ともみ@ピクニック

27日に帰省をしてから、ぼやぼやっとしていたら、あっという間に大晦日の夜になっていた。その間の行動メモとしては、Mさん宅にあいさつ、障子を2枚だけ張る、そして今日、松と南天の実などを仏間に飾った、三種の厚焼き卵を作ったくらい。ふうっ。元気のないことを認めて、許して、こたつでずっと臥せっていたのだ。

◎正直になることが必要だ。と思い、わたしなりの「正直」行動をするのだが、そこにはまだまだ力みというか、計算や人の目を気にする所が残っており、けっきょく、「正直」行動のあと、あーだ、こーだと、また自分で自分を苦しめるハメにおちいる。そんな年末でもあった。

◎「人は一人で生きられない」とか「人と触れあうことでエネルギーが生まれる」とか、きっとそれは本当のことなのだろうけれど、どうしても、わたしは人と一緒にいるのがしんどい。きょうきのう始まった葛藤ではない、これは。「いつから?」を問われたら、「生まれたときから」と答えるのが一番すんなりする。この葛藤は(人との繋がりは大事という根源的な知識がある一方、それを当たり前のこととして喜び享受していない)自分のなかでも処理しきれないのだから、他の人々に理解を求めるのは無理なこと。

◎人と会うことで、タマシイが動揺するのを避けたいのだ、たぶん。と、先日ふと思った。

◎これまでの人生で何度か「うつの気(け)」をカミングアウトしたことがあるのだが、「気を遣いすぎなのだ」と即答されて、おしまい。あー。「そんな単純なものじゃない」のだけどね。

◎無理してがんばろう(人並みのふりをしよう)という気持ちもなくなってきたこのごろである。


ああ、あとちょっとで年越しだ。

普段わたしは「つらい」「しんどい」と自分の内面ばかりを向きがちだけど、もしかして(わたしから見たらキラキラ楽しそうな人生に見える)まわりの人たちにもきびしいことの多い2012年だったのかなーと、ちょっと思った大晦日。(あたりまえだろ! 誰だって顔に出さないだけで、一人ひとり日々葛藤しているんだ、という正論を超えたところの話)。

「誰だって、草木が風雪に耐えるように生きているのです」、ある裁判員の言葉が胸に残る。

うむ。

久々に日記を書いて、こんな話題~。

ま、いいか、これが自分。





いや、まてまて。

人生はきっと、ハッピー。(基本、ハッピー)。

しんこくな事々はまぼろし。

(しんこくぶっちゃって、しんどい・つらいと思いこんじゃって、いるけれど
それはお遊びなのさ、たぶん、本当のところはね)。

な~んにもない、なんにもな~い ♪ そこに
自分の心が描いているだけなのさ~。





今年もブログを読んで下さりありがとうございます。





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12月26日(日)

お昼に起きて、午後は少し外に出る。自転車にのったら、手が痛いっ。冷たいを通り越して痛いっのだ。市場内をうろうろしていたら、紳士用の毛糸の帽子に人目ぼれ。ふふっ。おつむは大事にせにゃいかんしな。そのままお店にはいったら、すいすいと手袋売り場にひっぱれ、あたたかミトンに恋してしまう。ぴょ~ん、ぴょ~ん。自分用の冬のプレゼント、思いがけず嬉しいわい。お惣菜を買って市場を出たら、視界はなはだしくゼロに近い、銀色世界。最初なにがどうなっているのか分からなかったが、粉雪がはげしく舞っているのだった。

121227_1223~01[1]

冬至のあたりから「あれ、日が長い?」と思っていたので、調べたら、冬至の半月ほど前から日の入りが遅くなっているとな。寒さはますます本格的になるけれど、太陽さんのお出ましはちゃんと長くなっているのね。ご自愛を。

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12月25日(月)

▲お昼に起きて、チョコビスケットと珈琲のお目ざ。歯医者のあと、いったん家に戻り、夕には心療内科のクリニック。聞いてもらいたいこともあったのだけど、話の内容を整理してこなかったのでそれについては触れず、“薬をもらう”ためだけの会話になってしまった。ちょっと無念な思い。まっ、こういうタイミングだったのさ。バス代を節約するため、しゃかしゃかと歩いて帰宅する。
▲『シークレットガーデン』を観ている。んー、タイトルには惹かれたが、ハマる感じじゃないな。

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12月24日(月)

☆Bちゃん親子からクリスマスカードが届く。立体型で、着飾った森林にトナカイが歩いていたり雪が降っていたり、これを机の上に置いておくだけで、ミニツリーのような味わい。同封の青いネコ(Mちゃんの折り紙)も可愛いらしく、パソコンに立てかけてみた。
☆一日中部屋にこもっているのもなぁと思い、散歩へ。雪が積もっているから長靴履いてね。とりたてて行くところもないので、毎度のコース、玉川図書館(母が読めるよう阿川佐和子さんと小泉武夫さんの食エッセイを借りる)、片町のセブンイレブン(アマゾンの券を買う)、香林坊のミニスーパーをまわって帰宅。
☆わたしにとってのクリスマスはJ-WAVEが一日中クリスマスモードになっている点。ちょっとだけわくわく。夜は沢木耕太郎の『天涯』を聞きながら就寝。(沢木さんの声に触れて「この時期がまたやってきたなぁ」の気分にひたると同時にどこか郷愁のようなものにつながることを楽しむのだ)。



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追記

◇下の話、「ある日を境に」のような書き方になってしまったが、実は一瞬一瞬がその境目なのだ。

◇この手の話をするとき、「知識はあっても心からの理解が伴っていない」とおのれを表現してきた。はて「知識」とは適切かいな? 細かいことになるが、概念レベルにすぎないのでは? と、昨日、ある文章を読んで思った。

◇わたしの体験していること(たとえば、疲れた、傷ついた、イヤになった、不安になった、などなど)は、身体と頭がとらえているに過ぎない。そして意識がそれを観察しているだけ。(自分としては「観察された結果」が現実に起こっていることと勘違いしてしまう)。なにも減ってはいないよ、傷ついてもいないよ、困ることはないよ、大丈夫、だいじょうぶ。

◇要するに、魂はぴかぴかなのさ。いつでも。誰でも。みんな忘れそうになっているだけ。

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「ほ~ら、地球は終わらなかったじゃないか」な見方に、わたしは驚いている。

あ、その前に「21日地球滅亡説」にあたふたしていた人類が多くいたとの報道にも驚いたな。(たしかにマヤ文明があーだこーだと以前見聞きしたようにも記憶しているが、いつのまにか、わたしのなかでは「2012年12月21日はアセンションの節目」という意識が、マヤ文明あーだこーだにとって代わっていたのだ)。

なんで終わらなかったといえるの? 

実は「12月20日まで自分が存在した地球(地球という流れ)」のなかに、今の自分はいないかもしれない。・・・→自分が別の地球にやってきたわけである(もちろん本人の自覚なく)。

そして「12月20まで自分が存在した地球(地球という流れ)」は、何らかの理由があり、すでに滅びてしまったかもしれない。・・・→これまでの地球は滅びて、自分はあたらしい地球にいるわけである(これまでの地球とあたらしい地球の外観上の違いはないので、自覚しにくいが)。

そういう想像だって、わたしのなかにはあるからだ。

これは「パラレルワールド」や「アセンション」の話につながるな。

ところで、地球が滅びた云々話にほとんどわたしは興味がない。

ただ「どこかしっくりこない自分」というか「制限のかかっている自分」を(これは鬱の気質とは関係ないところで)感じる半面、もしかしたら、これまでわたしと同じ世界にいながらも意識の高い状態を保つことのできた人たちが、どこか別の世界、別の地球に行ってしまったのではないか。そんな思いも少しあるのである。

メモ代わりに記しておく。前より思っていたこと。「この地球はけっして悪いほうに向かってはいない。テレビのニュースなどではときどき物騒な話もあるが、総体としてみれば、一人ひとり、あたらしいエネルギーに向かって生きている、向おうとしている人は増えている」。(そうじゃない現実が見えるとき、そうじゃない現実にばかり目がいくときは、たまたま自分が無意識のうち「そっち」にアンテナを立てているのである。あるいは表層しか見ていない)。「現代的貧困の底辺が広がり、精神的な病が珍しくない時勢となり、ほうぼうで大規模な自然災害が起こり、いわゆる“先行きの見えない”今は、「生みの苦しみ」の渦中なのだろう」。(だから古い概念であーだこーだと分析したり理解したりしようとするのはナンセンス。地球は全体として着実に先へと歩んでいるんじゃないかな)。(もちろん「先にアセンションした人々の住むパラレルワールド」があったり「見かけはいまどきでも古い思考体系にとらわれて遅々としたエネルギーを囲うパラレルワールド」があったり、色々な次元の地球の可能性も否定できない)。・・・こういう方面に興味がある人には分かると思うが、ここに書いたことはちっともオリジナルではない。あちこちで多くの人が発言していることのうち、自分にとって共感できる考えを、日々の生活のなかで噛みしめているうち、いつしか自分の信念のようになったのである。

パラレルワールドとアセンションの組み合わせは無限で(ま、これだって、自分の創作している「三次元用語でいう現実」の延長にすぎない)、明日、仮に知り合いのAさんに会っても、実はそれはこれまで知っていたAさんの続きのAさんではないかもしれない(同一人物でありながら、同一人物ではない。あたらしく自分が移行した世界に登場するためのAさん)。これまで知っていたAさんは、今は、わたしの手の届かない地球にいるかもしれない。(Aさんが古い地球にいるのではななく、Aさんもまた別のあたらしい地球に行ってしまった)。ここ数日、ぽっと、そんな考えが浮かぶ。




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12月23日(日)

▲カブラ寿し作りのお手伝いをする。塩漬けのカブラを桶から出して、その一つ一つに、先月より甘酢に漬けて重石してあった魚(フクラギ)を挟んで、麹(専門店で買った麹を炊きたてご飯と一緒に混ぜ発酵させたもの)と、人参、柚子の皮、唐辛子と一緒に漬け込むのである。わたしのやったのは、力仕事と、天気がわりとよかったので玄関前に腰掛けての「唐辛子のカット」(超薄切りにしてみた。こういう作業、好き!)と、魚を挟む作業を少々。いかなる出来かは、お正月のお楽しみである。
▲昼から金沢へ。うむ、今日は天皇陛下のお誕生日なのか。おめでとうございます。

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12月22日(土)

◎お正月の買出しについて行く。(少し早い気もするが、「来週大雪が降って車を出せなくなったら困る」と姉と母)。スパークリングワインやワインを何本も買ってもらい、久しぶりにアルコール在庫が満ちる。そうそう、みかんの箱を探したら、今って、5キロのしかないのね。(わたしが子供の頃はみかん箱といえば10キロサイズだったのに)。すぐに食べ尽くしちゃうから、2箱を購入。ちなみに有田産である。
◎数年前、なにげに自分の手のひらをみたら、右があまりにぎょっとする変化をしており、以来、ときどき気になって見ているのだが、刻々と、たしかにそれは変化している。左もじわじわと人知れずに動いているとは思うのだが、右の手相は薄くなったり移動したりと(わたしは手相のイロハも知らない)ちょっとこわくなるほど。なんなのだろー。

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12月21日(金)

ほわほわほわんと朝の眠りを楽しんで、ゆっくり起床。パン(チーズトースト半枚とフランスパンを小さく切ってカリッと焼いたの)と、キャベツたっぷり卵焼きと、小魚(赤ちゃんイワシにゴマをまぶしたの)、はちみつヨーグルトと、リンゴと、緑茶。食後にコーヒー。(いつもは食前に緑茶なのだが、今朝はなぜかこうなった)。午前中は少し外仕事(テーブルセットなどを仕舞ったり、落ち葉掃きをしたり、大量のハクサイを車庫の棚に並べたり)。お昼は、発芽玄米雑穀お芋粥と、カボチャの煮物と、ホウレンソウのおひたし、お魚(母は焼きアジ、わたしはブリの煮物。ともに残りもの)、漬物、根菜たっぷりの野菜汁(もとは味噌汁。牛乳や豆板醤で進化している)、ミカンを食す。ところで、わたし、今朝起きたとき「あー、最近ホウレンソウを食べてないぞ!」と普段気にもしない考えがぽっと浮かんだのだった。それと今朝「去年のカブラ寿司用のカブラはYから分けてもらったんだったねー」と母と話していたのだが、昼前に畑から帰ってきた母の自転車のカゴにはホウレンソウが入っている。「Yからもらったの」だって。まあ、こういうこと(「最近△△食べてないね」とわたしが言うと(今日は口にはしてないが)、ほどなく母がそれを誰かからもらってくる)は何故かたまにある。午後は汽車に乗って海の見えるお風呂へ。(母も一緒に行ったのだが、彼女は厚着をしているので脱ぐのが遅いだろと思っていたら、するするっと全裸になった。え? ズボンも股引もパンツも同時に一回で脱いでしまう技をもっていたのだった。上衣も同様に)。のんび~り外風呂、内風呂を楽しんで、休憩に抹茶ソフトクリームを食べて、またお風呂に入って、レモンティーを飲みながら汽車に乗り帰宅。「あんまりお腹空いてないねー」と母もわたしも言っていたのだが、夕飯をあっさり饂飩鍋にしたら(お野菜、キノコ、豆腐、饂飩。味のベースは醤油。薬味はユズとカンズリ)二人とも予想以上に箸がすすんだ。

幸せな一日でした。

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冬至のこころえ

冬月は、急病にあらずんば、鍼・灸すべからず、と『養生訓』は言う。冬ならではの特別な心がけについて、今回は整理しておこう。冬は、基本的に「天地の陽氣とぢかくれ、人の血氣、をさまる時」だという。だからその収まったエネルギーを保つことこそ大事で、よけいなことに消費してはいけないのである。「あたため過して、陽氣を発し泄(もら)すべからず」「上氣せしむべからず」である。風呂も熱いのはよくないし、運動して汗をかくのもモッテノホカということになる。冬至ともなれば、そうした用心も極点に達する。初めての陽氣がぽっと点るのが冬至だが、益軒先生はこの「陽氣の微小なるを静養すべし」とおっしゃる。静養とは静かに養うことだが、まるで小さな子猫でもいとおしむようにこの陽氣を大切に扱えと、先生は言っているように思える。「労働すべからず」また「公事にあらずんば、そとに出ずべからず」、そして例によって「冬至の前五日、後十日、房時を忌む」のである。

玄侑宗久さんの『自愛の手引き書 養生事始』より

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12月20日(木)

●今日も起きたら、えっ、と驚くほどの積雪。でも朝食のあとまたひと眠りして昼に起きたら、おおかた溶けていた。午後から師走恒例の仕事。かぶら寿司用の、かぶらの皮剥きである。今年は思ったより量が少なく(約20キロ)、あっという間に終わってしまった。(皮むき…わたし、カットと切り込み…母、の分業後、桶と重石を外で洗い、塩漬けにする)。ひと仕事を終えたあとの生姜ココアがおいしかった。

●書く機会をもたぬまま、今日が来てしまった。夕方のテレビで2012年12月21日のことを取り上げていたが、わたしは以前よりこの日(明日)をこんなふうにとらえている。アセンションの一過程。(アセンションは次元上昇のこと)。当然ながらこの日を境に地球がなくなるなんてことはなく、この日を境にアセンションが加速するとか、分岐の要の日だと思うのだ。実は今年を迎える前から「2012年はアセンションの年」を意識しており、今月になってからも「ああ、近づいてるよ21日が」としばしば思いを寄せていた。で、ここで波動を整えるとかできればよかったのだが、そんなこともなくここまで来た。なぜか最近は現象と自分のバランスがよろしくない感じだし。「わたしはアセンションに乗れないの~?」との不安がちらっと浮かぶこともあったが、よーし、ここまできたら、腹をくくろう。明日は明日なりに生きることを尽くそう。(一万歩譲って、今、置いてきぼりになったとしても、結局はみんな、同じところに行くらしいしね)。

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12月19日(木)

●早朝からブログ書き。「日記で日々を振り返る」のは心の整理になるなと思い出した。しんどいだけの毎日のように思っていたが、一日ずつ振り返ると、それなりに“楽しみ”もあったのだなあと分かり、よかった。
●外は雪景色。いつの間に積もったのだろう。昼から帰省の途につく。夕方前、実家のコタツにもぐってテレビ人間。平日の午後って、“売れっこではないが顔はよく知られている俳優やタレントが少人数で国内の旅をする”番組がよくあるな。きっと定年退職した人などが、ぼぉぉぉっと時間潰しに見るのだろう。普段はこの手の番組を好まないのだけど(今日はぐったりさんのため録画してあるドラマなどを見る気力はないので)たまたまやっていた「富士五湖をローカルバスでまわり、色んな富士山の姿を見る」番組をぐでぇぇぇっと見ていたら、わりと良かった。


追記 一昨日分の日記、あとで思えば、あと味のよろしくないものも書いてしまった。おまけにあれを読んだだけでは「支離滅裂でなんのこっちゃ」となるだろう。(自分ではなにを書いたかちゃんと覚えておらず、読み返す気もしないが、あと味のよろしくなさはある)。ぐーぅ。先月終えた派遣労働は、わたしにとってトラウマを残したともいえるほど辛いもので、それをまだあまり消化できずにおり、派遣会社の担当者と電話で話をすることすら、心が怖がっているのである。あ、いちを言っておくが、表面上は契約期間を円満に終えたのだけど。

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no title

「すべてはわたし自身が創り出している※」と頭のなかで繰り返し唱えたって、それが知識としてしか馴染まないのは、「わたし」=「この顕在意識をもつわたし」という認識のクセがあるからでは?とふと思った。もっと顕在意識の奥にいる「わたし」を探さないと!

※そのとき意識していること、そのとき発するエネルギーが、現実をつくっている。わたしが出会う人や出来事、ニュース、地球の反対側の自然現象、すべてすべて、わたしが創っているのだよね。

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12月18日(火)

落ち込みすぎて、明るい時間に起きられず。(いったんこの沼に落ちると、寝込みオバケにとりつかれたようになる。十回近くあった電話の着信音にも「ああ勘弁して」と出ることできず。上に「落ち込み」と書いてしまったが、正確には落ち込みじゃないな。一番しっくりくるのは「この現実から逃げたくて」となるかな)。それでも22時台にはお布団から出ることができたのだから、よし!

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12月17日(月)

◎先週たまたま通りかかって目についていた外套を見に行く。そのお店は“若い女の子の御用達のショップ”という感じの洋服屋で、店員は、べっちゃっとした愛想を振りまいて(初対面の人間になんでそんな媚を売った態度をとれるんだ?)、「今日はお仕事お休みなんですか~ぁ」とか、「ほかに色々お買い物しましたか~ぁ」(わたし小バックを肩からななめがけして手ぶらなんだが)質問してきたり、「あともう1点買い物したら、1割引きになりますぅ」や「一万円以上のお買いものにはクマの縫いぐるみをプレゼントですぅ」など、勘弁して。ああ、もう、べちゃ、べちゃ、イヤっ。しかし、気にいった外套を買えたのはよかった。
◎母にはユニクロで柄フリースと暖かそうなレギンスを購入。ふう。買い物は楽しくしたいものだ。ここずっと、「あれ、買わなくちゃ。これ、買わなくちゃ」のプレッシューばかりが続いていて、困る。(とりあえず、買いたいものリストの上位で残っているのは「長靴」と「折畳み傘」だな)。
◎夕、スタバへ。無料で本をひきとってくれる、Book For Twoという企画があり、岸本某さんのエッセイ本を十数冊もっていく。(実はわたしが大昔初めて書いた原稿を読んだ編集者が「初期の岸本さんの文章と似ている」と仰ったことが胸に残り、これまでいくども本棚の整理をする際なかなか手放せずにいた)。台湾のYさんへの手紙も仕上げる。

日が暮れてから、午前中に派遣会社のヒトから電話があったことに気付く。(寝床で、目覚ましアラームと勘違いして、電話を切っていたらしい)。・・・この派遣会社は今までいくつも登録した派遣会社のなかで一番誠実でスタップのことを考えてくれる会社だと思っている。東京時代からお世話になっていて、実は先月までの労働も「この派遣会社からの信頼を失いたくない」との思いから「気がふれそう」なくらいしんどいなか、契約期間を全うしたのだ。・・・派遣会社にはなんの問題もないはずなのだけど、今回はな~んか「うまく空気がまわってない」感じ。就業の契約が決まってから今日に至るまで何度も何度も所用の電話があり~普通の就業でこんなことはない、毎回、着信をあとで気付くのでかけなおす手間もあり、ふぅ、だったぞ。(回数も少なければ、わたしだってこんなグチにはならん)。そしてこれはわたし自身の問題なのだけど、特に就業中は「ただでさえ就業という大ストレスのなかこういう雑用があるのは相当の重荷」だったのだよな。今回の契約が終了した数日後も電話があり、その着信を見つけただけで一気にウツモードに入ったぞ。(自分でもこの急変には驚いた。まあ、そのときは一晩で回復したが)。たぶん就業期間中の精神的なダメージが強すぎたことから、派遣会社の担当者とかかわることにもまだ苦痛を覚えるのだろう。・・・話は本日に戻る。電話の着信を無視するわけにもいかず、気力をふりしぼって折り返しの電話をすると、用件は「先日、サインした書類の日付に問題があり、再度サインして欲しい」だった。

夜には「法事の返事、どうする?」と母から催促の電話がある。ああ、法事。およびお正月。わたしにとっては悪夢のような行事だ。「どうやって切り抜ける?」をときどき考えるが、考える真剣度が不足しているのだろう、名案が思いつかないまま本日に至る。▼三案のなかをぐるぐる堂々めぐり。(A案=出席。これまで何度も経験した苦痛の時間の繰り返しになるなぁ。 B案=欠席。でも、ただ欠席するわけにはいかず、事前に手土産もって、お線香をあげに行かなければ。大勢の親戚と会うことは避けられるが、欠席の理由をどう話す? C案=法要のみ参加、会食を断る。これがいいようにも思うが、大勢の人に会うことと会食欠席の理由は用意しなければならない)。去年度は「祖父の弟の奥さん」の法事と、「父の姉」の法事と、「母の弟」の法事を断ることができた。しかし、今回は「母の妹の夫」ではあるが、まだ一周忌ということもあり、どうしよう。▼(で、翌日18日は、法事の返事のプレッシャーで、うつ重症化。夜遅くまで体を起せず臥せる)。▼この手のこと(親戚づきあい)を考え始めると毎度のように陥るコト・・・いっそ、遠い土地に行ってしまいたい。そしたら親戚の用事の返事に気が狂うほど苦しまなくていいし、そもそもお誘いも減るだろう。▼この世に親戚づきあいというものがなければ、わたしの人生はどんなにラクだろう。誰も、わたしが親戚の行事に自身を蝕むほどのプレッシャーを抱えているとは、知らんのだろうな。(誰のせいでもない。しいていうなら、わたしのせいであるし)。▼なんでそんなに親戚づきあいが苦痛なの?と他人は訝ると思う。たぶんこれは何十年もの蓄積で、今の自分の劣等感がそれを何倍にも膨らませているのだろう。▼(わりと近年までは親戚づきあいに耐えていたが(特に法事などは自身の感情とは関係なく出席しなければならないというスリコミが自分のなかにあり)、もういい加減、イヤになった。まわりを見渡せば、年寄りはいっぱいで、この先、葬式・法事を、何十回と参加しなければいけないと思うと・・・。こんなグチを言っている限りは何も変わらない。まわりの人々になんと思われようと「断る」勇気をもたないと、わたしは延々と堂々めぐりをすることになる。どこかで脱「法事」宣言をしないと。

えっと、自分さん。「あなたがこの問題を作っている」のですよ。「わたしはこういう問題に苦しむ人生を誰かからどこかから与えられているのではない、他ならぬわたし自身がわたしのなかでこの現象(たとえば親戚づきあい)を作りだしているだけ」ということを、あなたは知っているよね。それはもちろんイタズラで作り出しているのではなく、たとえば、何かのカルマであったり、乗り越えなければならないヒントがそこにあるから、何度も何度も少しづつ形を変えながら、あなたの前に現れるようにしているのでしょう。あなたはそれを忘れているだけで、自覚がないだけで、ホントはそういうことだと、少なくとも知識としては分かっているよね。→→そもそもが自分の作り出している幻(現象)なのだから、「他人からどう思われるか」なんて、夢のなかの夢を心配するようなもの。それから、これも確認しておくね。ひとつの出来事をその場しのぎで切り抜けたって、根本的なこと(その出来事に隠されている根本的なこと)が解消されない限り、何度も何度も同類の根っこをもった出来事がやってくる。










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