ともみ@ピクニック

ピア効果

ひとつ下、しばらく前に書いて
アップしそびれており、おまけに
似たような話を幾度ものせているので
このままおさらば(消す)しようかとも思ったが
「これは、経済用語でも説明のつく
(Eテレの又吉さんの番組でやっていた)
ピア効果というものではあるまいか!?」と
感じたので、のせた。

(ぜぃぜぃ、以上、前置き)

え~っ、ピア効果とは
「意識や能力の高い集団の中に身を置くことで
切磋琢磨しお互いを高め合う効果のこと。
(ピア とは仲間、同級生、同僚、地位・能力などが
同等の者という意味を持つ単語)」
(ウィキペディア情報より)である。

つまり競争が、やる気を生み
自然と努力をするようになって
よりよい結果を生み出すという、まっ
エネルギーの素晴しいハーモニーですな。

逆に、「能力の高い人」たちのなかに
「能力の低い人」たちを入れると
能力の低い人たちはますます能力を落とす
という実験結果があるのだと。

これを又吉さんの番組の経済学者の先生は
負のピア効果と呼んでいた(と記憶)。

そして、これはウィキペディアの説明よりも
広い解釈になってしまうけど、同番組内では

たとえば
太っている人が周りに多い環境にいると
肥満になりやすいとか
タバコを吸う人が周りに多い環境にいると
喫煙者になりやすいことも

ピア効果の説明にあげていた(と記憶)。

なので

よりよい効果を生み出すケースだけでなく
「同調し、安心感をもたらされる」ことにより
集団内の負のエネルギーが高まることも
広い意味でのピア効果ではあるまいか?
と、わたしは解釈したのだ。

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例えば「貧乏」という釣りワード

これは過去に何度か書いてきたことであるけれど
自分への戒めのためにも、また書いておこう。

とてもとても狭い世界の喩え話であるが

仮に、ネット界隈に見た場合

しかるべきエリアに行くと、「貧乏」という単語が
読んでくださる人を誘うキーワードになる。

たとえば、「こんなに貧乏なんだぞぉ」と日々の
生活をせきららにしたり、ひどいのになると
「貧乏、孤独、不健康」の3大自慢のような、いわゆる
貧乏を釣りにした、キャッチ・タイトル。

わたしも、そういうものに釣られたことがゼロか?と
胸ぐら掴まれて問われたら、「ありますぞぃ」と素直に
答えるしかない。

しかーし

もしも貧乏を脱したいと思うのならば
そういう「なぐさめの世界」からは距離をとったほうが
いい、と、わたしはなにげに学んできた。

見栄を張れ!! という話ではない。

貧乏ならば、貧乏な他者の話を・・・
愛に飢えているならば、愛に飢えている他者の話を・・・
自殺衝動にかられているならば、自殺を考えている人の話を・・・
知りたいと思うのは当然であるだろうし

それによって、癒される部分は、ある。

けれど、それはその場限りの慰めというか
まぼろしの「自己肯定」をするための材料というか
残念な場合は(現実には残念な場合が多い)

「こうはありたくない」「こういうのから脱したい」と思っている
状況に対して、逆に、現状を維持させるための力を与えるのだな。

めちゃ、ありふれた例を書くと
「金持ちでもないし、養ってくれる人もいないし、とっても孤独なんだ」
なんて、自己憐憫の愚痴を綴っている場面には

同類の人にとって、とても強力な磁石として働くけれど
そういうものに引き寄せられているうちは

ますます、自分を「こういう状況から脱したい」と思っている世界に
縛りつけるのだと思う。


えーっと、以上、自己確認のために書きました。

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くすっと嬉しい

わたしは、ひとりでいるのが好きだけど
人間嫌いではないと思っているし
ちょっとした人とのかかわりで
生かしてもらっていることも、もちろんある。

今日の銭湯では、たまたま横になった老婆が
届かぬ背中にずっと手を向けているのが気になり
背中のあかすりのお手伝いをして

(その前に、わたしの真横に座った彼女に対し
あー、石鹸の泡や、浴び湯、この距離だと、こっちにもかかりそう
イヤだなぁと思ったり、わたしが湯から洗い場に戻ると
入れ歯をそそっと歯にはめなおすのを目撃してしまい
ショックであったりしたものの)

それをきっかけに、わたしの気持ちは広い湯で緩んだ以上に
緩んでしまったらしく、そういうのはたぶん、まわりにも
伝染するのだろう

脱衣所では、別の老婆に話かけられて、ほんわかトーク。

たぶんねぇ、わたしは人とのコミュニケーションに飢えている。

日頃は、人と関わると「自分が何者か」を問われるような気がして
恐くて人から逃げているのだけれど、ほんとはね
生の心のキャッチボールをしたいのだ。

「あなたは誰?」とか「なにをしている人?」とか
「なにを築いてきたの?」とか、そういうのを一切問われない
それでも成り立つ、その場限りのコミュニケーションが
ほんとのほんとはしたいのだ。

そういえば先日は

乗り換え駅の、エスカレーターのない階段の前で
キャリーバックを携え途方に暮れた感じで立っていた
ご婦人たちに、「エレベーターありますよ」と
自分から声をかけたり

これまた同駅の自動切符売り場で
まごまごしている人たちに、「どこまで?」と尋ねたら
「金沢、トゥー」と返ってきたので
(日本人かと思ったら、外国人らしかった)
買い方のデモンストレーションをしたり

そういう取るに足りないことを通して
「ありがとう」とか「サンキュー」とか、ただその場にいるわたしに
言ってもらえるのは、くすっと嬉しかった。

(ただその場にいるわたし・・・とは
わたしであるわたし、ともいえる。知り合いだとこういうのは難しい。
わたしの背景をもつわたし、として、相手には認知されるから)

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桐の花でした

4月26日(火)

銭湯の暖簾がかかるのを待ち
出かける。

初めてオジサンと喋った。
(いつも一人で肉体仕事、お湯を沸かすための
材木を扱う姿をお見かけしていたので、一方的な
親しみがあり、心のなかは
「お目にかかれて光栄です」モードに)

桐の花と、オジサンは教えてくれた。


いったん、帰宅後、濡れた髪のまま
(まあ、ショートに近いし、いいかっ、と)
自転車びゅんびゅん飛ばして街へ。

色々用事を済まして帰宅すると
なんということでしょう、髪はいつもの
自然乾燥よりもイイ具合になっていた。

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YESが落ちてくるとき

「頭の中でYESの声が聞こえる」というのは
もちろん比喩である。

YES~ YES~ と、実際に声が聞こえたら
身も震えるほどブキミであろう。

その声を、平坦な言葉にしたら

「自己肯定がおのれのなかに湧いてくる」となるのかな。

△△ができたから・・・とか
△△を褒められたから・・・とか
そういうのとは全然関係のない

条件をまーったく必要としない

自分にYESが落ちてくるとき。

これは「そういう時間帯」があるというよりは
瞬時に訪れ、嚙みしめようとしているうちに
姿を隠す早業で、いまのところは持続のしない
ものである。

むいっ。

「なぜそんな感覚になるのか?」
と尋ねられたら

「普段から自分をジャッジしすぎで、その反動なのかも」
と答えるかなぁ。

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動じず

4月25日(月)

どよん、と、曇ってるなぁ、と思っていたら
黄砂が飛びまくっているらしい。

              *

日々の心の調子を綴ってみれば

全体的にぽわわわ~んと低い位置に重鎮し
(近年は「低いなりの安定」というものを理解)

ときどきカラダがそれなりに動くときは、気分もけっこう健やかで
(←月に数回)

なかなかカラダは動かないけれど、まれに頭の中でYESの声が聞こえ
(←ごくごくまれ)

しばしば予告なしに、過去の自分の醜い言動とか
おろかな振る舞いとか、人に対する取り返しのつかないこととか
フラッシュバックのようによみがえり、そういうときは
もぉぉぉぉ~ぅ、生きている限り自分が自分の呪いのなかにいる
ような、すべてをリセットして(つまり一回死んで)しまわない限り
この苦しさは続くんだぁぁぁぁ~、と、ビリっビリっと電気の走るごとく
鬱が全身を駆け巡る。

              *

今日は、やや気持ちが下がりっぱなしで、でもそれは
十分に「低いなりの安定」の範囲内なので、動じてはおらん。

(具体的にいえば、ろくに食事もとらず、横になってばかりだったが
あまり凹まずに、こういう日もありますのぉと、自分を見てた)

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励ましの声

4月24日(日)

今日は十倍ポイントデーなので
顔のクリームとか食糧とかお酒を
近所のドラッグストアーで買い込む。

帰宅後、ぼけっとしているうちに
日がどんどん傾いてきて

「あれー、今日はなにかやろうと思っていたことが
あったような、なんだっけー???」と、ひとり
おとぼけ状態になってしまったが

じきに思いだす。

台所の吊り棚のお色直しじゃ。

ずっと宿題にしていた作業・・・。

めんどーだなー。これだけ長いあいだ保留にしてたんだから
今日もサボッても別になーんら困らないよなー。
そんな心の声もあったけど

塵も積もれば山となる。小さなことも重ねていれば
きっとすばらしいことになる。
と励ましの心の声のほうが優勢で

17時をまわって、いざ、取り掛かりました。
(詳細は下に)

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吊り棚のお色直し

**台所の吊り棚にロールシートを貼った顛末**

「まだ自炊環境にあらず」と
ブログにたびたび書いてきたけれど
その要因はいくつかあって、そのひとつが
この吊り棚。

過去の住人たちがガス使用をしてきた証だね
木製の吊り棚の側面が、はっきりいって
「炭化」している! のである。

最初に設計したときは「良かろう」だったのだろけど
50年近くも、そばで火を焚かれたら、こんな姿になるのねぇ
と、生々しい科学を見る思いだ。

黒々で、ボロボロで、いつ、その炭化のカケラが
下に落ちてこないとも限らない。

これを防ぐべく、過日、ホームセンターで
木目調のシート(メイドinドイツ)を買ったのだ。

もちろん、シートの粘着力だけでは
この炭化した棚には付かないだろうと考え
クギも買っておいた。

2.3ミリと、2.6ミリの、超ミニクギ。

側面にシートをなんとか貼ったあと
上からクギを打ち付けていく予定であったが・・・。

「次に使うクギを、口にくわえる」という万全態勢まで
整えたのに、この超ミニクギ、打ちつけようとしたら
電動ドライバーの先からこぼれるのである。

脚立から降りてクギを探し拾うのも面倒で
口にくわえたクギを取り出して、チャレンジし続けるも
だめだめだめ~。

クギが短すぎて、手で押さえていることができず
棚に当てたクギの頭をドライバーが支える間もなく
落下してしまうのだ。

そんなことが6~7回続いただろうか
超ミニクギを使うのは止め、道具箱の在庫の
長さ2センチほどのクギを使うことに。

これは難なく、打ちつけ成功。

そして、炭化の激しいのは側面だけなので
シートはそこだけでも良かったのだけど

(ちなみに、棚の扉はあまりにボロくて
取り外してもらい済み)

ついでに棚の底板の外部にもシートを貼ろうと
長~くシートを買っておいたのだ。

結果、ぎゃふん。

「一人でも貼れるよう、数十センチごとにカットしておく」という
まこと慎重な方法をとればよかったのだろうが
わたしは、そういう丁寧な行動が苦手で

やっちゃえ、やっちゃえ! 一気にロールシートを貼っちゃえ!
と、なまくら、手抜きの、どかどかと作業するほうを
選んでしまうのだ。
(そしてそのときは「ちゃんと出来そうな」気もする)

自分の背よりも高い場所にある、全長2メートルほどの板に
一気にロールシートを貼るのは、難易度★★★★☆だ。

手が3本、いや4本、いやいや5本6本は欲し~い! と
思いつつ、なんとか作業完了。

moblog_0631b2d1.jpg
けっこう、シワ寄ってしまった。(写真は比較的うまく貼れた辺り)


一通りの作業が終わって思ったこと。

側面は、木の板を張ってもよかったのでは?
(ベニヤ板なら、シートを買うより費用押さえられたかも)

いずれまたここを修理することになったときは
板を張ろうっと。

底板の外部、ここは、炭化の被害がほぼなかったので
予定どおりクギを打たなかったのだけど、なんか
寿命が短そうな印象だ。(すぐに剥がれてきそう)。

そうなったら、ぺりっと剥がして、今までどおり
むき出しにしておこう。

(そうだ、ここはたしか、入居前に柿渋の塗装を
しておいたのではなかったっけ・・・)


まあ、実際にやってみなければ分からないというのはあり
「結果として満足するものとは言いがたい」かもしれないが
今日は今日でごくろうさま、よくやりました、と自分を褒めておく。

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ぽこぽこ林檎、ぱさぱさ八朔

4月23日(土)

きのうの、「なんなんだ、この神々しさは!」の仰天は
消えてしまったけれど、木々の色合いはやっぱり豊かで
山の表情はまったく見飽きない。

同じ窓から視線を変えると、お風呂屋さんの入り口が見え
ときおり、そこに出入りする人たちを眺めたり
お風呂屋さんの敷地のフジ色の花木が気になったり
ぼんやりと借景を楽しんでいるうちに、あっという間に
夕刻が近づく。

なにか活動しよう~っと。

前のアパートで、部分カーテン代わりにしていた布
「紺に染まった木綿(ミシン刺繡が全体にあり)・・・実際は
薄すぎてカーテンの役にはおぼつかなかったけど」を
やさしいモードで洗濯機に洗ってもらったあと

十年歴のトートバック、もうサヨナラしようかなぁと
と思っていたけど、なんだか別れがたくもあり
ゴシゴシモードで洗濯機に託す。

(どちらもダンボールのなかで眠っていた。
布は色あせた部分もあるけれど、お気に入りなので
ひとまず保管。トートバックは夏に向けて似合う色だし
まだまだ普段使いしようっと)

その間、吊棚用の小さいカーテンづくり。

夜は、きのう作ってきた、お弁当を食べる。

デザートは冷蔵庫内で待ちくたびれていた八朔。

ちょっと、ぱさぱさしているけど、美味。

わたしは、ぽこぽこ林檎とか
ぱさぱさ八朔が、けっこう好き。

蛙が、近いところで鳴いている。




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「生きていることを、許されたい」

みんな許されることを願って生きているのだと思う。

「なにを許されるのだ?」と問われても
はっきりとしたことは云えないのだけど、たぶん
「存在することを、認められたい」ということに
つながる話なのだと想像。

昔は家族のために生きるとか、社会の役に立つとか
そういうことが結構前面に立ちやすく、自尊の確認を
あまり意識に上らせずにやっていきやすかったのかなぁ?
と考えて、現代社会に生きる嘆きが生まれそうだけど
いやいや、それは現代人の立場を利用した逃げ思考だろう。

何かを批判したり非難するのは、つまりは
「存在することを、認められたい」願望の果てなのかもしれないと
結構、まじで思う。
(それを意識しているか否かは別として)

ああ、そうか

「存在することを、認められたい」→「生きていることを、許されたい」

もしかしたら、それは原罪といわれるものとも
根っこを同じにする話なのかもしれない。


わたしも、頻繁に心のなかでやっているし
しばしばこのブログの中でも展開しているが
自分の価値感と異なるモノを批判して、自分の「正しさ」を
自分で確認したいという作業。

昔、わたしがweb日記でよく使っていた言葉でいえば
精神のマスターベーションですな。

うーん。


以上、糸井さんの『今日のダーリン』(4月23日)を読んで
あたまのなかに浮かんだ連想ゴトでした。

こんな話をだらだらと書くこと自体、わたしの
「生きていることを、許されたい」の変化球なのだろう。

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おばば道の一線を越える

歯医者では、あたらしい歯を入れるための準備治療。

「入れ歯と、ブリッジの、選択がありますよ」と
たしか前々回に先生は仰っていたのだけど

前回、「次はブリッジの準備ですねー」のようなことを
ちらっと、本日も当然のように「ブリッジ」方向に話が
進んでいるので

「待っておくんなまし」と、方針の確認を。

先生によると、わたしくらいの年齢で入れ歯を希望する人は
まずいないようで、それにブリッジのほうが日常生活がラク
ということから、暗黙に「ブリッジをつくるもの・・・」と思われた
ようだ。

しかーし、わたしは、ブリッジに心配があるんだよね。
「ブリッジ=橋をかける=両隣の歯の負担になる」わけだ。
(これ以上、歯を失いたくない、わたし)

たしかに「入れ歯」という、おばば道の一線を越えるのは
びみょーにコワいけど、ここは「今後の歯のため!」勇気をもつぜ。

「まず入れ歯を作ってもらって、どうしても使いにくいなど
不調があるようなら、あらためてブリッジを作って欲しい」
と申しでる。

先生は、いやな顔をせず、了承して下さった。

ちなみに、ブリッジ(銀の)は3万円ほど
入れ歯は1万円ほど、と説明を受けたが

実際にはそれよりも安くやっていただけそう。

ふーっと思い出すに、何年も前、今の患部のちょうど下辺りに
あたる歯のブリッジをするとき、(別の医院で)、説明の最初から
保険の使えない「白い歯」を入れるのを前提で話をされたっけ。
高額のなかでの素材の選択であった。おそらく、そのときは
「おしゃべりしたときなど、見える可能性がある」の理由で
当然のように「白い歯」を、先生は考えられたのだろうなぁ。
結局、セラッミクにしたのだっけ? 20万円近くかかった。
(そして、「まず割れることはない」と言われていたのに、わたしの
嚙みしめが強かったのだろう、その後、ヒビが入ってしまい
あり合わせの材料で繕ってもらった)

入れ歯の出費は痛いけれど、前回のブリッジのことを思えば
ずいぶんお安くできるのだなぁと、嬉しいおどろきがある。

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カレー・クルミ・フルーツ(パン)

4月22日(金)

金沢に戻る。

借景に、はっ!
山の顔がまた変わっておった。
色が、ぐんと濃く、黄緑や緑が幾重にも主張する
まるで青年期のたくましい印象。

夕方は、頭上の空がどんより灰色に染まっているのに
山の顔には神々しいばかりの光があたって・・・
それはそれは不思議な表情になっておった。

(とても気になる山の表情で、写真を撮ったのだけど
PCに移すとき、なぜだか消去してしまったようだ。
機械オンチの残念賞)

わたしの記憶のなかに眠りたかったのね…
あの風景は、ということにしておこう。

             ※

歯医者のち、街へ。

図書館で休憩して、市場でバナナとお菓子を買って

(近江町市場はまた寿司屋が増えていた。この数年で
あぃー、どれだけ寿司屋ができたんだ。TVでも報じていたし
銭湯の女湯でも話題になっていたが、市場には観光客が
増えすぎて、地元民は買い物しにくくなってるよぉぉぉ)

帰路、(いまだ「自宅~街」の最適コースが定まらず
ふらふらと、行きも帰りも気分に任せた道を通るので
けっこう頻繁に、望まぬ遠回りや迷子になっている)
初めての道で、パン屋さん発見。

ま、パン屋さんというより、パン工場のはじに
店舗をもっているという感じ。

お安くはあった。

カレーパン、クルミパン、フルーツサンド。

夜食と、翌日のおめざになりました。

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勘違いとか

Kさん、ご無事でよかったです。

ところで

わたし、勘違い選手権に出ても
入賞するんちゃうか?というくらい
勘違いというか思い込みが多い。

しかも、日頃、人とほとんど接しないので
自分の間違いに気づくことが極端に少ないまま
いるのだろう。
(たまーに、自らの勘違いに気づき
一人ではっとしたり赤くなったりしている)

要するに、人の倍、自分の作った世界に生きている
のである。

ゆうべ、なーんか、「先にアップした、九州地震の日にち
間違っていたのではないかしら? 最初の地震は木曜で
次の(のちに本震といわれる)地震はええっと・・・」、と
むしょーに気になって、でも、そのまま調べることなく眠り
しかしまあ、それは結局「日記どおりの曜日で合致」と
確認できたのでよかったのだが

(日記はたいがい日遅れで書いており、どこそこに出かけた日
だからとか、なになにのテレビを観た日だからとか、そういった
紐付けをして、曜日や日付&できごとの記憶をたぐり寄せる)

Kさんのこと、最初は「熊本だ」という情報で、その安否が気にかかり
その後、テレビで「南阿蘇」というエリアがクローズアップされているのを
観て、記憶にあったKさんの住所のパーツパーツが自分のなかで
組み立てられて、「Kさん=南阿蘇」という回路が生まれ、案じる気持ちが
加速した。

しかーし、本日になり、「=南阿蘇」という回路は勘違いだと判明。

とはいえ、移住のために建てたお家のことを含め、続いている余震と
さらに今日(4月21日)の大雨による二次被害の心配など
毎日たいへんな状況のなかにおありなのだろう。

「カラダもココロも休めない」状況の苦労は、当事者にしか分からない
ということくらいしか、わたしには分からない。

あー、話が飛び飛びになってしまったが、ここで書きたかったのは

「Kさんのお住まい、わたしの勘違い
         ↓
勘違いであっても、そう認識しているうちは
その思いのなかで自分の世界がまわる
         ↓
わたしたちの日常は
事実とか真実とかというものとはまた別の世界にあり
それがデマであっても洗脳であっても単なる勘違いであっても
自分の思った・見たつもり・聞いたつもりの世界でまわっている」

という話なのである。

で、さらにそこから感じたことがあるのだが
長くなったので、別項に書こう。


私信:Kさんへ ショートメールをもらったとき、眠ってました。
ほんとうは電話でもして、お元気な声を聞きたいところですが
ごめんなさい。


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自分の作った以外の世界に生きられない

ひとつ上に

「わたしたちの日常は
事実とか真実とかというものとはまた別の世界にあり
それがデマであっても洗脳であっても単なる勘違いであっても
自分の思った・見たつもり・聞いたつもりの世界でまわっている」

と書いた続き。

要するに…なんてマトメなくても、本当は皆、知っていること…

自分の作っている世界に生きている

誰もが、例外なく、なのだよなぁ。


むーぅ。話は変わるようだが

わたしの尊敬する方々の共通点を挙げるなら

(外の世界に)不平や不満を言う前に、まずは身の回りを
理想の環境にすることに尽力されている点がある。

自分の背丈のことをおろそかにして、社会や政治に文句を言うのは
簡単だ。
(余談だが、批判や悪口を言うときは、脳に快楽物質が出るそうですな)

少なくとも、外に文句を言うのなら、同時に身の回りのことも
自省したり努力したりしているのが、大人としてのあるべき姿なのだろう。
(あいっ、わたしは、ぜんぜん出来ていません


自分の作った世界に生きている、逆にいえば
自分の作った以外の世界に生きられないのならば

まずは、身の回りを居心地のよい世界にする
それが最短の世直しでもあるのだろう。

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「利己に走る」

ひとつ上のおまけ


「利己に走る」と、いずれ、人はどん詰まる。

だが、利己がこの世のお荷物にしかならないのか? といえば
いやいやまわりまわってそれも必要なのだと、わたしは言いたい。

「利己に走る」ことにより、学ぶことはある。

それは魂の成長過程の一環なのだと思う。

「皆が自分の身の回りのことばかりを考えていたら、社会が腐る」
という理論は、短期的には合っている時期もあるかもしれないが
長期的に見れば間違いなのだ。

ひとりひとりが自分の世界を大切にして
理想を現実化していたら、それは共存するのだろう。

(人と人がぶつかるのは、真の意味で自分を大切にしていないから)

ふふふ、「オツム、花畑ちゃん」と言われるかもしれないが
わたしはそう思うのである。

ちなみに、まだまだ魂の成長過程であるわたしは
「利己に走りっぱなし」のまま、この人生を終えそうな気がする。

でも、そのなかで「自分をホントウに大切にするとはどういうことか」
とか、「利己にとらわれると最終的には自分が苦しむんだよ」とか
一歩一歩の学びの種をまいているような、希望的思いはある。


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