ともみ@ピクニック

責任転嫁

過日のアドラーさんの教えのTV番組にあった

劣等感によって、自分を救っている、という話は
おおいに自分にも当てはまるよなぁ。

(例 : 顔が不細工と思っている人が「モテない理由」を
自分の顔のせいにする。しかし、モテないのは
本当に顔の不細工のせいなのか、甚だ疑問だ。
その人は、モテない理由を「顔」のせいにしておけば
「性格が悪いからモテない」などの、顔以外の欠点を
直視せずに済むのだ)

わたしが、今、「××だから、△△なのだ」と、自分のなかの
言い訳を膨らませているのは、上記の仕組みと同様なのだろう。

「××だから」は、他の原因を直視しないための
自分に対する言い訳なのだ。


他の原因・・・? 

それは自分のほんとうに望む人生を生きていないということ。

では自分の望む人生って??

(とりあえず、現状維持ではないのだろう)





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「自分が、もんだいを抱えている」

そんななかで芽生えた自分の落としどころは

あまりにも悪魔感満載な考えだったり
あまりにも自分にとって大切なことなので
じっくり夢想したい、という2方向の要素から

今は書けないけれど

そういうことから、ずずずいっと離れて

なぜ、こんな危機が訪れたのか? といえば
答えは非常に簡単で

「これまでの、そして今の自分が、もんだいを抱えている」
に他ならならぬ。

苦しみの大元の、「指折り数えてトップ入りしそうな
人生後半の課題」とは直接の関係はないけれど

ひとまず、自分をマシにする方法を考えねばのぉー。

(落としどころは、とりあえずの、精神的避難に過ぎず
今という現実に根付いた対処法では全くないからね)


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自己憐憫の巻き

そんななか(下の記事からの続き)
どこに思考が逃げるのかというと

「自分の正当化」なのである。


犠牲者になった気分120%で

××も我慢して、××も我慢して
××も飲み込んで、××も許すふりをして・・・
と過去の自分を振り返り

そして、将来を見積もり
この先も、××を我慢して、××を被って
わたし一人が損をするのか・・・
と、悲嘆に暮れて、怒りの火山がおさまらない。

なんて自分はかわいそうな存在なんだ!
という単純思考が止まらない。


そして、それにより自分が楽になるのかといえば
(表面的には楽になる面もあるのだろうが)
自分を蝕む面がはるかに大きいのであった。

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砂上なのか?

ここ一年半くらい、自分史上「おやおや」というくらい
心も体も元気だったので、・・・もちろん時々は
凹むこともあったけれど、その凹み具合や回復の早さを
省みるに、底力は確実にUPしており・・・

なーんか、自分が(かつてと比べて)とても
健全な人間になったような気がしていたのだけれど

それは砂上のできごとだったのだな、と思わざる
を得ぬ事態なのだった。


頭のなかは、ネガティブなことでいっぱいで
それがくるくる回って休むことがなく

胸はきゅーっとか、ちくちくとか
これは言葉上の比喩ではなくて、本当に
そんな風に痛くなって

(過去にも、強いストレスがかかると
胸が痛くなる経験を何度かしているので
殊更驚きはしないのだった)

口のなかも、苦いというわけではないのだけれど
おかしな感じになっており

ご飯もちゃんと食べられないし

イライラ感で眠れないし・・・

えとせとら、えとせとら。


なーんだ、自分のダメ度は、昔と変わらないやん!
と思うのだった。

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大やけど

きっかけは、なんてことのない
まあ、非日常ではあるけれど、日常の延長ともいえる
範疇のことだった。

その日、特別に調子を崩していたわけではないし
いつもなら、腹のなかで収めているような話なのだ。

つまり、コツコツと溜めてきた不満が
自分の予期せぬところで爆発したのかも。

心のなかで大きく叫んでいるのは、「悔しい」と「報われない」。

(いや、ほんとは十分に報われているのだけれど
幼児がもっと愛してもっと褒めてもっともっとと言うように
底なしのなにかを求めてしまったのだろう)

これまで、あんなこともこんなことも目をつぶってきた・・・
これまで、あんな嫌なことこんな嫌なことをされてきた・・・
(あー、日頃は恨んだって何もいいことはないと飲み込んでいたものが
こんなふうにネチネチと自分のなかで感情の再現をするなんて)

そして、気持ちを向ける対象が他にも派生して
いつも、あんなこともこんなことも我慢してやっているのに
誰もそれを知らないし、知らないから当然評価もされないし
むなしい、むなしい。報われない。自分がかわいそう・・・。
(これらのことは、このブログにもほとんど書いてきておりません。
内容に関してはこの場でも書かないでおきます)

そして、無償に腹が立った。

怒りの感情で、自分を焼き殺しそうになった
というのは大げさだけど
怒りの感情で、自分に大やけどを負わしてしまった
のは事実だ。

処理のできない怒りに苛まれ、あげく
「報われない」自分をエンドレスに哀れんで
ほーんと、気がおかしくなってしまったのだ。

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自爆して

ひがみ、と、強欲が
炸裂したのです。

そして、自爆・・・・・・。

あれから12日も経ったのか。




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張本人

なんか、すごーく傷ついているのだ。

(あるいは、傷ついていると、思い込んでしまっている)

傷をつけた張本人は、ほかならぬ、自分自身なのだけど。

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神様からのヒント

ひとつ下のタイトルに少し補足を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神様は自分のなかにいるのだと、わたしは思っています。
だから、ブラック全開の自分になると、辛くなるのだと。

「ならば神様が、諸々を解決してくれるんじゃないの?」
と疑問をもつ人もいるだろうけれど

神様は、ときに手を差し伸べることもあるかもしれないけれど
基本的には、居ながらにして見守る存在なのだと思う。

いかなるときも神様は「良い」とか「わるい」などのジャッジはせずに
(良いとかわるいとか、そんなのは人間レベルの価値観なのだ。
人間にとって「大きな徳」や「大きな悪」に見えることも
神様にとっては同じ意味をもちはしないのでしょう)
我々の認識とはまったく別の次元の視線をもっておられるに違いない。

ブラックな自分になって自分が辛くなるのは
「そこに大切なメッセージがあるよ」という神様からのヒント
なのかもしれないなあ。

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やっぱり神様は自分のなかに

「お天道さまが見ている」とか
「自分がやったとことは自分に帰ってくる」
というのは、ほーーーーんとうなのですね。

(そうじゃないケースもあるよ、と、言う人もいるかも
しれないけれど、それは観察の規模が小さいのだろう)

わたしは、自分が生み出した考えや、放った言葉で
けっこう速攻に身と心を痛めてしまいました。


心の奥底には、いろんなトーンの本音があって
わたしもばりばりブラックな本音を囲っています。

無理にブラックを隠すのは、どこかで歪を生み出すとは
薄々知っていたけれど・・・・・・。

ブラックを、ぶっちゃけちゃうのもねぇ・・・・・・。

だって、ブラックって、深い沼のようで怖いんだもん。

どんどんどんどん、ブラックが出てきます。

それにつれ、どんどんどんどん、おのれが辛くなってきます。

だからこそ
ブラックな自分とは対極の、ある種の理想でもある部分を
(自分自身にも世界にも向けて)
演出しながら生きていくことのメリットを身をもって知りました。

演出は、おのれの正気を保つ力になる。

ブラックな部分も、それとは正反対の部分も
グラデーションとなってすべてを抱え込んでいるのが
自分なのだけれども

その焦点の当て方で、「今の自分」が作られる。

沼底を見ようとはせず、水面の上の光を探して
生きていくほうが、何倍もラクな生き方らしい。


ただし、これは「臭いモノにフタ」をする式な生き方であり
臭い自分から目を背けていては、いずれ(来世以降かも)
人生のなかでまた同様の課題がめぐってくるのだろうなぁ
とも思う。

一番いいのは、ブラックな自分とちゃんと対峙して
それを成仏させてあげる方法なのだろうけど・・・・・・。


上記の繰り返しになるが

1.ブラックは隠すだけでは歪になる
2.ブラックというパンドラの箱の怖さ
3.理想を生きようとする大切さ
4.溶かすしか、ほんとうの解決はなし
(溶かす=ブラックな自分との微塵の妥協もない和解をして
ブラック自体を葬るといいましょうか)

なんだよねー。

今のわたしは「4」を選択する勇気がないなら、せめて
「3」を少しでも取り戻してラクになるしかない(応急処置)。

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落とし穴

人生に、落とし穴って、あるんですね。

先週某日、見事、落っこちました。

いまだ完全脱出はしていませんが、たぶん

底にタッチする過程は済んだので

(あるいは、済んでいなかったならば
今現在が底にタッチしている状態であるとして)

あとは少しずつ立ち上がっていくだけです。


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分人(一)

平野啓一郎さんが『テレビ寺小屋』のなかで
喋っていたこと。(文字起こしメモ)


今日は自己肯定をめぐって少しお話していきたい思います。(中略)。僕自身の十代の頃を思い返しますと、小学生の頃はあまりそうではなかったのですが、中学生くらいになると、教室で友だちと喋っているときに、なんか、みんなは楽しそうにしているんですけど、オレは本当のところ、余り楽しくないなと、みんなが「これいいよね」といっているほど、なんかいいなと思っていないボクがいるというような、ギャップを感じることが増えてきたんですね。いきなり、それで学校に行かなくなっちゃうとか、過激な行動にはでなかったんですけど、幸いにして学校には行っていたんだけど、なんとなくちょっと満たされないものがあると。

それでちょうどその頃に、ボクの場合は本を読むことにだんだん夢中になってきまして、そうすると自分の感動が本を読んでいるときとかに余りにも大きくて、他方、学校にいるときはなんとなくちょっと満たされない思いというのを抱えていましたから、自分はやっぱり、家で本を読んでいるときの自分こそが本当の自分で、学校にいるときは学校の友達に合わせないといけないから、調子を合わせて、まあ演技をしているというんですかね、仮面を被って上手く友だちづきあいをやっているんだというようなことを考えるようになりました。

それがボクの十代の頃、続きまして、当時はそんなこと感じているのはボクだけじゃないかと感じていたんですが、みなさんもご経験あるかもしれませんが、後で聞くと、多くの人が実は学生時代は楽しそうにしているけど、結局は場の空気を読んで、あまりそれにハズれたことを言ってもいけないし、それに同調するようなことを言っていて、どっか本当の自分を生きていないような感情を抱いていたというふうに、あとから友だちから聞いたこともありました。

ここに「社会」というものの、根本的矛盾があるわけでして、ボクたちは自分の個性というのを生きたいと、みんな「個性が大事だ」と当然のように知っているわけですが、その一方でどこに行っても「オレはオレ」「ワタシはワタシ」で、「まあボクこんな性格だからヨロシク」っていきなり言われるとですね、言われたほうはちょっと嫌な感じがするわけです。押し付けがましいといいますかね。やっぱり個性も大事かもしれないけれど、協調性だって大事だし、バラバラの個性の人が生きていくためには、なんらかの一般的な様式に従って生きなければいけないんじゃないかと、それは常識なのか、マナーなのか、あるいは場の空気なのか分かりませんが、そういうものがあるじゃないかと、みんな感じるわけですね。


つづく・・・

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分人(二)

必ずしも「家で本を読んでいる」ときと「教室にいる」ときだけではなくて、教室の友達といるときにはこんな口調で喋っているけれど、家に帰って親といるときには、母親と喋っているときには友達と喋っているときとは違う口調で喋っているわけですね。僕自身も違う自分になっているような気がすると。そういうふうに、本当の自分というのはしっかりと自分のなかにあるはずなんだけど、やっぱり親と接するときとか友達と接するときには、表面的には色んな自分を演じ分けているという感情を抱いていたんですね。

それでじゃあ一件落着するかというと、どうもそうではなくて、ボク自身はなんかいつも、相手の思惑のなかで演技させられているということに、すごくストレスを感じていました。必ずしも嫌な関係ばかりじゃないにもかかわらず、なんか自分は本当の自分を生きていないんじゃないかと、いつも相手の顔色を伺って、それに調子を合わせてばかりいると。また自分自身の実感だけじゃなくてですね、社会自体も、いくつもの人格が一人の人間のなかにあるということに対して、非常に否定的に語ることが多いんですね。「あいつは裏表のある人間だ」とか「八方美人だ」とかですね、それは信用ならんというのですかね、なんか裏表があると、器用に色んな自分を使い分けて生きているというふうに言われてしまうと。

コミュニケーションのなかで、どうしても色々な自分にならざるをえないのに、人間にはたった一つの個性があって、本当の自分を生きなさいとメッセージを発せられる、この二つのことで非常に悩んでいました。で、じゃあ、コミュニケーションのなかで色々な自分になっているのが本当に表面的なウソの自分なのかということに対しても、だんだん疑問が出てきました。自分は単に表面的に演技をしているだけなんだろうか?と。結局、これは本当の自分じゃなくて、ウソの自分なんだろうかということを考え出しますと、結局、誰かと接して、本当にその時々には心から楽しいと思っていても、一歩家に帰ると、「あれはでも結局アイツにあわせて、そういう自分を演じているに過ぎなくて、本当の自分は違うし、まあ、アイツだって、ボクにあわせて楽しそうにしてたけど、本当はボクに調子を合わせただけで今頃ぺろっと舌を出して、やっぱりあれは演技してたに過ぎないなあと、家で思っているのかなあ?」なんて考え出しますと、人間関係そのもの、人と交わること自体が、どんどん虚しくなってくるわけですね。

その一方で、人の思惑に一切惑わされないために、完全に人間関係を絶ってしまって、部屋に一人でこもっているときこそが本当の自分なんだという考え方に納得できるかというとですね、それじゃ、本当にひきこもった人だけが本当の自分になれるんだろうか? やっぱり人間は社会のなかで生きるから、どうしたって、人との関係のなかで生きていくんじゃないかという矛盾にさらされてしまうわけです。

この問題を考える上で非常に重要だとボクが考えるのは、個人という~我々の誰もが知っている言葉です~個人という言葉はごくごく日常的に使われる言葉ですが、実は明治になるまでは日本語のなかにない言葉でした。(中略)。



つづく・・・

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分人(三)

実際にコミュニケーションの現場を考えてみますと、自分は一つの人間で、自分という個性は一つだけだと思っていても、接する人たちもみんなそれぞれ個性をもっているわけですから、どうしても「オレはオレ」とどこにでも通じる個性というものはなかなか難しいわけですね。どうしても相手とのコミュニケーションのなかで、その人の影響を受け、またこちらも影響を与えて、色々な顔をもってしまうことになる。「本当の自分は一つだ」という考えがあり、にもかかわらず、色んな顔を現実的にはもってしまっているというとこで、いわば苦肉の策としてですね、人間は中心に本当の自分があるんだけど、人間関係のなかでは複数の自分を演技して使い分けているんだというような、一種の人間観のモデルのようなものが近代以降ずっと定着してきたわけです。

ところが先ほど申しましたように、自分がウソの表面的な演技をしながら生きているという考え方に、なかなかボクたちは満たされないわけですね。そこで「個人」という考え方をですね、もともとインディビジュアル、分けられないという意味ですけど、インディビジュアルの、インという否定の意味をとって、ディビジュアル、つまり「分けられるんだ」ととってみたらどうかというのが、今日のボクの提案です。

それは、分けられるという意味で、「個人」という言葉に対して、「“分ける”に人」と書いて、ボウは「分人」という造語を作りました。一人の人間のなかには対人関係ごとに、色々に変わる分人がいくつもあります。個人という概念では「本当の自分が一つだけあって、表面に演技している自分がある」というモデルでしたが、分人は一つだけ本当の自分があるというのではなくて、「対人関係ごとの、色んな顔を全部、本当の自分として、まず認めましょう」というところから考え始めます。そして、その色んな別人を「どういう比率で自分のなかにもっているか」、例えばものすごく尊敬する師に出会ったとして、その人と過ごす時間は自分にとって非常に大きな場合は、その人のなかでの恩師との分人は非常に大きな比率であって、他の人との付き合いの分人というのは比率的に小さくなっていくでしょう。あるいは、すごく好きな彼氏ができて、その人と付き合いだすと、その人との分人は大きくなり、他の友達との付き合いというのは比較的小さくなっていくかもしれない。だけど二年くらい経ってその彼氏と別れてしまえばですね、今度は友達との分人というのが自分のなかで比率として大きくなる時期が来るんじゃないかと。

どうしてこういう考え方が今重要かと申しますと、最初に申し上げましたように、「自己肯定」の手がかりになるんじゃないかという意味なんですね。というのは、ボクたちは、なんらかの形で自分を好きになる、自分に対して肯定的な感情をもてないと、なかなか今の世の中生きていくのが難しくなると思います。自分は、自分のことが本当に嫌だと、自分が嫌いだと思いつめてしまうと、やっぱり生きていて辛いと思うんですね。しかし、じゃあ、自分のことを大事にしなさいと、自分を好きになりなさいと一方的にいっても、なかなかこれは難しいことで、僕自身も「平野さん、あなた自分のこと好きですか?」と誰かから聞かれると、まあ、好きといっていいのかどうか、ちょっと躊躇ってしまうわけですね。やっぱり自分の欠点も色々知っていますし、毎朝鏡を見てオレはオレのこと好きだなあと、しみじみ思える人はよっぽどナルシストで、やっぱり自分を全肯定するのは難しいわけですね。

しかし対人関係ごとに考えれば、つまりAという友達といるときの自分はどうかなと、あるいはBという友達といるときはどうかなと、あるいは恋人といるときの自分はどうか、親といるときの自分はどうかというふうに、分人ごとに考えていくと、意外と人は「Aという友達といるときの自分はけっこう好きだ」と、明るく色んな冗談とかもいえて、楽しい気分にもなるし、Bという野郎といるときはなんかいつもムカムカして、つい嫌なことをいってしまうと。Bといるときの分人は好きじゃないなと。あるいは今の恋人といるときの自分はウキウキしていて、楽しいと。分人ごとに考えていくと、好きな分人というのはいくつか見つけられるかもしれない。

逆に、学校でいじめられたりして、自分のことがすごく嫌になっているという人がいるとします。否定のほうは肯定と逆に、自分を好きっていうのは難しいけど、自分を一気に全部嫌いになってしまうというのは不幸にしてあるわけですね。自分が生きているのは嫌だと、最悪の不幸の場合は自殺したくなってしまうということもあるでしょうが、しかし仮に例えばいじめられたりして自殺してしまうような人でも、あとから聞くと「家庭では両親との関係はすごく良くって、ただ学校でいじめられていて、それを苦にしていた」とかいうことはあるわけですね。

そうした場合に先ほどから言っているように、分人の構成というのが、例えば円グラフにしてみて、学校にいるときの分人、親といるときの分人、とかいうのを図かなにかにしてみるといいと思うんですね。そうすると、いじめられていて、自分の全部が嫌と思っているかもしれないけれど、本当はいじめられっ子との関係の分人だけが嫌なんであって、実は生きていて楽しいと思っている分人が他にもあるじゃないかと。だったらその分人というのを、しばらく足場にしながら、どうやったら自分の好きな分人を増やせて、嫌いな分人を生きずに済むか、つまり学校を辞めるなり、転校するなりということを考えられるんじゃないかということを、具体的に状況を改善していけるんじゃないかと思うんですね。



つづく・・・

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分人(四)

ボクは先ほど来、「比率」といっているのはどういうことなのかといいますと、ひとつ分かりやすいのは「時間」だと思うんですね。つまり一ヶ月のあいだに誰との分人を生きる時間が一番長いのかと。我々は自分の好きな分人を生きる時間が長ければ長いほど楽しいわけですね。じゃあ、誰との関係を大事にして、どの分人を生きる時間を長くし、自分の分人の構成というのをどういう比率にするのがいいのかというのを考えていくことが、具体的に自分たちの人生を設計していくときに、すごく重要なんじゃないかと。

人を好きになる、愛するということはですね、従来はこちらから相手のことを一方的に好きになる一方向(いちほうこう)的に考えられていました。しかし今のような分人という考え方をしますと、実は誰かのことを好きだというのは「その人といるときの自分が好きだ」という感情でもあると思うんですね。それはつまり、自分のことを好きになるというのは、いきなり他者もなにもないところで、自分のことを好きになるというのは難しいのですが、誰かのおかげで好きな自分になれるということであれば、一回、他者の存在を経由して自己愛に向かっていますから、それはナルソスティックな気持ち悪い自己愛と違って、やっぱり人と生きていくなかで自分を尊重するという感情になるんだと思うんですね。

ですから、我々は最愛の人を亡くしてしまうこということもありますが、そういうときはもちろん、その人が亡くなって悲しいという気持ちはありますが、同時にその人の前でだけ生きられていた分人をもう生きられなくなってしまうということが実は大きな悲しみなんじゃないかと。他の人の前では、こんなにだらしない格好で、こんなにバカな冗談なんかとてもいえなかったけど、奥さんの前だけではいえてたのに、その奥さんがいなくなってしまったとなると、もうそういう分人を生きることはできないと。誰かを亡くして何ヶ月か経って本当にさびしいなーという気持ちになるのは、たぶん、その日に経験してきたことを、その亡くなった人に向けてしゃべりたいと、その喋り方も、他の人に向けて喋る喋り方と違って、その人だけに通じる喋り方があったのに、そういう自分の分人を生きられないとなったときに、人は人を亡くしたことを本当に悲しいと思うんじゃないかなと思うんですね。

ですからボクたちは人間関係ということを中心に自分というのを見つめなおすときに、そういうふうに分人ということを着目することによってですね、自分の全部をざっくり好きになるとか、全部を嫌いになってしまうということではなくて、もっと具体的に自分というものを見つめ合い、そしてやっぱりあの人のことを大事にしないといけないなというふうに、他者と一緒に生きるということを納得していけるんじゃないでしょうか。



以上、『テレビ寺小屋』のなかで
平野啓一郎さんが喋られていたこと。

小説『空白を満たしなさい』は未読であるが
「分人」という考え方は、折々、ラジオやネットで
それとなく知っており、興味をもっていた。

ちょっとメモをのつもりで、文字起こしを始めたら
けっこう長くて、途中でうぃ~~となったけれど

写経ならぬ、写話(!?)のつもりで、いたしましたデス。



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北アルプスがきれいでした

2月12日(金)

すばらしいお天気だ。

朝のゴミ捨てあとの二度寝をせずに
洗濯機を数回転。

長く洗濯機をもたない時期があったので
自宅にいながら「機械が洗濯してくれる」ありがたさは
ひとしおである。

嬉しいなー。嬉しいなー。ほーんと嬉しい。

いまだ、物干し竿が部屋のなかを横断しているけど
(今では、そこにパラソルハンガーも吊下がって)

それをも、やっほー!なのだ。
(↑ 脱いだエプロンを掛けたりと、便利である。
でもまあ、いつまでもこのままという訳にもいかないな)

午後は市場の、きのうお休みだった店へ。

「桃もいいな」と思いつつ、けちんぼ魂が勝ち
(しかし、考えたら、ほんのちょっとの差額なのだ…)
「緑のポンポン菊」と「黄色いバラ」を選び

お菓子屋さんでは中国人観光客が去ったあと
(春節の休暇で、金沢にもいつも以上の観光客が)
母ちゃん用の飴ちゃんの大量買い。

うほうほと用事を済ませ、いざ、実家へ。

青い空に、まっしろい北アルプスがきれいでした(車窓)。


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