ともみ@ピクニック

十年毎

なーんも己にプレッシャーを与えない
そして感情をつかさどる思考も
あえて動かさない日々のなか・・・

ふーぅっと

今まで不満を溜め込んでいたのかものなぁ
とか

精神哲学を学んで、いくらかのステップを
垣間見たつもりではいたけれど
本性はまだまだなのだなぁ
とか

そういえば、これまでおおむね十年毎に
(小学二年のときに名古屋から北陸に戻り
高校卒業のあと一人暮らしを始めて
それから9年後には正社員を止め、現在でいうところの
ニートとなり、旅人やら物書きやら派遣社員となり
今から10年ほど前には父の命にかかわる病が分かり
まさかの再北陸人となり・・・・そして今に至る)
おのれの転機があったのだなぁ

そっか、そっか十年か、ならば

そろそろ新しい人生舞台に行く頃なのじゃのぉ

(行きたいとか、行かなければ、というのではなく
これまでのおおむね十年毎の変化を省みれば
そろそろ、変化の時期を迎えるというのが、いたって
自然な成り行きなのかもしれない)

な~んてふうに思ったり。

しかし、まぁ、わずかな妄想はするものの
今日の自分、明日の自分を変えようとする
策はないのである。

(そもそも、これまでのおおむね十年毎の変化は
「変わらなきゃ」と意識して起こした変化ではなく
・・・身分も住まいも根こそぎ、己の意思とは関係なしに・・・
気づいたら、まるごとごと変わっていたという感じなのだ)


以上、2016年春を迎えるにあたっての備忘録。

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あーめん

3月20日(日)

朝の入眠をして
起きたのは25時半くらい。

一日眠りのなかにおりました。

あーめん。


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卵豆腐

3月19日(土)

夕の刻のチャイムで目が覚める。

こんなにぐっすり眠ったの久しぶり~
ああ~気持ちいい眠りだな~
と思い、また眠りの世界に戻り
本格起床したのは20時半ころであった。

いつも長時間の睡眠になりがちではあるが
「半分寝ていて半分起きている」状態であったり
「頻繁な覚醒のものと、逃避的な睡眠」であったりと
ぐっすり眠っていることは少ない。

ほーんとうに、今日は、珍しいレベルの
気持ちのいい眠りだったなぁ。

眠りに入る前の
いつもと違ったコトといえば

・銭湯に行った(サウナも少し)
・睡眠の薬一粒ほか、花粉症の薬
(弱い、眠気の来ない薬と説明されている)
も同時服用した

ことくらいなのだけど。


話は飛ぶけれど、最近食べているもの・・・

・先日、人生で初めて買ってみた卵豆腐。
自宅で作る“なんちゃって茶碗蒸し”の味がした。
これまで「食わず嫌い」だったけど、なかなかイケる。

・切干大根を、市販の白菜キムチに混ぜて戻したもの。
キムチの量は増えるし、「切干を食べている」という満足感が
しっかりあるし、なかなか良い。

・冷凍のエビピラフ。数年ぶりに冷凍ご飯を買ってみたが
いやぁ、おいしいのね。

いまだ自炊環境を整えておらず、綱渡り食というか
インスタント、加工食品などに助けられ、しのいでいる。

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眠る眠る

3月18日(金)

お昼の起床。

軽食とって、ホットカーペットで仮眠し
日の暮れた頃に起床して
激しい葛藤の末、自分を叱咤激励し
5日ぶりの入浴をして
晩酌して、またホットカーペット仮眠して
そして夜中にお蒲団に戻る。

ほぼ眠りのなかに一日があった。

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その夜

人のありがたさに触れて
(自転車保管庫のおじさん、営業時間を過ぎてもいいからと
待っていてくれて、嫌な顔も見せずに一緒に自転車を探してくれて
おまけに自宅への通り道でもないのに、金沢駅まで車で
送って下さり・・・)

その親切心にとても感謝したのではあるが

その後、明るい&嬉しい方面にわたしの
気持ちが落着したかといえば

そうではなくて

のちに一人になってから、突然

なぜ「人は一人で生きられないのか!?」
と、猛烈に悲しくなった。

「他者といることで人生が豊かになる」という
この世の仕組みが

今のわたしには呪わしい。


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自分、壊れ?

ちょっと、自分おかしくなっているのかな?
と思わぬでもない。

自転車の一件もそうであるが、先日の夜
買い物に出かけるために玄関のカギをかけようとしたら
かからないのだ。

カギがカギ穴に入らない。

「いつも使っているカギはこれだしな」と
何度も何度も試みるも、カギがカギ穴に入っていかない。

なんだべな?と、途中、玄関のなかに戻って
廊下の明かりをつけてみて(←意味のある行為とは思わないが)

また外にでて、カギと奮闘。

そして、しばらくのち、ふと、カギを
別のカギ穴に差し込んでみたら、カチリと入り
カギが閉まった。

なんてことはない、引っ越して半年を過ぎたのに
普段使っているカギ穴を間違ってしまったのだ。

しかも、完全なる思い込みで、「わたしが
いつも使っているのはこのカギ穴だ」と。


もともと引きこもりで、自閉生活を送っていたが
この一ヶ月間はとくに心身ともに荒れた生活をし
アタマもカラダもほとんど動かさず
誰とも口を利かず、(自転車保管庫のおじさんと
喋ったのが、ほぼ唯一に近い会話だった)
自分が壊れだしているのだろうか?

神経シナプスが休憩しすぎて
正常な脳回路が失われてきているのでは。

自転車の件も、カギの件も
いっときのこととはいえ
自分のつくった妄想にひかかったわけだよなー。

「ちょっとした勘違い」ではすまないような
あぶない勘違いではあるまいか?

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どうでもいい話の一

3月17日(木) その一

見事な晴れっぷり。

12時半の起床。

「規定の日数を超えた駐輪をして、撤去された」と
ショックを受けた自転車を救出するため
ふんがぁ、17時前に家を出て

乗り物に2つ乗って

自転車保管所のある最寄駅についたのは
ちょうど18時。

いやぁ、初めて降りる駅(無人駅)なのだけど
想像以上の田舎っぷりで、地図すら見当たらない。

スマートフォンというものを持たぬわたしは
自転車保管所のHPにあった簡易地図を写して
(あまりに簡単な地図だったので手書きで写して)
もってきたのだけれど

ひとまず、線路のこっち側に行けばいいのか
あっち側に行けばいいのかさえ、検討つかず。

たまたま同じ電車から降りたご婦人に尋ねると
「あっち側」とのことだったので、よしっと歩き出すも
行き着いた信号の看板には「地図に載っていない」地名。

む、逆だったのか、と、今度は反対側に歩くも
行き着いた信号の看板には、やはり「地図に載っていない」地名。

(手写しした地図にある、信号の看板の地名が
まったく見あたら~ん)

もしかして、先に婦人に聞いた方角をもっと先に進んだら
あるのかな、と考え直し、道を戻り、浅野川をずんずん越えて
「おおー、もっと早く家を出て、知らない土地の散策をしても
良かったかなぁ~」なんて余裕な考え事をしつつ

さらなる先を進んでも、やはり、目指す、信号の看板地名が見当たらず。

さすがに不安になり、なかなか歩行者のいないなか
たまたま子連れの若いママさんが通ったので、道を尋ねると
「まったくの逆方向」であるという。

ぐー。

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どうでもいい話の二

3月17日(木) その二

しかし、まあ、その時点で日も残っていたし
また、若いママさんから「あっち側」と、方向のはっきりした
教えをもらったので、心は丈夫に
「ともかく、あっちに進めばいいのだ」となり
ずんずんずんずん浅野川を渡り直し、先に目にした
二つの信号も迷うことなく超え、さらにずんずん進むと

目指す、信号看板の地名があったのだった。

で、あとで考えれば、ココが要であったのだが

生来の方向音痴でありながら、勘で動く性質をもつわたしは
手写しの地図と現実の道をにらめっこして
「そっちの道だ」と信じる方向に自分をナビしてずんずん進む。

途中までは良かったのだと思う。

目指す自転車保管庫の住所は「問屋町2丁目」であり
わたしの歩いている道も「問屋丁2丁目」であるのだから
このまま歩いていれば、きっと、いつかは見つかるはず
という、マイペースな自信のもと。

しかし、進めど進めど、さらなる見当がつかず
そのうち、日は暮れ、街灯は乏しく
道は、倉庫街というような感じの、だーれも人の通らない
営業時間の終わった会社とか倉庫がだだ~と並ぶ処で
膨らむ不安。

でも、「問屋街2丁目」だからなぁ、と自分を励まし
ずんずんと。

そして、たどり着いたのは、「問屋町」とは全く違う
地名の大通りなのであった。

“こういうとき、スマートフォンというものがあれば
便利なのだろうなぁ”

“HPの地図では、簡単な道のりそうだったから
紙の地図を持ってこなかったよ”

自転車保管庫の営業終了時間は迫っているし
もっているケイタイの電池は残り少ないし
なにより自分が今どこにいるのか分からない
という不安。

その後、何人もの人に聞き
(車修理の人とか。コンビニの人は忙しそうで話途中となった。
交番があったのはラッキーであったが、車移動を前提とした説明
&わたしの理解力・記憶力の低さで、結局、また迷い人に)

あー、もう、今日はムリか・・・。

交通費をかけて、ここまで来て、手ぶらで帰るのか・・・。

と、ほとんどあきらめてはいたが

「ダメもとだ。電池が途中で切れるかもしれん」と思いつつ

自転車保管庫に電話をしてみたら、「19時まわっても
まっててあげるから」と、信じられない言葉が返ってくる。

そして、「今、自分がどこにいるのか」も分からない状況なのに
電話で喋りつつ、移動しつつ、目に見えたモノを伝え
保管所のおじさんの説明するままに動いていたら・・・・

なんと、建物の前に出て待っていてくれた
おじさんのもとに到着!できた。

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どうでもいい話の三

3月17日(木) その三

約一時間、歩きまくる、というより
後半は小走りまくったのであるが

まあ、それは
ふだんの自分の縮図のような
時間であった。

「あたりは暗く、あるいはほぼ真っ暗で
現在地も分からず、向かうべき方向も不明で
そんななか、ともかく、ムチャクチャあがいている。

立ち止まって冷静に作戦を考えることもせず
手当たり次第に人にたずねることはあるものの
きちりと問題解決の確立の高い方法には着手しない」

とね。

あ~あ~、それなのに~
自転車保管庫に、営業時間ちょっと過ぎてたけど
無事にたどり着けました~。

感謝。

そして、保管の自転車を係りのおじさんと一緒に見て歩いたの
だけど、ん~???、わたしの自転車はないよ~。

おじさん曰く、「一週間じゃ、撤去はされないよ。二週間で
さらに警告の札を貼られて、のち撤去されるの。そして
それを通知するハガキが来るんだよ。ハガキないの?」。


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どうでもいい話の四

3月17日(木) その四

そもそも、わたしが金沢駅の駐輪所で
自転車を停めたのが3月6日。

そのとき、すでに駐輪されていた他の自転車に
「3月8日以降は移動される可能性有」シールが貼られているのを
見ていたので

次のこの警告シールが貼られるのは3月9日以降だろう
・・・少しは日数を空けるだろうから、実際は9日よりもっと後だろう・・・
だから、仮に警告シールを貼られたとしても、それから一週間以内の
3月15日までは駐輪OKなのだから

と、めぼしをつけていたのだ。

身勝手な、めぼしだよなぁー。

(冬のあいだは、そんなに頻繁に警告シールを発動していないよう
だったので、甘く見ていたが、春になり、観光客のレンタサイクルも
増え、駐輪場の稼働率が上がるから、「一週間以上の駐輪」は
びしばし取り締まられているのか?)

このまえ(3月15日)駐輪場に行って
自転車の姿がなくなっていたときはショックでもあったが

「これまで、長期にわたって、公共の場に自転車を停めていた
バチがあたったのかもしれんなー」と、どこか納得もしたのだよなぁ。

それにしても
「駅の駐輪所で自転車が無くなった→撤去された」と
思い込んだわたしであったが

撤去先の保管所にも自転車がないって
どういうこと???

保管所のおじさんの説明によると、「一週間で実際に撤去されることは
ないし、駐輪所内の自転車を係員が勝手に動かすことは禁止されている」
そうなのだが・・・・

でもでもでも、どこにも自転車が見当たらないってことは
「一週間以上の駐輪をした自転車を、一時置いておく場所が新たに出来て
そこに我の自転車もあるのでは?」としか考えられない。

この前、「自転車ない!」と思ったときに時間をかけて
駐輪所内を探したけれど
内心は「撤去されたんだ」とあきらめていたので
係り員の人に尋ねてみなかったんだよなぁ・・・。

これは、自転車を停めた
元の駐輪場に出向くしか、ないのであるよ。

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どうでもいい話の五

3月17日(木) その五

落胆。ではあるけれど
「自転車がなくなった」と気づいたときもそう
「本日のここに辿り着くまでの道のり」もそう、そして今
「期待するモノがあるはずだったのに、なかった」と知っても
落胆は、すでに備わっている「あきらめ感」と混じりあい
実のところ、落胆という感情がひじょうに薄いような。

なんちゅうか、人生何事も、すべてに落胆しているというか
落胆癖がついているというか、「うまくいかなくて当たり前」
「不調が普通」という感覚がしみついてしまっているのかも。

とほほーですな。


それにしても
サービス残業までさせてしまい
自転車保管庫のおじさん、ごめんなさい。

おまけに
完全迷子状態でたどりついた我が
「駅はどっちの方向ですか?」とたずねたら
帰りは駅まで車で送って下さることに。

わたしも、現代ニッポン人ですので
「会ったばかりの人の車に乗せてもらうなんて」
という常識的思考が頭をもたげたけれど

ここは従来の、人を見るセンサーで判断し

また、せっかくのご好意で言って下さるのに
ここで拒絶するのは、おじさんに失礼だわと
思ったのだ。

(それに自力で駅まで戻るとなると、まっ暗な中
行きよりもさらに時間がかかるかもしれん)

結局、保管庫の最寄駅ではなく
(電車の本数少ないから大変でしょ、と、おじさん)
金沢駅まで、車で送っていただいた。


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どうでもいい話の六

3月17日(木) その六

だらだらと、つまらぬ話を綴ってきたが
結論をいうと、自転車は最初に停めたままの
金沢駅の自転車駐輪場にありました。

わたしが、駐輪場の勘違いをしていたのだ。

たしかに考えてみれば、駅の駐輪場は
西側のと東側のに分かれているのだけれど
どうも、何百回と利用しておきながら、わたしは
それを理解できておらず・・・・

停めたのとは別の駐輪場を、くまなく
(二階に停めたはず、であったが、一階までをも)
探していたのであった。

ぐわぁわわ~ん。

一人勝手に負の判断をし、負のなかに迷い込み
時間をかけて、労力かけて、人様にまで迷惑かけて
・・・・・結末が、これか。

「なにやってんだ、自分」って、こういうときのために
あるセリフなのね。


これまでの償いの気持ちもこめて
久しぶりに自転車に乗って自宅に帰りました。

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(一)脳の抑制

しばらく前に読み終えた本のメモ。

●●●

茂木健一郎さんの
『結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方』
を読んで気になったコトなど。


まわりを見渡して、そして自分のことを省みて
人間って
「すぐやる脳」と、「ぐずぐず脳」、二つのタイプに
分けられるよなぁと、前から思ってはいた。

茂木さんによれば
「すぐやる脳」をもつ人間は
“抑制”が外れて、軽やかに動く頭脳をもっているのだと。

「やる」ことで抑制が生まれるのではなく
抑制が外れるから、やれるの!?

茂木さんは、やるべきことを後回しにする癖
「ぐずぐずスパイラル」に陥いる原因を

「意外なことに、脳が正しく動いているためなのです。すぐに動けない人とは、脳の前頭葉が指示通りに機能して、抑制が効いてしまっている人のこと」(16頁)と説明。

そして、「人間の脳には「すぐやる脳」と「ぐずぐず脳」がしっかりと共存していて、「すぐやる脳」の活性化は、脳の抑制を外せるかどうか」(18頁)にかかっているそうだ。

「「やろうと思っている、けれどもなかなか行動に移せない・・・・・・」と悩んでいる人は、決して「すぐやる」ことが苦手なわけではなく「脳の抑制の外し方」を知らないだけ」(18頁)なんだって。

ふーむ。

「脳の前頭葉の回路には、「頑張っている」というときに働く回路があります。その回路が働けば働くほど心も体も疲れてしまい、結局、頑張りは習慣化できないのです」(148頁)。「脳は、抑制を外せば、あとは勝手に動いてくれるもの」(133頁)だとか。

わたしは、過剰に抑制がかかっているのかなぁ。
「ふつーの大人なら、こんなこと日常の一端だろ」と思うような
些細なことをこなしただけで、めちゃくちゃ疲れてしまう。

片や、「すぐやる脳」の知り合いなどを思い出すと
茂木さんの説明にすんなりと頷けるものがある。

わたしにとっては、何事も「やる」=特別だけど、「すぐやる脳」の人たちには
「やる」のが自然で、「やらない」選択のほうが特別なのだろうなぁ。

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(二)脳の個性

つづき・・・


「人間を含め、生物の脳にはある共通の作用があります。その作用とは「何もしないでじっとしている」ということです。これは単なるネガティブな状態ではなく、環境に対する正しい適応と言うことができるのです」「では、これを人間で考えてみましょう。たとえばやる気が起きない、何に対しても行動に起こせないビジネスパーソンや、ひきこもりと言われる人などは、その人が置かれている環境における脳の適応のなせる業とも言えます」「脳が不安定な環境に適応しているだけなのです」(64~65頁)

「脳がリスクを楽しめるか、不安に思うかは、神経伝達物質であるドーパミンのレセプター「DA‐2」の変異の仕方によって分かれるものと言われます。この変異の傾向は遺伝的な要素も影響するため、そもそも個人のリスクへの考え方は異なっていて当然です」「リスクをポジティブにとらえてチャレンジしていける人の脳には、現状に不安を感じることなく、より大きな危険を求めていく傾向の脳が備わっている」「リスクに不安を感じるのは、単なる脳の個性の問題」(65頁)

「行動力がある人とない人の一番の差とは、いったい何なのでしょうか。それは自己評価が高いかどうか、つまり自分に自信があるかどうかなのだと思います。自己評価の高い人は、自分がどんな状況に陥ってもタフに対応していけることを確信しているため、行動を起こす前に、脳に抑制がかかりません」(71頁)。

「何をするにも自信満々。明るくて声が大きくて、やることなすことが目新しくてキラキラと輝いている――。けれども実は、こういった人が必ずしも「自己評価の高い人」とは限りません。多くの場合、それは単に「ナルシシズムの強い人」でしかないことが多いものです」「自己評価とナルシズムは違う」(72頁)。「自分へのダメ出しができることと、自己否定はまったく違います」(74頁)


これじゃあ、単なる、本の写し書きなのだけど
「今はこれで精一杯」という言い訳で・・・・・・。

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(三)小さな成功体験

つづき・・・


「小さな成功体験を持ち続けることで、脳内物質である報酬系のドーパミンが増えていき、新たなやる気が生み出されます」(129頁)も、すごくよく解る。

もちろん世間に認められるタイプの成功の必要はなく
自分のなかの小さな成功体験で十分なのだ。

「自分で自分の課題を見つけて成功体験を積み重ねる。それにより、はじめてやる気が出てくる」(130頁)
というのも、数々のわたし自身の経験から納得しきりだ。

「やらなければいけないことだということは理解しているのですが、それでもできない、いわゆるアパシーシンドローム(無気力状態)になってしまう場合があります。こうした症状の特効薬というのも、やはり自分の成功体験しかありません」(131頁)だと。

そして茂木さんは、小さな成功体験でも
恥ずかしがらずにちゃんと喜ぶことが大切だと
説いているが、この点は、わたし得意だと思う。

どんな小さなものであっても
成功体験をしたときは、謙虚にならず
わりとしっかりと喜びを嚙みしめるタチだから。

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