ともみ@ピクニック

殻に閉じこもる理由

10月27日(木)

朝眠り、起きたら夜。
ざっと12時間睡眠か。

再生の灯火は、ちっとも距離を縮めず
まだまだ遠くでゆらゆら揺れているよう。

今は「こんな自分」をダメだダメだと
断罪の圧力をかけないでいることに
褒めの言葉を与えましょ。 

そして、ららら~、ひきこもり~。

           *

ずいぶん前に、高校時代の友人から食事会に
誘われており、日程がこの週末ではなかったか?

ほぼ「欠席」に意志は固まっていたのだが
なんて伝えればいいかな~ 面倒くさいな~
と思ったり、心身不具合を起こしたりしているうちに
忘れそうになっていた。

Uターンして数年は、人付き合いも大切にしなきゃ、と
ときたまお誘いに乗り、会ったりしていたのだけれど・・・

会えば会ったで、愉快な時間もあるのだろうけれど・・・

でも、「どうせ、誰かの噂話とか、どこそこのお店とか・・・
そういう話題になるのよねぇ」と思うと、会う気が失せる。

(たぶん、わたしが気になっている「今秋も盆栽の植替え
しなかった」話をしても、誰も興味もってくれないだろうし)

メンバーは、独身女性ばかり、という点は気楽であるが
結婚生活のうまくいっている人たちとは一線を画し
独り者だけで集まる・・・というのも、なんか・・・。

それよりなにより、わたし自身が、(このブログにも
何度も書いているけれど)、故郷というものが好きになれず

その故郷で、各人胸に秘めた事情もあるかもしれないが
基本的にはずっとここで生きていこうとしているように見受けられる
同級生たちとは、腹の底で、通じあわないものがあるのかも。
(彼女たちではなく、わたしが一方的に抱いているのだけど)

(わたしの故郷に対する違和感は、幼少期、名古屋から
ここに転校してきたときから始まっているのかもしれない。
生まれは北陸だけど、おチビのときは名古屋にいたの)

           *

尋常なく、交友関係を閉ざしている。

それは自覚している。

友人を保険的にとらえるのは、大嫌いだ。
(友人の数を減らしたくないから、気が進まなくても
「自分の友人数の確保」のために付き合うとか
そういう人は苦手)

わたしだって、将来の孤独への不安がゼロなわけではない。

でも、だからといって
孤独リスクを減らす目的で友人関係を維持するのは
わたしの選びたいスタイルではない。

金沢に住民票を移して十年が経ち
新しくできた友人が何人もいてもおかしくない
(いやむしろいないほうがおかしい)
のだろうが、現在(当地の)友人ゼロ。

短期の派遣などで知り合って
少し仲良くなった人もいたが、結局は
自分から遠のいていった。

かなりのプッシュをかけてくる人も
なかにはいたが、無視し続けることで
なんとか逃れた。

新しい人間関係を蓄積しないように努め
また、古い人間関係の多くを没しまくり

「なんて奴だ、自分は」(悲嘆)の思いがないわけではない。

           *

そもそも、わたしが「一人でいるのが大好き」なのは
相手がどうの、という問題よりも、自身の素質なのだと思う。

人に語る言葉がない。一般的な知識がほうぼうの分野で欠けている。
(音楽も、スポーツも、ハイブランドも、えとせとら・・・興味が低い)
わたしが、わたしの頭のなかだけで会話していることは
多々あるけれど、そんなの、ふつー、人にとってみれば
つまらん話だ。

つまり、わたしは、自分の異端さを、他者という鏡を見て
確認するのが怖いのだ。

そうか、そうかっ。

殻に閉じこもるのは、余計なストレスを浴びなくていいからだ
というもっともらしい理由もあるけれど

一番大きな理由は、「自分の異端さを直視して、落ち込みたくない」
ということなのだろう。

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ドラッグとわたし

追記

ひとつ下の文章をアップしたあと、
「自分の頭のなかが、ごちゃごちゃ」していることに
気づいたので、整理して、(まあ、似たような話に
なるかもしれないけれど)、書いてみる。

今回の報道で、わたしに巣くっている関心――

●元女優の高木さん

先月だったか、某バラエティ番組で
彼女の現在の暮らしを追った特集を観て
へぇ~、パワフルで、実行力はあるし
本能的というか、大地と近い距離に暮らし
単純に素直にカッコいいな!と思ったのだった。

バブル女優が、なにかに目覚め
こんなふうに生き方の転換が出来るのだ
ということを知り、たぶん、わたしのみならず
勇気づけられた人も多いと思う。

●下世話な好奇心

だから今回の大麻が、自覚のある所持なのか
彼女が知らず同居人がそっと隠し持っていたのか
はたまた、ご本人も使用していたのか・・・気にはなる。

もしも家宅捜査が入ったときは
「△△さんが自分のモノといい、△△さんと△△さんはシラを切る」
そんな取り決めが、あらかじめあったかもしれないなぁ
という、根拠のない、下品な疑いが、わたしにはある。

大麻は覚醒剤のように「尿検査で白か黒か」を判定できないそうな。

(彼女が自宅の大麻のことをまったく知らずにいたのなら
それは彼女がこの一件の被害者であるということになる
・・・「所持」という名の逮捕、マスコミによる話の拡大
およびわたしのような下品な好奇心の的・・・)。

●逮捕

尋常ではない人数の家宅捜査が入ったらしい。
また、逮捕後、車で移送される場面が何度も
ブラウン管に映し出されているが、これは他の有名人逮捕の
ときと同様に、「今から~~に乗り込んで逮捕するから」と
警察側からマスメディアへの、大々的に報じてね、の
あうんの情報提供があったのだろう。

これは個人的な妄想だけど
昨今の沖縄はあまりに悲惨なことになっており、機動隊&それを管理する
側のお粗末さもぽろぽろ出ていて、そのことへの関心を薄めるために
このシナリオ(逮捕&大々的報道)がつくられ、進行しているとか?
(内偵は、彼女が選挙に立候補したときから始まったのかもしれず
これをいつ公にしようかな、と様子見していたのかもしれない)
(野球人のK氏の逮捕のときも、ちょうどお上のもみ消したいことが
あったんだっけ・・・。同様の筋書きか)。
ははは、毒々しい妄想です。

●報道・断罪

最近の社会って、ハンパない弱い者イジメが横行している。
(子どものイジメだけじゃない。大人の世界のえげつないイジメ)
特にマスメディアを通して、有名人の不倫や不適切な行動が
国民的裁判のようになって過度に報じられるのは、恐すぎる。
・・・自分たちはそんなに立派なのか? 
叩きやすい人をとことん叩くという構図のなかにいる我々は
凶器の世界の住人だ。

●ドラッグに対して

わたしだって、子どものような正義感から、「ドラッグ、あかん」とは思う。

でも、古代宗教儀式で(南米などに行くと今でもありそうだな)
使われていたっぽいトランスのためのドラッグには
興味がないわけではない。

かつて、めちゃこメンタルしんどい日々のころは
日本でも精神を和らげる、いわゆるドラッグが合法ならば
わたしも手を出すかもしれないな~と思ったこともある。
(日本では、医師の処方する「精神安定剤」を常用している人が多いのだろう。
わたしは「どうせ、こんなソフトなものは効かんだろう」と、はなから
期待していないので、服用したことはない)

要するに、すりこみの価値感から「ドラッグ、あかん」とは思うものの
個人的に「トランス方面への興味」と「メンタルをラクにする一助」として
関心はあるのである。

●わたし

ははー。

今のご時勢、なにか事件を起こしたら、ブログとかSNSを掘り起こして
ああだこうだといわれやすい。

万一、わたしになにかあって、ここに書いていることなどが
各人に分析もどきされたら、「アイツは危険人物だった。
ひきこもりの、社会反逆者だった」ってなことが、もっともらしく
言われるのかしらん?

あいご~。

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大麻

ショックでは、あるな。





かつて聞いた
「タバコを吸う人は、吸わない人よりも自殺率が低い」
というデータが、いまだ胸に残っている。

(わたしはタバコは嗜まないけれど、これの意味するところは
・・・毒は100%の毒とは限らない・・・少し気になる)

大麻がより危険性の高いドラッグに依存する土台になっては困る
だから法律で罰して規制する、というのが、実のある「正論」なのか?
わたしには分からない。

もしかしたら、大麻があることで、より危険性の高いドラッグや
イタチゴッコのように法をすり抜けたドラッグへの依存を減らし
ときにお酒やタバコのように個々人の「生」を助ける側面も
あるのかもしれないし・・・もちろん副作用を伴って。そもそも
病院で出される薬だって副作用が完全にゼロなんて存在しない・・・
さらにはブラックマネーをあぶり、税収入をアップすることになろう。

オランダのような薬物との向き合い方を考えてみるのも
有用ではないのか?

(今は、頭ごなしに、危険性だけを煽り、犯罪性を際立たせている。
はっきりいって、思考停止なのだと思う)

参考:オランダの薬物政策~ウィキペディアより~ 
厳しい政策で薬物を完全に追放することは不可能だという前提に立った、オランダ政府の薬物(麻薬)に対する国内政策の2つの原則を指す。
1.薬物使用は公衆衛生の問題であり、犯罪ではない。
2.薬物による害を減らす。このため、ハードドラッグ(コカインなど)とソフトドラッグ(マリファナなど)を政策上明確に区別する。



安倍昭恵さんの活動は知らんが
文化の面から、健康の面から、大麻を大事に思っている人は
少なからずこの国にもおられるのだと想像する。

今回は残念な事件である。

(快楽用途と医療用途では意味が違うし
話題になっている女優さんについては
自らも使用していたのか否かなど
色んな次元がごっちゃになってしまうけど)

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顔を洗う

10月26日(水)

きのうは夕方早く就寝し
今朝未明の起床。

うーっ、きのうの流れに乗って
「復活」の展開になるかと思ったが
それは先走りの期待であった。

肉体的に沈みモードで
お昼4時間ほど寝る。

そしてじきに夜がやってきた。

一人宅に戻った日以来だから
えっと、5日ぶりに外に出る。

毎日歯を磨いているけれど
顔はねぇ、5日ぶりに洗いました。
(そしてもう5日も入浴していないのだった)

次の段階にアップする時期が来ているな
と思う。

「死なないのが目標」と掲げた札は
胸のポケットにしまって、一歩進みましょうー。

多少は負荷をかけても活動しましょうー。

そんな時期がそろそろ近づいている。

(そのためには、薬を飲んで、睡眠状態を少しでも
良くするのがいいのかしら?)

お夕飯は、久しぶりに、生魚と生野菜で
エネルギー補給。

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そろそろ

10月26日(水)補足

それなりの長い時間
(ま、こういうのに長いも短いもないのだけど)
お休みさせていただいたなー。

「させていただいた」なんて、イマドキ言葉のようであるが

これは、わたしがわたしに(中のわたしが、外のわたしに対して。
あるいは、外のわたしが中のわたしに対して)
感謝とお礼の気持ちを込めて使っているのだ。

あと、この状況を許してくれている環境というか
何者かに対しての感謝とお礼の気持ちも、もちろん込めて。


やる気なんて、待っているだけじゃ、いつまで経ってもやってこない~
具体的に動くことではじめて、やる気スイッチが入るんだ~
という理屈を知っていても

「とても、とても・・・(それどころじゃない)。今は“死ぬ気”にならんだけで精一杯」
の状態で止まってしまうときもある。

そろそろ、やる気を出すための、行動も始めよう。

(特別のことを始めるという話ではない。お風呂に入ったり
家事をしたり、散歩をしたりといった、日常生活ができるように
というレベルの話なのだ)

やっとそう思えるようになってきた。

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ちきりん&ウメハラ(1)

最近読んだ本

●●●

ちきりんさんと梅原大吾さんの、足かけ四年
合計100時間の対話をまとめた、小学館新書
『悩みどころと逃げどころ』。

普段、ちきりんさんのツイッターを読ませてもらっているので
本書の「ちきりん節」はなじみの範囲内であったけれど

世界一位として活躍している、日本初のプロのゲーマーの
梅原さんの生き方や考え方に新鮮な興味をそそられた。

まあ、それを引き出したのはちきりんさんなのだよな。

今回の本、梅原さんが梅原さんだけでは気づけないことを
ちきりん力で引き出すという試みが大成功しているのだ。

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ちきりん&ウメハラ(2)

片や、学歴コンプレックスに長いあいだ苦しめられ
(実際、アルバイト先で、レジのお金がなくなったら
学歴の低い者が真っ先に疑われ、犯人扱いされるなど
世間の差別を浴びてきた経験を語る場面も)
「自分は寝てばっかりの学校生活を送ったけれど
その後の社会というものを体験してみると、大学は行ったほうがいい」
という梅原さんと

片や、学歴エリートで、申し分のない履歴書をもっているものの
「学校にまじめに行った人ほど損をする仕組みになっている」と
学校教育にあまり肯定的な弁を寄せないちきりんさん

二人の意見はことごとく凸凹しているのであった。

目次を拾うと・・・、次のような見出しが並ぶ。

「寝てた僕が悪いんです」ウメハラ
「いえいえ、悪いのは先生です」ちきりん

「なにより結果が大事!」ちきりん
「ん? 結果よりプロセスですよ」ウメハラ

「やりたいことがあるのは幸せ」ちきりん
「いや、それが結構つらいんです」ウメハラ

「つらいときは逃げたらいいんです」ちきりん
「えっ、逃げたらダメでしょ!?」ウメハラ

「お金じゃないのよ」ちきりん
「それ、クチで言うのは簡単です」ウメハラ

性別・年齢、経歴も、スタンスも、考え方も違う
お二人なのに、話は平行線でなく、かといって
どちらかが無理して歩み寄るのでもなくて

なんちゅうかなぁー、渦を巻きながら
会話がばくぜんとした着地点に落ち着いていく
のが、おもしろい。

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ちきりん&ウメハラ(3)

本書のさいごには、この対談本ができるまでの
エピソードが、ちきりんさんと梅原さん双方の視点から
綴られており、これまた面白い舞台裏話なのだった。

それはさておき、本書には、ちきりんさんの意向で
学校教育について語るというテーマがあるのだが
途中、彼女の示したデータが、わたしには衝撃だった。

(以下、本書の内容からは脱線します)

ベネッセ教育総合研究所が第5回学習基本調査(2015年)した
「いい大学を卒業すると将来、幸せになれる」と考える子供の割合が

2006年に比べ、2015年は、高校二年生、中学二年生、小学五年生
いずれにおいても、ぐーんと上昇しているのだ。

特に、小学5年生において、「いい大学を卒業すると将来、幸せになれる」
と考える子供が、78.1パーセントにものぼるとは!

(もちろん、ベネッセの調査だから、調査母体の傾向も
勘案しないといけないのではあろうが、それにしても・・・)

この四半世紀近く、「いい学校を出たからといって
将来が保障されるわけではない」という認識を
日本社会ははぐくんできたとばかり思っていたけれど

いやぁ、そうじゃない、「学歴があれば幸せになれる」
という、従来の思考が根深くというか
ますます浸透しているんだねぇー。

子供は、親や社会を反映するものだからな。

要は、社会全体がクチには出さぬがそういう方向に
流れているのであろう。(わたしは知らなかったが)。

大企業に勤める人間が「ワシらだって、いつどうなるかわからんよ。
わはは~」と云いながら、中小企業とは比べ物にならない額の
ボーナスをもらい、他労働者とケタ違いの生活をしている実体がある限り

京大や東大を出てニートになっている一部の人間がいたって
それでもって「学歴が将来を保障しない」ことをあらわしている
わけじゃないし

しかも世の中全体に、格差社会だとか、貧困だとか
のワードを煽る傾向がある限り

結局、経済的に余裕のある生活をしたければ
公務員ないしは大企業に勤めるのが手っ取り早く
そのためには学校エリートであれ、という仕組みが
依然残っているのだよなぁ。

(こういう解釈は、ちきりんさんから叱られそうだけど・・・)

まあ、履歴書とは関係のないところで
輝き満足できる人生があるのだという
身近な見本がもっともっと増えれば
考え方も変わってくるのだとは思うけれど。

それにしても、「いい大学→幸せ」という考え方が
この十年で、圧倒的に底上げされているのが

小学五年生 61.2%(2006年)  78.1%(2015年)
中学二年生 44.6%(2006年)  60.6%(2015年)
高校二年生 38.1%(2006年)  50.9%(2015年)

わたしには、おそろしい。

これが格差社会のもたらした本音か!
と嘆きたくなる。

(正確に言えば、格差社会の途中経過なんだね。
これからますます格差が広がって、どこに行くのだろう)

格差社会って、あまりにも苦しいあまり
多様性の発現&許容が見られるのかと
思っていたけれど、この数字を見る限りでは
既存価値感への傾倒が読み取れるもの。

硬直化というか、人々の気持ちが縮こまっている
証拠のようにわたしには見えるなぁ。

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ちきりん&ウメハラ(4)

ひとつ上で、乱暴に
「格差社会のもたらした本音か!」と書いたけれど

かといって、分かりやすい学歴社会が残っている限り
それを気にしない生き方をしろというのはむずかしいんだぞ!
の言い分も分かる。

学業生活ととうの昔にさよならして
また子どもを育てているわけでもないわたしには
遠ーいところから、「学歴? けっ!」と言うのは簡単で
実際にそう思っているわけでもあるが

まわりを見渡すと、子どもを育てている人たち
&子ども自身は、平成27年の今になっても
しっかり、学校的な価値感をしみこませ・・・
しっかり、偏差値に左右される、ど真ん中におり・・・
しっかり、安定(大きな会社、公務員)志向に乗って・・・

そういう人たちに接するときは
「学歴なんて、けっ!だよ」と前面に押し出して
相手の価値感をかく乱する気はならないから

わたしは
どことなく融合し、どことなく遠ざかるしか、ない。

それにね~、仮の話だけれども

50手前の今の思考と経験をもったまま
わたしが子ども時代に戻ったなら、学歴社会とは
まったく関係のない生き方を選ぶかもしれないが

(記憶をまるごと失くしたような状態で)
単に子ども時代に舞い戻っても、社会の空気や
周囲の影響などを受け、偏差値だけで学校をとらえ
大きな会社に入ろうとするのじゃないかな?

という自信のなさはある。

理想では拭いきれない、おのれにしみこんだ
昭和価値感がのろわしい~。

ジレンマである。

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ちきりん&ウメハラ(5)

ちきりん 物差しの是非について考える人は、学校エリートにはなれないです。与えられた物差しに疑問を持つヒマがあったら、その物差し上で一番大きな数字をたたき出そうと頑張るのが学校エリートだから。

ウメハラ でもそういう人だって、実は早くから「ホントにこの物差しでいいのか?」と、うすうす疑問を感じてたってことはないですか? 目をつぶって生きてきただけで。

ちきりん どうしてそう思うんですか?

ウメハラ ゲームの場合、勝ってる限りごまかしがきくんです。自分のプレーに納得してなくても、あんまり人気が出なくても、勝てば気にならない。ところが負けたとたんに、負けたこと以上に、そういう問題が重くのしかかるんです。

それと同じで、心の中では「なんか違う」と思っていても、とりあえずうまくいっている間は目をつぶって生きられる。でもレールが途切れた瞬間に、心の中にずっと前からあった問いと向き合わざるを得なくなる。それでいきなりつらくなるんじゃないですかね。

ちきりん つまんない状態はずっと前からだけど、学校の成績が良かったり、会社の業績や給料もいいと、自分の中の疑問に向き合わずに済んでしまうってことですね。だとすると外部環境がいいのも善し悪しですね。本質的な問題に気づくのが遅れちゃうんだから。

(『悩みどころと逃げどころ』94~95頁より)

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『魂の退社』-1

●●●

稲垣えみ子・著『魂の退社 会社を辞めるということ。』

わたしはその存在を
TV『情熱大陸』で初めて知ったのだけど
稲垣さんって、記者としての実力はもちろん
アフロヘア、朝日新聞を英雄退社、節電生活
などでも注目を浴びている女性らしい。

この本は、会社員人生を降りるまでの道のり
と、退社後の様子などが書かれている。

日々会社を辞めたいと思っている人には
切実に共感して著者の言葉をかみしめるだろうなぁー
と、冷めた目線をもつ、わたし。

だって、二十代の終わりに社会の基軸からハズれて
生きてきた身には、なにを今更!? と感じる話が
多かったんだもん。

イジワルな言い方になってしまうけれど
50歳で大きな会社をやめることになり、初めて
この日本が「会社」仕様でつくられている社会だったと実感するあたり
「大きな場所からモノを述べている人は、庶民のことなんて見えていないのね。
(大きな船に乗ったまま、大海原にいる小さな魚は見えないぜよ)」な~んて
ことの見本のように思えてしまった。

(稲垣さん、ごめんなさい。こんなことを書くわたくしのなかに
大きな会社に守られてきた人へのやっかみがあるのでしょう。

彼女が大きな会社にいたからアレコレというのはおかしな話であり
彼女自身が才能をもち、努力をしてきたから才能もますます膨らみ
それが現在の開花になっていることを、まずは認めなくては。
上記のような外野の揶揄は、ちゃんちゃらくだらないことですね)

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『魂の退社』-2

しかしまあ、彼女の綴る会社員の実態を読み

「わたしは会社員としての学び(経験)が乏しいよなぁ。
会社の理不尽さも有り難さも、ぴらっぴらに薄くしか知らず
酸いも甘いもたくさんは舐めることなく、この歳になってしまった」
と、卑下するでなく、ぼんやりと思った。

また、会社というものを、そして「会社と自分」の関係を
長い年月費やして考えて、しかるべく理由をもち
退職を決意した著者であるが

わたしの場合は
ただ会社員生活を辞めたかっただけのくせに
そんなことでは自分自身も周囲も納得させられないからと
わざわざカタチとして目にみえやすい理由をつくり
会社を辞めたんだよなぁ。

(今になって思えば、わたしは仕事をこなす能力が低くって
いずれ会社のお荷物という自覚に耐えられない日が来たかもね。
つまり遅かれ早かれ、会社員は続けられなかったろう)

ふうっ。

著者とわたしは、さほど年齢が離れていない。

しかし「大人としての格」に雲泥の差があるなぁと
ちょっとだけ胸が痛くなった。

(実際は、この著者のみならず、まわりの人々ほぼすべて
「社会の荒波で揉まれ得てきた、大人としての格」が
わたしと比べようもなく高いのであるが、そんなもん
比べても仕方ないし、これは業のようなものだから
と、普段は気にしないようにしていたのだけれど
この本を読み、つい魔が差したように自覚してしまったのよね)

あれっ? 卑下してないんじゃなかったっけ、自分。
まあ完全にはゼロではないのだろうな~。


ところで、ヒヨコで会社員を去ったわたしには
稲垣さんの勤めていた会社(新聞社)の話が
まるでドラマのように思えてしまう一面も。

たとえばさ、会社というところにいると、出世主義にイヤでもなってしまうということ。
(自分以外の部下や同僚が出世するってことは、すなわち自分の能力が低いと
会社に認定されることであり、それはおじさん・おばさんになってもつらいことらしい。
記者になりたくて新聞社に入った人間たちが、いつのまにか望みもしない
出世レースに参加せざるを得ない仕組みがあるそうな)

ひゃぁ~。

それから、さすがの元実力派記者さんというか
世の中の捉え方が的確で、ああいう理不尽なこと
こういう可笑しな仕組みのこと、ブラックな大矛盾を
小気味よくあぶりだしているのがスゴイ。

早期退職云々とは関係なしに
今のニッポンを観察する本として読んでも
おもしろいところが多々ある。

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『魂の退社』-3

稲垣えみ子さんの『魂の退社』から印象に残った文章の一部を抜粋。(改行は省略)。

私たちは自分の人生について、いつも何かを恐れている。負けてはいけないと自分を追い詰め、頑張らねばと真面目に深刻に考えてしまう。しかし真面目に頑張ったからその分何かが返ってくるかというと、そんなことはないのである。そしてそのことに私たちは傷つき、不安になり、また頑張らねばと思い返す。そして、その繰り返しのうちに人生は終わっていくのではないかと思うと、そのこともまた恐ろしいのである。しかし、もしや幸せとは努力したその先にあるのではなくて、意外とそのへんにただ転がっているものなんじゃないか? そう思ったら、会社を辞めるって、意外にそれほど怖いことじゃないんじゃないかと思えてきたのである。(7~8頁)

つまり何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の世界が立ち現れる。それは、もともとそこにあったんだけれども、何かがあることによって見えなかった、あるいは見ようとしてこなかった世界です。で、この世界がなかなかにすごい。つまりですね、「ない」ということの中に、実は無限の可能性があったんです。(104~105頁)

それまでずっと「あったらいいな」と思うものを際限なく手に入れることが自由だと思ってきました。しかし、そうじゃなかった。いやむしろまったく逆だった。「なくてもやっていける」ことを知ること、そういう自分を作ることが本当の自由だったんじゃないか。(110頁)

誰も幸せにならないゴールへ向かってひた走る互助会システム。絶望的なのは、誰かが悪いわけじゃないってことだ。どこかに悪人や敵がいるわけではない。ブラック化する日本を作っているのは、一人一人のちょっとした罪のない欲であり、この苦しい状況を何とか生き残ろうとする努力である。まるで、もがけばもがくほど食い込んでくる罠のようだ。 (176頁)

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女ひとり島に移住

●●●

内澤旬子『漂うままに島に着き』

まるごと内澤さんが入っている、と
きゃっきゃはしゃいだならば
「これくらいで、私のことを分かったつもりになるな~」
と、叱られてしまいそうだけれど

ファンにとっては、わー、内澤さんがたっぷり
と、喜ぶ一冊であった。

って、まずは舞い上がった感想を(↑)。

本書は、2014年に小豆島に引っ越した
イラストレーターであり文筆家の内澤旬子さんの
移住前後あれこれの記録。

わたしは読む前、てっきり移住したあとの
ヤギのカヨちゃんたちとの暮らしぶりを
描かれたものかと想像していたのだけど

二十四歳で実家を出てから暮らした家々のこと
東京を脱出したくなった心境、移住という選択肢が
芽生えたころのこと、初めての小豆島体験
空き家バンクに登録し家を見つけるまでの顛末
離島に引っ越すための業者選びなど、移住前の話も
どーんと、つまっているのだ。

すでに、千葉でブタを飼っていた本とか
あらゆるものを(配偶者まで!)捨てる本とか
彼女の著作を読んでいたので、その後の
内澤さんの人生を垣間見ているようで
ファンとしては、幸せ至極。

実際の島暮らしの話も、めちゃこ面白い。

ファンであるなし関係なく、移住記として、中年女性の生き方として
田舎暮らしの読み物として、色んな点から楽しめるエッセイである。

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グリーンハンド

『漂うままに島に着き』(内澤旬子・著)のなかに
もしかしたら、わたしの未来の助けになるかもしれない
文章があったので、引用メモ 

集落の方々は異様なほどに整然と畑を作り、雑草も丹念にむしる。人によっては法面などに除草剤を使ったりもしているのだった。

蒲さん夫妻は、田んぼを借りて米を作り、鶏を飼い、さらに家の周りの斜面に畑を作っているのだが、いつ遊びに行ってもきれいにしている。きれいと言ってもピシッと整然と並べているのではなくて、ここそこと、境目なく、なんとも有機的に作物が生えているのだ。泥団子農法のように雑草に混ざって作物があるというのともまた違って、作物は作物でかたまっているのだけれど、どこか「自然」でやさしい配置なのだ。庭木を含めてすべてが青々と元気よく茂っている。

最近だんだんと見分けられるようになってきたが、畑にも作る人の個性がでる。雑草一つなく、整然と畝をつくり、同じ高さに添え木を・・・・・・という中でもさらに、「きちんと具合」が持ち主それぞれで違う。ピシッとした畑を見ると、日本的だなあと思う。奇妙な言い方かもしれないが、野菜の生き方に自主性がない。野菜が何か言い出す前に、肥料なり添え木なりビニールシートなりをちゃっちゃと施していく。とにかく毎日毎朝隅々までチェックして、虫なり病気なりの異変をすぐに察知しては排除。そのように手を掛ければ掛けるほど、野菜というものはわりとちゃんと応えてくれて、人間が望む通りに、画一的にして大きく美味しそうな作物になるようなのだった。

化学肥料や殺虫剤などをどこまで使うかも、人それぞれ。

蒲さん夫妻はいわゆるグリーンハンドの持ち主なのだろう。手をかけていないように見えて、野菜たちがのびのびと嬉しそうに生えている。とても好きな畑だ。遊びに行くとどこから畑かわからずに、ときどき植えたばかりの苗を踏みそうになるのであるが。


(内澤旬子『漂うままに島に着き』190~191頁より)

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