ともみ@ピクニック

びっくりするほど“現実化可能な箱”というのがあって、
「1つ、あんたも入れていいよ」と云われたら

「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」とか
そういうこと書いて入れると思う。


お金も欲しい。
気持ちのいい部屋にも住みたい。
いっぱいの愛情にも触れたい。
などなど

そういう具体的な欲望ももちろんわたしにあるのだけれど

「人にやさしい自分」や「おだやかな自分」でいられるということは

すでに、そういった条件が満たされているに違いない!!!

と思う、浅い自分がいるんだよね。

言い方を変えれば

たとえば仕事があって、お金を稼げて、好きな部屋に住めて
(最低限の条件が整ってはじめて)

こころの平穏も訪れるのだろう

またそうなれば、素直に人の愛情も受け入れられる

(ついで話。人に会うのが平気どころか
 人とのコミュニケーションに幸せを感じられるほどの
 こころの余裕(豊かさ)があってこそ
 生きる楽しみを信じられる)

というのが、今の自分にはあるのだ。

(今の自分は。・・・と書いたのは
「上に書いたような環境的な充実が、本来の絶対の条件ではない」
とも思うからだ。ただ、まだまだ勉強の足りないわたしは
そういったわかりやすいエサ(?)を求めているという・・・)


つまり、わたしにとって

「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」であるということは

少なくとも
生きがいや、お金や、住まいなどが、それなりに満たされてこそ

との思いがあるのだ。
(もう一度書くが、これは未熟な思考であるよのぉ)。



好きな仕事をして、お金も住まいも満足していて
それでも、人には理解されがたい苦しみのなかにいる人はいっぱいいると思う。

大きなトラブルもなく、容姿も端麗、才能いっぱい
生きる全ての道が整っているようにみえても
誰にも話すことのできない悩みをもっている人もいるのだろうな。


その人、その人が、そのときの自分をがんばっている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記 酔っぱらって書いていたらしい。(↑)

「条件が整えば、楽になる。幸せに近づく」なんて
(今のわたしのもっている)思考は、ホント、おろかだと思う。

「条件整わずとも、今の、この自分で満たされる、幸せになる」
覚悟をもった瞬間に、望むべく道は生まれるのだろう。

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日曜日 お弁当を持って図書館へ。
    古い週刊誌を読み、大便し、
    中庭にでて、昼食。
    しごく幸せ。
    新書をぱらぱら読みして
    帰宅。
    元気になった。

月曜日 大きいお風呂屋さんへ。主に
    水風呂と露天風呂を行ったり来たり。
    きのうは半日図書館生活だったが
    本日は約8時間、ここで世話になりました。
    露天の寝転び用チェアの横では
    こおろぎが鳴いていた。
    カラダも軽くなった。


あす火曜は、実家に移動する予定。

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二日ほど前、暗い気分がもやもや
就寝体勢のわたしを襲ったらしい。

そのときケイタイに残した文章を
ブログにアップしておく。(下の2つ)。

ほんとーにドン底のときは
ケイタイを触ることすら出来ないのだから
この<暗い>文章を書けたということは
まあなんらかの気力があったわけだ。

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ある方々によると、あの世のなかでも、「とらわれ」の層にとどまっている死者がいるらしい。なんらかの執着を手離せなかったり(戦で死んだのに“まだ生きて戦っているつもり”とか)、単に死んじゃったことに気づけないままだったり。

このごろたまに、「自分は実は死んでいて、とらわれの層にいるのだったりして?」の考えが頭をよぎることがある。あるいは「生き地獄」という言葉があるけれど、我が人生はこれ!?と思ったり。(やりたい放題に見える我がこんなことを云ったら、人様は笑うだろうな)。

死後の「とらわれ」の層にいるのも、生まれかわるための準備の層にいるのも、現実と思って疑わないこの世にいるのも、大きな目で見たらたいした違いはないのかもしれないが。




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★アパート生活では、市場やスーパー、図書館、これらの外出ができるなら、まあ◎、調子のいい目安。実家では、庭の水やり、簡単な料理、をやれたら、自分よ◎、頑張ってるの証拠。
★ほとんど何もしていない。寝ているのがメインの行事で、起きている時間は、テレビか、ラジオか、ネットか、ぼぉ。そうそう、たまに本を読んだりブログを書いたりすると「何かをやった(少しはましな日だった)」と思うくらい。
★スーパーでは無人のレジ(自分でバーコードをびゅっとするやつ)を選び、宅急便の再配達依頼には人につながるコールセンターではなくデンワのプッシュボタンで入力するやつを選ぶ。それほどに人と関わりたくない病。
★例えば「人に会う→(理性では傷つく必要ないと理解していても)傷ついてしまう(ほぼ100%自分の都合で傷ついているだけ)」、例えば「外で働く→勤務の前も後も休みの日も、仕事の内容や人間関係の緊張感が抜けきらない。起床のプレッシャーも離れない」。これらはもうパターン化している。こびりついている。
★これでもわたしは生きている。
★筋肉は使わないと痩せ細るばかり。「楽しい」「嬉しい」「充実」「幸せ」これらの筋肉はわたしのなかにどれくらい残っている?(嘘でも使ったほうがいいらしい←「愉しいから笑うのでない、笑うから愉しくなる」というではないか)。
★以上、ずっと「抱え」ているだけで、手放すための行動がまだとれないならば(どうしたら手放せるのだろう)、せめて文字というカタチで放ってみた。
★大人になり、精神がすこしおかしくなって「こんな自分」になったのではなく、生まれてからずっと、こういう素があったのだと、わたしはなぜか確信している。



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お盆ごろに読んだ本。


『ヘミシンクで「人生は変えられる」のか?』

まるの日圭さんと松村潔さんの対談である。松村さんの話は(彼自身の知識が豊富すぎて)まるで外国語を聞いているような、理解が追いつかない部分もいっぱいあったけれど、総じて、おもしろかった。とはいえ一番のわたしの関心は、本の内容ではなく、まるの日圭さんの人生の変化。サラリーマン(お菓子職人)を辞めて、今やご自身で事業を起し、モンロー研の関連のサロンを開いているの! ヒーラーとしてもひっぱりだこなの! 全く知らなかった。まさにヘミシンクで人生を変えられたのね


『ジュージュー』

図書館に予約をしたら、児童図書館からこの本がやってきた。(表紙の可愛さのあまり、どこかの小学生がリクエストしたのだろうか)。いつものことだけど、作者の経験と日頃の言動と創作が見事に一致した小説。いきなりだが、わたしが特にはっとした洞察はコレ→「よくよく見たら、パパはママを守っているわけではないこともわかってきた。パパは社会からママを守っているだけで、ママの人間性を守っているわけではなかった。むしろパパの人間性をママが守っていた。」(よしもとばばな著、28頁)。またこの本には、肉・肉食へのオマージュがある。


『まぼろしハワイ』

この写真の中にウモレたい! 同じ地球上とは思えない光と空気。千穂さん(とても魅力的な生き方をしていらっしゃる。前のブログあたらしいの)の写真のファンだったので、ここでお目にかかれて嬉しい。もちろん、ばなな節も光ってます。今のわたしには耳の痛い話だけれど、大切なことなのでメモ。フラのエッセイのなかで→「自分が自分にとってぴったりくる役割の中にすんなりいること。その中でたったひとり、遅い歩みでも進んでいること。自分が自分でいるだけ、それ以上の幸せがあるだろうか。(中略)。だれかを自分と比べてうらやましいと思ったり、だれかがちゃんとわかってくれさえすれば、自分はこんな状況にはいないのに、と思うことの何倍も、そこには小さなあたたかさがある。」(69頁)


おまけ・・・

「肉・肉食へのオマージュ」と書いて、ああ、そうそう!と連想ゲームのように思い出したので、だいぶ前に読んだ本『人生を創る』のなかの、レーネンさん、ばななさん、伊藤さんの会話のメモを~。「厳格なマクロビオティックの実践者とも、パーティーで美食三昧という人とも会う中で、意外に「虫歯の痛みに困るのは同じだな」って、そんなシンプルなささいなことに気づくんです。」(ばなな発言、165頁)が、色んなことを包み込む話だなぁと印象に残った。ちなみにこの発言には、「すると、「こうなりさえすれば、こうなる、幸せになる」みたいな幻想はなくなって(以下略)」と続くのだ。余談だが、わたしはこっそりIBOXの伊藤さんをすてきな男性だなぁと想っているのだけど、彼の「ぼくは、真っ暗な部屋に帰ってたったひとりになるのが最高に幸せ」を知ってますます好感をもった。





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「成功体験」のスイッチを

一度いれることで、目の前の現実はずいぶんと変わってくるだろう。

誰かから大きく評価されるようなことじゃなくていい、

外に出られない人が「5分ほどの散歩」をできるようになる

それが成功体験だ。

わたしだけでなく、いろんなことに自信をなくし、下を向いて

日々を過ごしている人に、この魔法が伝わるといいな。



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このごろ夜、外は、甘い匂いがする。
(実家の庭でもアパートのベランダでも)。

なんの匂いだろ。




おとといは寝込んで、きのうは頑張って少し外出してみたが
信じられないようなことで気持ちがイラッとキレてしまい
反省するより先に、「あー、無理をしてはいかんのだな」と
自分を慰める気持ちが働いてしまった。
(警備員のおじさん、ごめんなさい)。

そして
きょうはまた汗をかきながら寝込んでしまった。

はぁ。

わたしの人生なんなのだろう。

慢性憂鬱感が全身を支配しているのが平常で
そのなかでなんとか、心が軽くなる瞬間、を見つけながら
生きているという感じ。

もう何年も、何十年も。

ここまでくればカンネン(あきらめ)すればいいのかもしれないが
こんなわたしでも、常に「この人生をなんとかしなければ」と思いつめている。
(思いつめているのがいかんのか。行動もせず、悩み続けるだけは毒)。

あぁ。

うつ的なグチを書くことはもう飽き飽きなのに
お盆の後遺症(*)をひきずっているのだろうか
どこかに吐き出したくて、書いてしまった。

(*)大きく3つの行事があったのだけど、その2つは参加して
1つはまあまあなんとかできて、
1つは疲れ&気持ちがへこんで、
参加しなかった1つについては、「参加をしなかったこと。
それにまつわるエトセトラ(断るための嘘をついたこと)」などで
また自身を追い詰める精神状態になってしまった。

まったく、この頭のなか、傍から見れば、おバカな独り祭りなんだろうな。

行動を起さない限り、いつまで経っても同じ渦のなかにいる。
このことは、わたしにだってわかる。

(行動→Happy。とは限らなくても
 行動→新しい渦。は、あるんだよね。
 この新しい渦がまたしんどい渦であろうと・・・)

だから
行動を起そうと毎日寝ても覚めても思うのだけど
具体的にその一歩をはじめようとすると
恐怖感がやってくる。

同じところをぐるぐるぐるぐる。




このパターン(=一歩をはじめようとすると、とたんに恐怖心がやってくる)は
クセなんだと思う。(とても強烈なクセ)。

このクセは行動することでしか、破れない。





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ちょっと早いが今年の夏の反省会をしておこう。

(順番に意味はない)

◇ヒット食 夏おでん

コンビニのレジの隣で湯気をたてるおでんを見て、ひらめいた。
「冷たいおでん、夏おでんはどうだ?」。

これが大当たり。

昆布と煮干のだしに、唐辛子もプラス。
(清涼感を出すために生姜も加えたかったが、切らしていた)。

材料はありあわせ(コンニャクがなくて残念)で
まるごと玉葱、ジャガイモ、人参、さつまいも、厚揚げ、
ゆでたまご、焼いた手羽鶏、トマト、しいたけ、
ししとう、オクラ・・・

今後もおつきあいしたい一品である。

◇意外によく食べたもの 肉

近年、肉をあまり食べたくない身体になっていたのだけれど
この夏はむしょーに肉を食べたい人間となってしまった。

豚のしょうが焼きに目覚め、鶏の唐揚げを母にリクエスト
この暑さにかからわず「すき焼き」もどきを愛し
数年ぶりに自宅ステーキを楽しみ
とどめは、お墓参りのあと甥っ子たちと焼肉をして
「もう当分、肉はいい」と思ったはずなのに
数日後にはフライパンを使い、肉と野菜で鉄板焼きごっこ。

◇お酒は まあまあ

美味しく飲んでいるというよりは、惰性で飲んでいる点が
我ながらおおいに残念である。

ワイン、ビールもどき、ラム、ジン、チュウハイが
この夏の定番。(年中定番か)。

ちなみにチュウハイは、キリンの本絞りのシリーズが、
(糖類や香料など余計なものが入っていない。果汁率も高い)
わたしのなかの人気商品である。

◇運動 ぜんぜん 

わたしの唯一といってもいいくらいの、体を動かす機会である
庭仕事さえも、暑さのせいで、ぜんぜんしていない。

◇映画 数年ぶりに外で観た

先日、故郷で初めて映画祭が開かれた。そのなかで観たのが

『台北カフェ・ストーリー』。

すごーく、良かった。

わたし好み。カフェ店内の映像も幸福感をもたらしてくれた。

「きれいな風が吹いた」観後感。

なお、 原題は「第36個故事」らしいが
日本での公開には「台北カフェ・ストーリー」にして
本当によかったと思う。

◇びっくりしたこと 太った

もともと痩せ体型ではまったくないし
「食べたいもの、飲みたいものを、好きなだけとり、かつ
ほとんど身体を動かさない」生活だから、当然なのだけどね。

あまりにお腹がでていて、びっくり。

◇あらためて実感 なるほど、東南アジア

東南アジアの暑い国に行くと、油をいっぱい使った料理や
甘い(甘すぎる)お菓子や飲み物が一般的だったりするけれど

暑いと、油が欲しくなるのだな。
(そうめんや冷奴など、今夏の前半は「さっぱり」好みだったが
後半であるこの頃は暑さの疲れが出ているためだろうか
「油」っぽいものも食べたくなる)。

お砂糖やハチミツをいっぱい入れた冷たいコーヒー牛乳も
たびたび飲んだな。

自分の身体から、「暑いと、油と糖分を欲する」のを納得。

◇はまった 寒天やゼリー

昔と比べ、粉寒天や粉ゼリーなどが出回り、作るもの楽になった。

牛乳寒天やコーヒーゼリーから始まって、シンプルなものしか
手を出していないが、先日は鍋でゆっくり仕上げた「ミルクティ」を
ゼリーで固めたら、香り高いババロアのようなものが出来上がり
大人のデザートとなった。

同じミルクティゼリーを、冷凍庫にも入れてあるので、
今度帰省したら、凍らしたまま食べてみよう。楽しみ。

◇今年もまた驚いた 終戦からの年月

どうしたわけか、近年、夏が来るごとに
「あれっ、終戦から七十何年目じゃないの?」と驚いてしまう。

西暦で計算したら即時に「今年は終戦から六十七年」とわかるはず
なのに、やっぱり今年も驚いてしまった。

わたしのなかでは、どうも数年前に「戦後、七十年経ちました」体験
を済ませた・・・記憶があるようで、
こういう可笑しなことになってしまうのだな。

ところで、わたしの生まれは、昭和43年。
「終戦から、たったの、23年しか経っていないときだったのか。
今は、さらにそれから44年も経ったのだな」との現実に

(子供のとき、戦争は昔のことと思っていたのに、
あれはたがが20余年の昔に過ぎなかったのだな)。

「わたしは、今の日本人としては、先の戦争に近い人間なのだなあ」
(実際の戦争時代は知らなくても、それでも戦争に近い生まれ)
と、不思議な感慨が生じるのであった。

◇テレビで観た 太平洋戦争もの

もともと戦場そのものを扱った太平洋戦争もの
(映画やテレビドキュメントなど)は
好みじゃないというか、できれば避けたい対象、そんな印象が
あったのだけど、だんだんそれも薄らいでいるような気がするなー。

なぜ? と自問すると、もちろん自身の変化もあるのだろうが

「子供の頃の太平洋戦争ものは、悲劇が前面に出ている
とにかく戦争はひどい、戦争はにくい、戦争はだめ
(個々の理由を示さぬ全体主義というか)
そんな圧力が強かったのではないか?

それに比べ、戦時から半世紀をゆうに過ぎた今は

“当事者”というタブーが相当に薄れ、
事実を拾うには時間が経ちすぎて難しい面はあるけれど
ひとつひとつを冷静に検証しようという
いわば第三者的な感覚がようやく育つ時代になったから」

なのかなあと想像する。

先日、テレビで戦場の軍法会議 ~処刑された日本兵~を見て

戦時中に、軍を離れた兵士たち(たとえば
お腹が空いて食料を探すために隊を抜け出した兵士など)が
次々と処刑されていた事実を知った。

そんなことは違法だと上の者たちは知りながらも
「軍の規律を守るため」に処刑が行われていたのだという。

戦争映画などでみられるような「バーン、バーン」と
弾を打ち合って死ぬのはほんの一部なんだ。
実際の戦争で命をなくす大半は、飢えや、マラリアなどの病気から
なんだよ、とかつて吉本隆明さんが語ったと伝え聞くが、
そうか、「まぼろしの大義」のために
兵士がこうやって殺されていた歴史もあったのか。

軍によって殺された兵士の家族は、生涯の汚名を着た。
今でさえ「人と違う」だけで、世間からきびしい目を向けられるのに
軍国主義の当時の日本で遺族はどんな思いをしたか・・・。
ある兵士の残された一族は
住み慣れた土地を離れ、戸籍もよそに移したという。
そして遺族の苦悩は現在も残っている。

遺族には恩給も支給されていなかったらしい。
現在は支給されているのかな、しかし、その書類には
犯罪人の記述が残る。

今の日本ができる、太平洋戦争への罪ほろぼしはまだまだあるなぁ。
わたしは、日本兵として戦ったアジアの方たちへのお礼が
まったく足りていないと思っているし、
(日本人として日本のために戦ったのに、いやそればかりか
彼らのおかげで、大勢の日本人兵士が命拾いしたのに、
戦争が終わるとボロ布のように捨てられたのは
後世の日本人としても納得がいかない。せめて
今も存命の彼らに感謝の気持ちとして形のあるなにかをするのは
大切なことだろう。
但し、今、その遺族にお金を渡せ、というのは違うように思う

今回のテレビで紹介されたような
一方的な罪を着せられた元軍人たちの名誉回復も必要なのでは。

ところで、

わたしは、「亡くなった仲間の肉を、飢えに負けて食べた」兵士は
いっぱいいたと思っているのだが、そういったタブーな証言も

そろそろもっと出てくるのでは?

話がズレてしまったな。戻そう。

映画では、テレビで放送された『フォックスと呼ばれた男』を観た。

竹野内豊がはまり役だった。

原作者はアメリカ人。1982年に日本で書籍になったが
映画になったのはつい去年のこと。
こういう映画が生まれるのも、時代の流れなのかなー
と(戦争映画にちっとも詳しくないながらも)思った。

◇謎 母の畑

母のやっている畑で珍事件が続出。

オレガノの種を撒いたのに、なぜか、しし唐の芽が出て
(買ったばかりの種だったのに。オレガノの芽は全く出ず)

ズッキーニが、巨大南瓜のごとくの育ちよう。
(たしかにズッキーニは南瓜の仲間だから有り得なくもないのだが。
皮もカボチャのように硬いし、食感もズッキーニとは思えない)

◇へぇ 今どきの大学事情

高1になった甥っ子が、大学のキャンパス体験をするために
京都や名古屋に行っていた。

そういえば「オープンキャンパス」とは聞いたことがあるが
国公立私立問わず、大学は生存競争がきびしいのだなぁ。

◇試した ハーブ風呂

昨年植えたペパーミントが
(繁殖力がすごいと聞いていたので、地植えの際に
“割れて輪っか状になった植木鉢”で囲いをしてある)
お茶に使うだけではまかないきれないくらいの
ぼーぼーになっていたので

お風呂に入れてみた。

期待したほどの香りはなかったが、ま、お試しということで。

ちなみに、この夏お気に入りは、ハリウッド化粧品の入浴剤。
(姉が実家に住んでいたころのものだと思われるから
相当に古いはずなのだけど、未開封の缶だったので
大丈夫だろうと使っている)。

すごく鮮やかなマリンブルーで、酷暑の身体を癒してくれる。




さいごに、総論。

あいかわらず引きこもりな日々であったが、
ま、いいであろう。

本日は処暑。

そろそろ「夏とさよなら」する心の準備を~。


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きのうの晩、金沢へ。

本日、24時ちょっと前に起床。
レモンアイスを2本食べ、そして今、
ホットコーヒーを飲みながら、日記を。
(あ、お湯を沸かしているあいだ、
プチトマトをつまみ食いしたのだった)。

それにしても・・・
「生きているだけでいい」とは、どういうこと
なのだろう?

本日も40度をらくらく超える部屋で
(汗がつねに噴出。寝返りを打てば、そこは熱い)
ときどき、いや、しばしば覚醒しながらも
けっきょくは一日中眠っていた。

目を開けて、体を起し、現実と対峙するのが
たまらなく憂鬱に思えるからだ。

1.こんなふうにわたしは生きている。
2.これでもわたしは生きている。
3.これでも「生きているだけでいい」といえるのか。

ぶーぶー。

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no title

  残暑お見舞い申し上げます

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  上は今年2月。
  実家の庭から見た
  西の空と松と雪。

  左は半年後(ごく最近)







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こちらは、ローカル線からの車窓。
右上のみ、今年1月。(海の向こうは雪をかぶった立山連邦)。
あとの三枚は2009年9月。(この景色の次の次の駅が、最寄駅)。


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お盆間近の過日、
「初盆のあれやこれや・・・。こちらで新盆の法要の会食を」
実家の朝刊にまじっていた広告を見て、ふぅ。

なんでもかんでもお金儲けに結びつけて
(たとえば、日本の葬式の始まりは禅宗の修行僧のためのもの
とも聞くが、今や、商業主義にのっとって、民間のもの&寺のえとせとら
その儲けの規模は、日本経済をしっかと支えるほどであろう。
バレンタインのチョコなんてこどものママゴトに見える商業レベルに違いない)
あーあ、憂鬱な世の中だ。

と、暗い気持ちになるわたしなのだが、

いやいや、ダメダメ。

こういうこと(商業主義にのったイベントなど)で
人々の気持ちが少しでも和らぐのなら
それはそれでいいではないか。

と、どーして、穏やかな気持ちで世の中を見つめられないのか
自分よ。

と反省したのでした。


                  *


下に書いた「雨を好ましく感じるか」のブログにも繋がる話なのだけど

肝心なのは

状況に(出来事に)善いも悪いもない。

と常に知っていることなんだよね。

その上で大事なのは

状況を(出来事を)ジャッジせず、

ただ単に、自分がどう対処するか
(どういう気持ちを向けるか、どうふるまうか)

に尽きるのだよね。


                  *


こういうこと(世間を見て、勝手に落ち込む)は
わたしの日常にはとても多い。

まあ、「世間を見て」といっても、つまりは

目の前の狭いこと(自分の経験。自分の感覚)にフォーカスし

それを「世間の情報」と掛け合わせているだけなのかな。

そして、これはこの色と勝手に判断して

もしかしたらまわりにあるかもしれない他の色を見ない

という・・・。

(しかし、探しても探してもたとえば灰色しか見えないとしたら
いい加減、「どこかにあるかもしれない他の色」を探すのはイヤになる
よなぁ、人間だもの)。←個人的なグチ


                  *


おっと、話がズレてきたので、戻そう。

たとえば、商業主義ばかり目につく・・・
上っ面なことが世の中の多くをリードしている・・・

なんて不満が自分のなかにあるとしたら

それは、たまたま自分がそういう世界を見ている
(そういう世界を作っている)
に過ぎないんだ。

自分が見ていないだけで

すぐ隣には、そういうことに意識を向けないで

もっと気持ちよく世界を築いている人間だっていることを

忘れるなかれ。

つまり「世の中のせい」なんてことは、ありえないのだな。

(余談:世界を築く、の変換を間違えて、
世界を気付く、と打ってしまったが、これもありだなと思った)

何かに振り回されている(心のなかでも、行動面でも)状況にある
としたら、それはそういう状況を自分が作っているのだということも
忘れがちなので、ついでに自分のために記しておこう。



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しばらく前に、現代の働くことの難しさ
(路上生活、生活保護に関連して)のTV番組を見た。
そこでは
「労働の場があればさえ、いいってものじゃない」
という話の流れがあった。

日ごろ、ニュースなどで発表される「失業率」は嘘っぱち
(数字が嘘をついているのではなく、計算の仕方が虚なのだ!!)
と思っているわたしは、

「失業率が下がれば、国民の幸福度が増す」的な発想も
おろかなことだと腹の底では思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「そうだよね。そうだよね。働けっていったって
生きる意欲をはく奪されるような仕事しか見つけられない人もいるんだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

番組のなかでは
「大勢のなかにいても、誰ともつながらない、
その日、その日の一人ぼっちの仕事が増えている」
という指摘があった。

登場したある青年は、
リストラだったか倒産だったかで職を失い、
路上生活者となっていた。
あるとき、支援団体と出会い、現場仕事を得るものの
(現場仕事・・・道路工事の際の旗振りや、清掃など。
これらの仕事はその日その日指示された現場に行き
また周りには人が大勢いるようには見えても、結局は
勤務時間中、一人で黙々とする仕事なので、仲間ができにくい)
あまりの孤独感にウツ症状が出たという。

屋根のある部屋に住み、定職を得た暮らしよりも
無職の路上の生活のほうが、はるかに、仲間との結びつきがあり
人間づきあいがあった。
という話に、わたしはショックだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「働かざる者、食うべからず」

日本人ならば多かれ少なかれこの言葉が呪縛のようにDNAに

刻まれていると思うが

これは、とても罪な言葉だと思う。


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「炊飯器新しいの買おうかな、それとも内釜だけ新調しようか」
とずっといい続けていた母。それを隣で聞いては
「そのうちね」と伸ばし伸ばしにしてきたわたし。
それを過日、思い切って腰をあげ(といってもネットで)注文いたしました。

あともうひとつ、母から新しいのを買いたいと
長い間いわれていたものが。

掃除機である。

いろいろ迷いながらも、選びましたぞ。

「掃除をしよう」という気持ちが起きやすい!
これが、ぜったいに揺るがない選びポイント。

コードレス。軽い。がいいな。

最初はティファールの製品にしようと思っていたが
(ネットで一目ぼれした)

数日後、申し込む前にたまたま
「掃除機といえば、マキタ」というのを知って
心傾く。

で、マキタの掃除機を使っている人の感想を読んだりして
程なく「これにしよう」とある製品に絞りこみ
もうほとんど決定!というところで

今度は「通販生活」限定のマキタの製品を知り、
またまた迷いだす。

そして二晩ほど保留に・・・

最終的には、連続稼動時間が長く、
電源の入れ方が母の負担になりにくい
などの点から

結局、「通販生活」に決めた。

先ほど注文しましたぞ。




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オレンジジュースと金ちゃんヌードルが朝兼昼兼夕ごはん。

ここ何ケ月も、いやもしかして一年以上、TVコマーシャルで
「金ちゃん、ヌ~ドル」を見ては、訳の分からん欲望といおうか
現代人的本能がうずき、「これ、食べてみたい!」と思っていたのよね。

(TVコマーシャルを見るのはたいがい実家に滞在中のとき
つまり健康的な食事に満たされているときなので、なおいっそう
こういうカラダによろしくなさそうな食べ物に
むしょーに、ひきつけられるのである)

歴史あるカップ麺のようであるが、販売は主に西日本に限られている模様の
このインスタント食品、「お味は?」と問われれば

うう~ん。

ともかく「食べてみたい」という欲望が満たされたことに、満足
なのである。ビバ、めでたし。


追伸 食べているものを見れば、その人がわかる。と、どこぞの偉いお人が
言っておられたが、まあまあ、その通りであろうなぁ、と、わたしも思う。
「奇跡的に心がラクになっているときは、いわゆる粗食だけで満足
(滋味深く味わえる)」も、「ある程度の心の健康を保っているときは、
スナック菓子やカップ麺なんて見向きもしない」も、あるいは
「自分のなかにグチがたまっていると、化学調味料のまじったような
カラダに悪そうな食べものを欲する」も、いずれもおのれの経験である。

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