ともみ@ピクニック

ギンモク香

9月25日(日)

そろそろかなーと思っていたら
今日はギンモクセイの匂いが
居間に届いた。

きのうの疲れがガツンと残っており
今日は「ほどほど」dayとする。

買い物に行って、先週の台風で一部
はずれてしまったグリーンカーテンを
・・・まだ少し花はあったけれど・・・はずし

ふさふさ綺麗なナゾの植物(よく苔やイワヒバと間違われる。
名前を知りたいのだけど分からない)を抜いたりの
ギンモクセイの足元エリアの手入れなど。

夕飯は、スーパーの出来合い品
一口ひれカツとメンチカツをあたためて
あとは母に用意してもらった味噌汁や野菜おかず。

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今日もおつかれさま

9月24日(土)

家のことをして、・・・炊事、洗濯
廊下のそうじ、花生けなおしなど・・・
畑へごお。

帰宅して、明日の廃品回収の
準備をして、シャワーを浴びたら
すっかり夜に。

今日もおつかれさまでした。

あわてて夕飯の支度。

きのうのフクラギの残り
(片身2枚、つまり一尾分)を切って
みょうがをたっぷりのせて
カルッパッチョ風に調味料を
からませて

豚汁(里芋をいれたので
「仙台風の芋煮」ともいえるかな)
をささっとこしらえ

あとは蒸しピーマンや、母の
赤ズキ(ずいき)煮、茄子塩もみ
で晩酌。

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土曜の労働

母ちゃんがポットで育てていた白菜の苗を
畠にもっていき、一部植えたり

(しかし彼女、ミニ白菜は畠に直に種を植えており
それで着々と育っているのだから、来年からは
家で苗を育てるなんて手間をかけず
すべてを直植えにして欲しい)

畠は知り合いに耕運機で耕してもらっているのだが
夏の花などがあり耕運機の入っていなかった場所に
後日、白菜の続きを植えるというので、その辺りを
手で耕したり

ニンニクを植えたり、春の花の球根を植えたり

夏場まったく手を入れていなかった一角を
・・・カマでは太刀打ちできないほど雑草が・・・
えいえいえいっとクワを入れて強靭な草を刈り
しばしば砂が頭の上まで跳ね返るなんてなんのその
開拓民の気分になって手入れする。
(結局、一角のうちの一部しか出来なかったけど)

思いの以上、労働してしまった。

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どっちつかず(で今後もいきます)

ゆうべは、さかつめさんのブログを
(今は欧州を旅しておられるのね)
夏以来かな、どかんとまとめ読みして
灯台のような言葉と沢山出会う。

ところで
灯台のような言葉とはまた異なるのだけれど
たまに彼のおっしゃる、「政治や社会の欠点を
あげるのではなく、そういうものとは視線をずらした
それぞれの個の先にある光を見て生きろ」(的な
・・・あくまで我の意訳です・・・)文章に再会して
うーむ、と心の底でうなる。

わたし、他人に感化されにくいタイプである
と思っているくせに、当然ながらときどきは
尊敬する人の話に感化されることもあるのさ。

あるときは

「声をあげることが大事。黙っているのは
自分がNOと思っていることへの流れに
力をあたえ、加速させることにもなりえる」

という人の意見に

そうだよなー、今の政治や社会は、自分の考えと
180度反対の方向に流れていることが多々あって
「変なことは、変」と、「間違っていることは、間違っている」と
自分の意見を(それは蒸発して消えてしまうほどの力だとしても)
言わなければ、その流れの水量を増やす役目を
意に反し、無自覚のまま、負ってしまうことになるものね

と思い、ぱきんっと、自分を戒めるときも
あるのだけれど

さかつめさんのような意見も
分かるといえば分かるわけで・・・・・・。

(念のために書くけれど、彼の言っているのは
「政治発言はタブー」のようなことじゃない)

ゆらゆら、結局、どっちつかずの
わたしなのである。

まあ、どっちにも揺れる、というスタイルで
今後もやってゆくのでしょう。

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「小さな世界」の人・続き

忙殺の日々をおくっている人のなかには
「小さな世界」に埋没した暮らしを
夢見るように評価する人もいるかもしれないが

なんだかねぇ、こういう日々に
「いい」も「悪い」も、ないのである。

そして、わたし自身は
社会的なつながりの薄い
外の世界への興味の低い
精神的にも殻に閉じこもった
おのれの生活態度を
「ダメだな」と思うことが
(このごろは)あまりない。


どうも、日々の自分の行動を
「いい」とか「悪い」とか評価する
気持ちが減退しているのだろう。

あるのは、今日はがんばったな、とか
今日は疲れたな、とか、その程度。

行動そのものに対するジャッジが少なくて
自らの心身状態を観察するほうにシフトして
いるのだろうな。

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「小さな世界」の人

星野さんの本の感想で、書き忘れていたが
(忘れていたのだろうか? 意図して忘れたのかも)

わたしもかつて、外の世界にむけた
眼差しを少しはもっていたんだよなぁ

ということを、星野さんの本を読んで
思い出したのだった。

どこへ行ったのかなぁ。
どこに置いてきたのかなぁ。
の興味は、正直、ない。

今は、そんな自分に不自由を感じるわけでなく
ただ「小さな世界」に埋没した日常があるだけ。

ざっくりいえば、草むしりをして、ご飯を食べて
眠って、また翌日も同じようなことをして
そのなかで季節を感じたり、ときどき休んだりして
それでほぼ満足して月日が流れていくという。

平和といえば平和な
「目の前にあること」に篭もった暮らし。

わたしは、また何かを拾い
「小さな世界」を超えたものにも興味をいだく
自分になることがあるのだろうか。

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小バエ

9月23日(金)

昼に起きたら、台所のテーブルの
バナナのタッパに、小バエがわいわい
群がっており、ギャァ~な寝起き。

君たちはどこから来たの?

そして(手をぶんぶん振って、追い払ったけれど)
君たちはどこへ行くの?

・・・小バエの誕生って、無から有のイメージ。
そんなことはありえないのだけれど。
そして小バエの死に様を見たことがないので
また無に帰っていくように思えてしまう・・・

今朝、ゴミ出しの前に、バナナの皮をむいて
(生ゴミを溜めたくないので、ゴミ出しの日は
こうやって先にバナナの皮を収集する)

なかみのバナナを
タッパに入れたはいいものの
蓋をして冷蔵庫に入れるのを忘れ

ゴミ出しから帰って、手を洗って
また着替えて、そのまま二度寝をしたら

この事態。

はふっ。

最近、ツイテないというか、用心不足というか
些細なうっかりが多いんだよな。

          *

夕方、実家へ。

近所のお魚屋さんにお芋をもっていき
もらってきたというフクラギの身があり
お刺身にする。

その他、いただきものの食材などが賑やかで
あいかわず、わが母さまは、モノ循環活動という
田舎のコミュニケーションをたのしむ日々を
送られていたようであるが

おーい、日曜につくった、カワハギの
味噌汁が冷蔵庫に入ったままだぞいっ。

コミュニケーションもいいけれど、ちゃんと
食事もしてね。

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ファンタスティックに生きる!

最近読んだ本

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『新・家族がいてもいなくても』(久田恵・著)

ファンタスティックに生きる! をテーマに
60代の一人暮らしを楽しんでいる著者の
日常雑記。

シングルマザーで子育てし、数十年にわたる
両親の介護のち、ぽつんと広い実家にとり残された
彼女であるが

その後、実家を「人形劇場」に改修し
自分はワンルームに移り(のち1LDKへ)
書き物や講演の仕事をしつつ、自ら立ち上げた
NPOの劇団の仕事をし、各地に公演にも出かけ
週一は孫の世話係をして・・・。

過去や現状の嘆きも、未来の不安もケセラセラ
とにかく「今」を生きておられるのだ。

もともとタンパクな性格の方なのではあろうが
人間は生きていると色々心の垢がついてくるもの
自助努力なしには、こんな清い生き方はできないと思った。

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星野さん

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『未来の記憶は蘭のなかで作られる』
(星野智幸・著)2014年

前にチキさんのラジオ番組のゲストとして
星野さんのお話を聴き、「気になるな。
いつかこの人の本を読んでみよ」と
思っていたのだ。

本業の小説ではなく、デビューから
十七年間つづったエッセイの精選なのだが。

わたしと同世代の星野さん、こんなふうに世界を見て
こんなふうに言葉を懸命に武器にして、なんだか
「生きていることの信頼感」を強めてくれる
作家さんだなーと思った。


インドのある作家についての星野智幸さんのエッセイ。

モハッシェタさんはどこかのインタビューで、「なぜ、少数民族について書くのか、自分でもわからない。それは私のオプセッションだ」と言っており、私は実際にお会いしたらこのことを突きつめて聞いてみたいと思っていた。

「かれらのもとに行くようになったのは、何を考えたわけでもなく、論理的な帰結でした。白紙のまま、反応も期待せずに、かれらのところへ行ったのです」というのが、モハッシェタさんの答えだった。そして、「自分の力は小さいから、私の作品について人がどう思うかは考えていません。わかってもらう、とか、わかりあえる、と言うには、人生は短すぎる。そこまでのつきあいをするには短すぎるのです」とつけ加えた。

(中略)

私はしびれた。五年前から日本で日本語で書き始めた私は、今でも、なぜ書くのか、書く意味があるのか、私は誰のおかげで成り立っているのか、といった存在理由を問い続けずには、書くことができないでいる。ともすると、そんな内省自体が小説のテーマになるという自己言及の迷路に迷い込む。

だが、モハッシェタさんは、そんな罠をやすやすと突破してしまう。理由を問うという小市民的な小賢しさ、アイロニックなアリバイ作りを、置き去りにして突き進む。そうすることで、「書いている私」という自意識が、小説から消えていく。

この自意識のなさ、潔さが、モハッシェタさんの小説の言葉に深い力を与えていると思う。他者への想像力が、「他者を思う私」ではない場所から発揮されているように感じるのだ。


(『未来の記憶は蘭のなかで作られる』185~186頁、「自我を突破せよ」より一部引用)

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困難シリーズ、結婚

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『困難な結婚』(内田樹・著)2016年

ますます惚れてしまうよ、内田先生。

胆力があり、深く優しく周囲の人を見ていて
理路整然とものごとを考えて、知識があって
・・・・・・ああ、これ以上、なにを求めましょう
というくらい。

本書では、後半になるにつれ
「おばさん目線」も発揮され、この人は
女というものをわかってらっしゃる!
とも思えましゅ。

(ちなみに、『困難な成熟』 http://picnik.blog91.fc2.com/blog-entry-4771.html
とは別の出版社から出ているが、質問に内田節で答えるという形式は一緒)

結婚の意味、形式の大切さ、夫婦円満のコツ、アイデンティティー
育児、家父長制度、家事、婚外恋愛、お金、相手の親、、えとせとら
どれもおもしろいが、実体生活に踏み込んだ話のところは
よりおもしろかった。

この本、「結婚」をお題目としているものの
「家族」、もっといえば「自分と周囲の人との関係」に
置き換えても読めるのがいいですな。

例えば

「看病する」ということの中には「病人に傷つけられる」ということも含まれているので、それを勘定に入れて看病してください。もし、ポイントを間違えて「よけいなことするな」と機嫌を損ねたとしても、そういう言う「権利」を病人に無条件で賦与するのも看病の一部ですから。(中略)。激励というのは、元気のいい人を相手にするものです。あと、「だいたいおまえは働きすぎだから」とか「暴飲暴食するから」なんて説教も禁物です。(中略)。早く治って欲しいとほんとうに思っていたら、病人が自己評価を下げるようなことは決して言ったりしてはいけません。
(「病人の生き方を肯定する」より192~194頁) 
なんて辺り、考えさせられたし

なにかと干渉してくる姑についての相談に対するお答え
「逃げろ」です。逃げるしかありません。こういう相手と対話したり、交渉しようと思ってはいけません。先方が「よかれ」と思ってやっていることを「迷惑です」とカテゴリー変更させることはいわば相手の人生観の根本的な変更を求めることに等しいんです。そういうことはよほど影響力のある人が(姑が信仰している宗教の教祖さまとかが)言ってくれれば別でしょうけれど、ヨメが言っても話になりません。怒らせるだけです。
(「相手を見て親を知る」より244~245頁)
には、ははっと笑いながら勉強になった。

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結婚は誰としてもいい

(ひとつ上の続き)

ずばり、本書を要約すると
結婚は配偶者双方にとって市民的成熟のためにきわめて有意義な訓練の場ですし、「貧しきとき、病めるとき」における相互扶助のセーフティネットでもあります。(72頁)
結婚を通じて幸福になろうとしているのが、間違い。そう思っているからみんな結婚できないんですよ。今よりも不幸にならないように結婚するんです。(76頁)
という話の繰り返しなのですな。

ずっと反発していたけれど、年長者たちが
かつてわたしに伝えたがっていたことや
同年代の友人たちが結婚していったのも
多くはここに書かれていることを本能的に
知っていたからなのだろう。

みなさん、賢かったのね。

でもまあ、(いくら敬愛する内田先生に諭されようと)
今生のわたしにはこの賢さは実践できないだろうから

この賢さ以外の、別の賢さを身につけて
いくしかないのであるよ。


言ってみれば、あなたの中には、たくさんの「ひも」があるんです。あの人と結婚したらこの「ひも」が引っ張られて、自分の中にあるその「ひも」に繋がった部分が露出してくる。この人とだったら、また別の「ひも」が引っ張られて、別の潜在的資質が現勢化してくる。つまり人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的には眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。・・・中略・・・。あのですね、自分の中の潜在可能性は配偶者が変わるごとに、友人が変わるごとに、環境が変わるごとに、仕事が変わるごとに、そのつど新たに発現してくるんです。そのつど。そして、その様々な「自分」の中に、ある特権的条件においてのみ発現してくる唯一無二の「ほんとうの自分」なんてものはありません。ぜんぶ等しく「自分」です。ぜんぶが同格の「自分」です。「偽りの自分」と「ほんとうの自分」がデジタルに分離されるはずがない。・・・中略・・・。だから、ある配偶者との出会いによって出現してきた「自分」にたとえご不満があろうとも、それがあなた「そのもの」であることに違いはない。ほんものか贋ものかといえば、「ほんもの」なんです。・・・中略・・・。話をもとに戻しますね。誰と結婚するかによって人生は変わります。配偶者が違えば、出てくる「自分」も違ってきます。でもそれは、「生で食べても、漬け物にしても、煮ても、焼いても、揚げても、茄子はやっぱり茄子だ」というような意味で、どれも「ほんとうの自分」なんです。だから、結婚は誰としてもいいし、どれが良くてどれが悪いということもないと僕はつねづね申し上げているわけです。
(内田樹『困難な結婚』35~38頁)

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どういうふうに揺らぐのか

(内田節のおすそわけ)

配偶者を選ぶときに絶対見ておかなくちゃいけないのは、「健康で、お金があって、万事うまくいっているときに、どれくらいハッピーになれるか」のピークじゃなくて、「危機的状況のときに、どれくらいアンハッピーにならずにいられるか」、その「危機耐性」です。(30頁)

現代人は「決定はすばやく」ということに固執しすぎているんじゃないでしょうか。決断の早さと決断の適否の間に相関はありません。・・・中略・・・。人間の成長にかかわることには時間をかけた方がいいんです。自分自身が成長してゆくと、それまで「矛盾」だと思っていた要素が「別に矛盾していない」ということがわかってくる。矛盾していたはずのことが、それなりに因果の糸が絡み合っているように見えてくる。(52頁)

家族って、ほんとうに暫定的な制度なんです。それが「ふつう」は恒久的なものであるかのように「家族の一体感」とか言う人を僕は信用しません。だいたい、家族がほんとうに仲が良くて、敬意を以って接していたら、そういう家族はお互いに過剰に干渉しないで、必用なときだけ支援し合うという涼しい風通しのいい関係になっているはずです。そういう家族の成員たちは自分たちの家族関係を形容するときに「一体感」みたいな、べたべたした言葉を使わないと思います。(132頁)

アイデンティティーって、ある種の「バランスの取り方」のようなものなんです。実体じゃなくて。転びそうになったときに思わず「おっとっと」とバランスを取ろうとするでしょ。そのときの「おっとっと」いう声とか表情とか手足のさばき方とかって、作り物じゃないリアリティーがある。そういう感じです。結婚生活でわかったのは、自分がどういうふうに「揺らがずに一点にしがみついているか」ではないんです。そうじゃなくて、どういうふうに「揺らぐ」のか、どういうふうにバランスを取るのか、どういうふうにそのつどの困難な状況に適応してゆくのか、その「作法」なんです。それが自分のアイデンティティーなんだということがわかった。(156頁)

危険なのは、自分自身が社会的にうまくいかないことを結婚関係とリンクさせて説明しようとすることです。「この人と結婚さえしていなければ・・・・・・」と仮想して、配偶者の無理解や無能を自分自身の不幸の原因にすると、もうダメです。だって、たしかにあらゆる自分の不調は配偶者の無理解と無能で「説明できる」からです。ほんとうに説明できちゃうんです。あまりに説得力のある説明なので、人間はそれに居着いてしまう。(237頁)

配偶者との関係を穏やかで健全な関係に保とうと思ったら、まず「自分はどうすれば機嫌がよくなるのか?」について考える。(中略)。配偶者のことは脇において、自分はそれ以外のどういう条件がクリアーされると機嫌がよくなるか、それを考える。そして、それが実現するようにこつこつ努力して、「心ない一言」で「コップから水があふれる」ような危険水域に自分を持ってゆかないことです。(239頁)

倦怠というのは、申し訳ないけれど、自分で自分の人生に飽きている人間が感じることです。自分で自分の人生に飽きているのだけれど、それを認めてしまうと「後がない」ので、倦怠の原因を外部化して、「誰かのせいで人生に飽きている」というストーリーを作って、それにすがりついているのです。(242頁)

以上、内田樹『困難な結婚』より

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『不食という生き方』

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『不食という生き方』(秋山佳胤・著)

作者は1969年生まれの
弁護士、医学博士として
活躍している男性。

たまに家族や友人との食事会では
飲食をするが、2008年から
基本的には不食で生きているそうな。

不食の人は「プラーナ」という
大気に無限に存在するエネルギーを
摂取しているんだって。

ほーおっ。

日本にも世界にもそういうお方がいらっしゃると
聞いていたが、そうか、プラーナを食べていたのか。
(不食といいつつ、プラーナ(=エネルギー)は食べているのね。
なるほど、なるほどの、仕組みである)

わたしもプラーナを上手に摂取・循環できるようになりたい!

過食は感情面の飢えからきているそうだが
(ストレスを紛らわせるための代償行為)
わたしの人生、ほぼ慢性の過食気味のような気がする。
(つまり生きるうえでのクセ、習慣になっているのだな)

ぐぅーー。

食にまつわる情報があふれるなかで
未来的生き方に移行されている人たちが
わたしの知らぬところでどんどん増えているような。

ちなみに、著者によると、断食(=我慢をともなう)と
不食(=その人にとっての自然)は、別なるものという。

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蛇足その1

以下、本書とはほとんど関係のない
蛇足(しかも、だらだら長い)です。


~蛇足その1~

タイトルに「不食」の文字がはいっているが
不食に関する話は最初のほうだけで、あとは
スピ的な人生のコツが書かれている。

いつも、思うのよね。

ある程度の域に達した、スピの先達はみな
同じことを言っているな。と。

おおかた、知識の伝達がなされているのだろう
(文学でも芸術でもこの世に完全オリジナルなものなど存在しない
という。スピ界においても自覚の有無に関わらず知識の伝達が
行われ、それが知らず知らず熟成されて、本人の信念となる)
とは思うが

それはそれとして、天啓のようなものも
・・・自分と天がダイレクトにつながる・・・
ときに、たしかにあるのだろう。

スピの先達がみなさん同じことを仰るのは
内容が真実であるからに他ならないと
わたしはとらえている。

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蛇足その2

同じようなことが書かれているといっても
スピ系の本から受ける印象はさまざまだ。

生き生きとした波動を感じ
タマシイが興奮する場合もあるし

「正論なんだけどねー」と思いつつ、そこに
ガチガチとした枠のようなものがつきまとっていたり
本質をまだ十分に噛み砕いていないというか
血肉になっていない段階の、言葉が先走っている
印象をもつ場合もある。

(知識の段階は、ホンモノのスピではない。

また、個人的な興奮とか、人に教えてやろうという傲慢さとか
そういうものを伴っているうちは、スピの本質を獲得したとは
いえないのだと思う)

エラソーなことを言って、ゴメンナサイ。

印象の違いは
文章との相性とか、読むタイミングとか
なにより、読み手側(わたし)の偏見とか
色々なものが重なっているのだろうから
どこまでアテになるのか、分からんけどね。
(と、責任逃れの一言を添えておく)

それでもあえて言いましょう。

熱いパッションを読み取れるスピ本と
出会えるのは、ラッキーな奇跡。
(そして、奇跡は起きるのだ、たぶん)

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