリ)、とても危険だ。

だけどねぇ、自分が留守のあいだ、みすみす食材がしなびれて
しまうことを思うと・・・、& 親の栄養バランスのことを思うと・・・

時間と気力の余裕があるときは
少々のおせっかいを焼きたくなるのだ。

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おまけのような5.ジレンマ

もっと人さまと交わることで
自意識の反応の閾値を低くおさえる
(刺激に慣れて、脳の反応を鈍くする)
という訓練は効果が期待できると思う。

でも、そうしたいならすればいいが
無理してでもする必要があるのかどうか
今のわたしには分からない。

まっ、しかし

人は一人で生きられない。
孤独は危険。
人は人により元気をもらう。

みなさん、口をそろえて唱えるし
そういった、じわじわしみこむ
「ニンゲン界の法則」のようなものを
わたしは完全に無視できない。

だからジレンマなのね。

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1.「くよっと、した気分」

11月20日(日)日記の補足・その一

「くよっと、した気分」について

ほんと些細なことで、くよっとなるのだ。

今日は間接的な人間関係が原因なのだが
おそらく、その内容を人に話すと
「よくそれで人間をやっていられるね」と
驚かれるだろう、しょうもないレベルの話。

ふぁ、ふぁ、ふぁっ。

弱っちいというか、他者への耐性低い・・・
低すぎる!

   *    *    *    *    *

直接的な人間関係は、もちろん完全にはコントロール
できないけれど、予防線を張るというか、ある程度の
調整は可能だとは思うのだけど

間接的な人間関係は、おのずの意向とは無関係に訪れ
予防線の張りようがないので、わりと、しばしば
わたしは「くよっ」と落ち込むことになる。

まあ、今日は、浅瀬以上の深みに入らず
気力を保持できたので、よかったぞ。

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2.悟られないように振り絞る

この治療法は、荒波に揉まれる式が
・・・つまり、もっと人さまと交わるのが・・・
有効なのだろうけれど ~
(以下長くなるので省略します)。

想像するに、この世には、少数ながら
わたしと同じタイプの人間がいるだろう。

コミュニケーションができないわけじゃないし

むしろコミュニケーション能力がそこそこある
と、誤解を受けることもあるし

~なぜ誤解を受けるかというと、人と向き合うときに
並の気力ではなく、精を出し尽くすくらいの気力を
相手に悟られないように振り絞るので
相手がこちらの能力を読み間違うのですね~

ときには、コミニュケーションを楽しめるときだってある。

だけど、総じて、人とのコミュニケーションが
尋常じゃなく疲れてしまうタイプの人間のことだ。

いるよね、きっと。

この地球上に、いくらかは。

(なお、「誰だって、人と交わると疲れるでしょ」程度で
受け止められる人は、ここでいうタイプとは違いますな。

人と数時間会うと、その後寝込んでしまうとか
何日も疲れを引きずるとか・・・、何週間も何ヶ月も
そのときのやりとりをクヨクヨ思い出すとか・・・
ややもすると病的な疲れなのです)

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