ともみ@ピクニック

ついでに、そのほか、ここ最近印象に残った本を書いておこう・・・


◎『まぼろしハワイ』(よしもとばなな著)。

久々に読んだ、ばななさんの小説。

maborosihawai.jpg

わたしはハワイに対してちょっと古いステレオタイプの知識しかもっていなかったのだけど、ここ数年、「えっ、ハワイって、そんな素敵なところなの?」と、やや目覚めている。行ってみたいし、できれば暮らしてみたいなぁ。本書を読んで、ますます、「ハワイ、行ってみたい!」と思った。

原マスミさんの絵も、わたしの胸をズキュン。(彼の挿絵を見ると、いつも「本からちぎって、絵を壁に飾りたい」と思うのだが、今回も、そう)。


◎『すぐそこのたからもの』(よしもとばなな著)

子どもを育てる喜びや輝きが、ぎゅぅぅっとつまっている!と、子持ちでないわたしにも響くものがある。特に、じじ、ばば、ちち、はは、にはたまらんだろうな。

のちに、吉本隆明さんが、「この子はなかな思いもおよばないほどに自由な子だから、それをこわさないようにそうとう気をつけなければいけない」という意味のことを、遺言のようにおっしゃったそうだけど、「ちびちゃん」のケタはずれの心の自由さ素直さやさしさは光のように本書からももれ伝わる。


◎『寺よ、変われ』(高橋卓志著)

しばらく前に読んだ島田裕巳さんのヒット本『葬式は、要らない』のなかに登場していた本で、興味ありそうと思って、図書館で借り、読み始めたのだけれど、実家でぼけぼけしているうちに読むのが止まってしまった。今回はそのまま図書館に返却しようと思っている。決しておもしろくないのではない。またいつか一から読もう。

「あんた、ほんと暇な毎日なのね」といわれそうだけれども、わたしは檀家制度にまつわることに、日ごろから頭を悩ましている。この「頭を悩ましている」というのがミソなのさ。ごくたまにかかわる葬式や法事を「ま、社会マナーだから」とやりすごせるような方々の目には「精神病なんじゃないの」と映るだろうほど、わたしは、自分と、実家と、檀家制度と、親戚づきあいにおける葬式や法事、などなど、ほんとうに、普段から悩んでいるのである!!

わたしは日本の伝統仏教を「おどしの宗教」と、今のところ結論付けている。(なお、北陸は「真宗王国」といわれるほど、浄土真宗の根強い土地。きっと鎌倉時代は浄土真宗はとても救いのある宗教で人々のためになったのだろうし、親鸞聖人はすばらしい人なのだろうと想像する。しかし、しかし。現代の浄土真宗は「何百年も前のトラの衣を借り」そして「先祖代々という呪縛を使い」根付いているにすぎないことや、「檀家はその仏教を受け入れているのではなく、思考停止になっているだけ」ということを目の当たりにしているので、わたしは檀家仏教を、ほんま、あほらし~、と思っている)。

おっと、個人的なグチに流れてしまった。肝心な話に戻ろう。『寺よ、変われ』であるが、著者は現役のお坊さんで、現行の寺制度を内部から自省・批判している内容のようで、(わたしの仏教への問題意識はやや感情的なところもあり…)、興味があるのだ。

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*補足*

(今の世の中)デフレで貧乏人は助かるなぁ。

と思っていたけれど、

いや、デフレは貧乏人の首をしめているのだ。

(助かるわぁと、安い生活品を買い、安い食料品を食べ…という暮らしは、結局
貧乏人自身の首をしめていることに、貧乏人はなかなか気づきにくいものである。
当の貧乏人がいうのだから、きっと間違いない)。


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大手スーパーが、取引先から仕入れ値よりも安い値段で
ビールを下ろさせていたニュースを聞いて―。

(社会の約束に反してでも、安い値段で仕入れるのは、結局
「消費者が一円でも安いビールを望むから」
という仕組みがあるからなのだが)

過日このブログに無断引用してしまった携帯会社の話を
思い出した。ふたつはまったく違う話だけど
根っこは同じなんだと思う。

今、わたしは、小さな小さな社会との結びつきしかないが
それでも(それだからこそ、なじみ過ぎずに気になるのかも)
「なんかヘン」「なにかが狂っている」ということに遭遇することは
多い。

たとえば、地味~に職探しをしているわたしであるが
そのなかで、いかに、今の日本の会社が
「人を少しでも大切にせずに、安く、労働力を搾取しよう」
「とにかく経費を抑えて、利益を出そう」
というところに重点を置いているのかがわかる。

わたしは正社員推進派ではまったくないが
(むしろ、すべての仕事が日雇いもしくは期間限定くらいのほうが
いいと思っているくらいなのである)
「ええっ、こんな仕事を、バイト(パート)の人がやっているの?」
と、求人雑誌を見て驚くことは多い。

(よく聞かれることだけど・・・
ひと昔前ならばしかるべき立場が与えられていた仕事を
今はバイト(パート)が担っている、というのは、肌で実感)

これ、当然ながら、いかに企業がお金をかけず労働力を確保するか
の帰結である。ほんと、サービス業しかり、セールス業しかり、
今や、バイト(パート)の労働力なくしては日本の社会は成り立たない
わけであるが、こんな状態が維持できているのは
雇われる側も「疲れ」はてているからなんだろうな。
(いかに職を得るのが大変か…に疲れ、実際の労働に疲れ
NOという声をあげる力すらなくしている)。

おっと、だんだん本題からズレてきた。
軌道修正しよう。

ちょっとしたことの積み重ねなのかもしれないが
ここ数年、社会というものに向き合おうとすると、そういう
たとえていうならば「喜びとは反対のベクトル」にあるものを
見てしまう頻度が高い。

先のニュースに戻るが、安く仕入れて、安く消費者に売る、また
取引業者だって他の商品でその痛手を穴埋めしてもらい損はしない
・・・という事実だけを見れば、
「それのなにが悪い?」となるかもしれないが、
やっぱりなにか違うんだよなー
どこかが歪んでいるんだよなー
の思いは拭えない。

「したたかにやって、何が悪い」
「それだって人間のかわいらしさだろ~」
とは、相当無理をしなければいえない。

(同じことを、親しみを感じる、日本よりうんと経済力の低い国で
“個人が”やっているのを見たとしたら
「まったくぅ。したたかで、たくましいなぁ」
と思えるかもしれないが。――ああ、また脱線。いや、待てよ。
脱線じゃなくて、「そういうことを笑って流せない」ほど
ゆるみを失くしている日本そして我という話に繋がるのかしら)

今は「いかに儲けるか」の世知辛いところに行き着いてしまう
注意して生きていないと、こういうものばかりに目がいってしまう
世の中なのだなあと、あらためて思った。
という話を書こうと思ったのだけど・・・・。



話が脱線混乱むちゃくちゃまとまり知らず
になってしまったか。



健康な経済活動だって、きっと、あるはず。

その気になれば
おおらかに、みなが喜ぶ、経済活動だって、あるんじゃないか。

実際に、いっぱいあるんだよね。
(パラレルワールドじゃなく、わたしの生きているこの世にも)
ただ、目を向けていないだけ。

その気になれば、ゆがみのない社会活動だって
いっぱい見つけられるし、自分もそのなかに入っていける。

そう信じたい。






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フリーのブログには広告がつきもの。

わたしはブログの文章を書いたあと、
「おためし」表示(プレビュー)をして
どんな記事になるのか、いちを確かめてから
公開しているのだけれど、

その際、画面の一番下にでる広告の内容に
ときどき目がいくことがある。

下の下の記事を書いたときは、

〔高校野球、ダイエット、夏フェス〕であった。

あれ~、どれも、この人生でまったく興味のない
ものばかりなんだがなー。

下の記事を書いたときは、

〔短期バイト、花火大会、アンチエイジング〕

へへ~、花火大会は夕べ検索したし、バイトはたまに
ネットで検索するので、なるほど、「君、ちゃんと
見張っているね」と、パソコンの向こうの存在を意識する。

しかしなあ、アンチエイジング、これ、どーゆーこと。
個人的にはほとんど興味のないつもりだし、それに関する
検索をしたこともない(いやまてよ、昔、白髪染めの検索したか)
のに、たまに、いや、わりとちょくちょく表示されるのだ。

あんた、わたしがどうして、いわゆる
そういうお年頃だと、知ってるの!?

ついでを語ると、このごろ
gooさんのブログを開くと、必ず「タキイの種苗」が表示されるのだ。
夏前にタキイのネット通販の頁を開いたのはもちろん
実際にハーブなどを買ったことまで知られているのだろうか?

ほんと、油断のならない世である。
パソコンの向こうの存在は
きっとあんなことも、こんなことも、わたしに関するあれこれを
知っているのだろうなー。



ところで、

前に、「死後のデジタルライフ」をテーマにした海外のテレビ番組をやっていて
<死んだあと、パソコンの処理はどうすればいいのだろう>
←おかしな文章。死んだら「どうしようもない」のにね。
<web日記の存続あるいは削除と、自分の寿命の関係>などなど
について、たま~に、ゆる~く頭をかすめるわたしは
もちろん見たのだが、
想像とぜーんぜんっ、違う内容だった。

「死んだあとも、ソーシャルネットが自動更新されるサービスがある。
(生前の記事から故人の傾向を読み取るのだったかしら)
天国からの更新!ってわけですね」、などとぬかしおる
わたしの琴線にはまったく引っかからない話。



ときどき、おもうこと。

ここ何年も読んでいて、これからも更新をされれば
ずっと読み続けるかもしれないネット上の個人の頁。

相手はわたしがこっそり読んでいることも知らない関係が大半。

けれど、このままの時間が過ぎれば、
おじいさん、おばあさんになった相手の世界を読み続けることに
なるんだなぁ。

不思議。

子育てをしている方のブログを読んだりもしているので
今は赤ちゃんの話題でも、そのうち、娘の結婚、孫の誕生が
話題になるかもしれない。

不思議、不思議。

とくに長く継続したものになると、その人の浮き沈み、
精神的な波みたいなものまで自然と読み受け取ることになり

ぜんぜん知らない相手でも、「ちょっとは知った」気に
なってしまうのだな。
(それは危険なことでもある)

ネットのなかの頁が何十年と続き、わたしも読み続けるとしたら
それはやはり、一種特別な「関係」かもしれない。

人は「すれ違う」だけでも縁がある。
というけれど、それをいうなら、ネットの世界も同じかも。
膨大な情報の漂う世界のなかで、偶然にしろ
その存在を知った、ネットの向こうの主人公。

ま、よくよく考えてみると、十年ほど前にファンで読んでいた
方たちの頁というのは、著名人であれ、一般人であれ
今はほとんど存在しない。

それをおもうと、今、わたしが読んでいる方たちのネット上の頁が
おじいさん、おばあさんになるまで続き、わたしもそれを読み続ける
なんていうのは、ちょっとした奇跡のようなものなのだろう。


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やっぱり暑さと戦いながら、18時過ぎまで眠り人間。

ぐわゎぁぁと、暗い気分に支配されそうなのを振り切って

がんばって水シャワー浴びて、コーヒー牛乳飲んで、ネットラジオを
聞いて、20時をまわって遠くの酒屋とスーパーまで買い物。
ワイン赤と白を一本ずつ、ジン一本。かつおのたたき、サーモン、
豆腐、アボカド、オレンジ、イカキムチ、ソフトクリーム。

アパートの近くまで帰ってきたところで、路上休憩所
(公園でもなければ一般道でもない、武家屋敷風情のある一角)
のイスに座って、半溶けのソフトクリームを食べる。

それからとぼとぼ、自転車押して、ホタルを見ながら家路につく。
(こんな暑くても、最後の力をふりしぼってます!という感じで
ホタルが光を放っているのである。数は少ないのだけどね)。

部屋に戻り、しんどいゾーンに入りこむのをくいとめるためにも
買った品々を冷蔵庫にしまったり、漢方冷茶を作ったり
ぬるま湯のシャワーを浴びたりして、

そして、ご飯。

茄子(チンして、マリネ)や、お刺身、冷奴を食べながら
氷を入れた白ワイン。野菜不足である。
(キュウリを食べるつもりだったのに、冷蔵庫を探っても、ない。
昨夜、一本まるごと齧って、在庫を終わらせたのを忘れていた)。

あとはちょっとブログを書いたり。
(お酒は飽きた。今は一昨日作ったアイスティーを飲みながらこれを書いてる)。

ありがとう、平和な日曜の夜。



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しばらく前に、小菅の拘置所を紹介するテレビを見た。

番組のなかでは、「自殺防止」のために、
拘置所ではできる限りの取り組みを
していることが強調されていた。

そして、拘置所で働く人たちのあいだでは
死刑執行の話題がタブーであるという事実も紹介。

わたしは「?」と思った。

死刑囚の自殺はとことん禁止されていて
一方で、死刑執行する人たちにとって
死刑は語るも「タブー」なほど忌むものになっている。

なぜ、死刑囚の自殺は認められないの?

それが叶えられれば、執行する側の負担は大きく減るのに。

他者が「命」を奪うことが、裁きの正当手段なの?

犯罪者には自殺の自由すらないのか。



もしも
「死刑の確定した人の自殺が、なぜ、認められないのか」を
答えられる人がいたら、教えて欲しい。



(死刑は「社会的復讐」だとは誰も口にはしないが
「結局、そういうことなのでしょう?」と、わたしは思う。

「社会的復讐」だから、死刑囚が自らの選択で命を終える
ことを許さないのでしょう?と)

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おっと、前回の更新から、また時間が経ったの。

梅雨も明け、ぐるじいほどの暑さの毎日だ。

        *

さて、この三週間・・・

二週間ほど実家に行っており

先週の初め、金沢へ。

総じて抑うつ状態は強烈でもなく軽症でもなく

まあまあの「しんどい」「ゆううつ」を穏やかに漂っている感じなので

ひとまず小康ともいえるだろう。

        *

今日は昼間からボーンボーンと低音が鳴り響き(予告のボーン)
「あっ、花火大会なのかな」と思いながら眠っていた。

最近は「稀に夜眠れる」なんてことがなく、日が昇ってからでないと
眠れないリズム。がんばって、あちちちのなか、18時頃まで眠る。
(南の窓から、西の窓から、あちちの日差しがせめてきて
もちろん冷房というものはなく、・・・眠るのは修行のようである)。

そう、眠って、ぐったり。
(寝ているよりも、起きたほうが、涼しいのに。
熱のこもった部屋にいるより、外のほうが涼しいのに。
なのに、なんともならない自分の身体)。

夜、宅急便屋さんが来る前にと、ダッシュで東京ストアに水を
買いに行ったのに、帰りの自転車のカゴには、チュウハイ3本と
魚のフライとカップ麺だけだった。久しぶりにチュウハイに目がくらみ
肝心なものを忘れてしまったらしい。

花火大会、今年もアパートから眺める。
二階の部屋だから、全部は見えないのだけどね
それでもいいの。

途中で、つま先立ちしている自分を発見。

毎日を灰色にして暮らしていても
なんの希望もないような心持のつもりでいても
いざ、となったら、
まだ生きたい、まだ楽しみたい、
のかなぁ。わたし。
と思った。

花火を見ながら、氷入りの赤ワインを飲み
カレー味のついているカシューナッツをつまむ。

わたしはインドに行ったことないけれど
カレーもカシューナッツもインドのイメージ。
「インド人、いい仕事してるなぁ」。
このお菓子を作ったの愛知県の会社だけど。

今は「台湾産ライチ」と銘打ったチューハイを飲んでいる。
つまみは、冷奴とアボカドに醤油とお酢をかけたものとキムチ。
あと魚のフライ。

先日テレビで果物の竜眼を見たときに
「ああああ」とタマシイが東南アジアに泳いでしまった余韻か、
果汁1.5%しか入っていないのに即効買い物カゴに入れてしまった
いとしいチューハイ。

そんなわけで、平和な土曜の夜。

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これから書くことは、朝から気持ちのトーンの低いことを書きたいのではなく、単なるメモ。(一部文章は、最近のブログ傾向から厭世方向の文章に見えるかもしれないが、そういうつもりはさらさらなく、あくまで中立的な思いから書くのである)。

先日の初期仏教講座で、生きることは喜びだ、な~んてことをいう人がいるけれど、「生きることは苦である」とは、お釈迦さまも仰っているのです、そんな意味のことをスマナサーラ長老が語られた。(のちに、「でも岩波新書…だったかな…のなかには、この世は美しくてすばらしいというような釈迦の言葉が載っているのですが」と質問した人に対しては、「わはは。それは誤訳。第一、原本を読んで訳しているんじゃないんだからね」とお答えになっていた)。

生きることは苦である。仕事がないのは苦しい、でもあったらあったでまた苦しい。独身生活には人に言えない寂しさ苦しみがある、でも結婚をしたらしたでまた別の苦しみが生まれる。お金がないのは苦しい、しかしあればあったなりの問題や苦しみが生まれる。えとせとら。「コレが満たされれば、幸せだろう」「アレが解決されれば、安心だろう」と思っていても、いざ、ひとつの問題が消えると、不思議と必ず次の問題がやってくる。このことは、大方の年数を生きた人なら、誰もが実感していることだ。

仏教の教える四苦八苦(生老病死に加え、愛する者と別離する苦しみ、怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求めるものが得られない苦しみ、あらゆる精神的な苦しみ)は、生まれてきたからには必ず体験することだ。この世は、やっぱり苦しみに満ちている。

一方で、人生は楽しくて、祝福で、この世はきらきらしたものに満ちている、そんなスタンスで生きている人も多い。特に、スピリチュアル系の世界では、それが大原則だろう。この大原則があるからこそ、明日をもっと信じられるのだ。

わたしは、「生きることは苦」という教えになんの異論もないし、また同時に、「この世はきらきらしたものに満ちている」という意見も真実なのだろうと思っている。どうちらもウソで、どちらもホント。

溶け合う隙が一寸もない両者だけれど、これが同時に成り立っているからこそ、人間が存在し、世界が在る。

ちょっと頭オカシクなった人のようなことを書く――。

「宿題(業)があるから輪廻する」は証明しようがないけれど確かなことであるとわたしは信じているのだけれど、この仕組みそもそもが“退屈しのぎの遊び”であって、また「あなたはわたし、わたしはあなた。ワンネス」なども体感するのは難しいだろうけれど確かなことであるとわたしは信じていて、宇宙の果てまでがすべて「わたし」である、この仕組みを思いだす所まで立ち返った日には、「生きることは苦」「この世はきらきらしたものに満ちている」このどちらもが、輪廻のような遊びの材料に過ぎない、わたしの(あなたの。全体の)手のひらの上で転がされているままごと、両者は同じこと、どちらも区別はないのだよ、と言えると本気でわたしは思っている。


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今日は朝の7時過ぎに起きた。月二回の資源ごみを出すためである。いつもならニ度寝をするところだが、昨日は夜の8時半まで寝ていた(そしてまた明け方寝た)のもあるし、できれば本日は実家に戻りたいと思っているので、もう一度横になりたいところを、がむ、がむ、がむばって、いや、がんばって、体を起している。開けた窓から(すり硝子なので、開けないと外の景色が見えない)は、梅雨の中休みらしい空。目の前の大木には朝から蜂がいっぱいやってきている。柿の木にはいくつものあおい実が。あと3ヶ月もすれば、熟れた実をながめ、「秋だねえ」なんて呟いてるんだろうなー。ああ、気持ちいい風がはいってきた。

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今の世の中に向き合うときの、もやもやした感じ。このブログでは閉塞感という言葉に最近あてはめてみたけれど、うりゃうりゃ、例えばこういうことなんだよねー!な文章を、よしもとばななさんの日記6月のなかにみつけたので、無断転載ごめんなさい、写させて下さいな。

たとえば携帯電話会社に契約に行くと、普通に「なるべくおとくに、ふつうに有能な携帯電話をここで契約したい」と素直にやってきた大半の人々が感じる、小さいだまされ感。大金を払わずには決して解約はできないようになっていて、四百円、五百円の小さい借金を毎月返済させるようなシステム、すごい場合は他の会社の悪口を堂々と言ったりうそをついたりして、さらになにかを買わせてそれを分割で返済することになるが、その場で出すお金が小さいためにあまり負担に思わないようなしばりを課せられるという…いつも途中で「いっそ、もう一生解約できないから観念してください、その分サービスがよくなるようがんばります」って言ってくれたほうが楽なんだが、と思って笑い出しそうになってしまうが、社員はノルマがきつくて大まじめだという…。

ちょっとしたことなんだけど、今の世の中、こんなことの積み重ねがほんとうに多い。上の話も、なにも携帯電話の会社のことを書きたかったんじゃなく、わかりやすい例えとして書かれたのだろう。

こういうことに麻痺した感覚。これが一番こわいのだと思う。

今の世の中をスマートに生き泳いでいることは、実はこわれている証拠だったりして・・・。(と、わたしのような立場…社会に対してひきこもっている…の者がいうと、ひがみ発言のように聞こえるか?)。

しょうがないわね。こんなものよね。今はこれが常識。などなどの物分りのよさは、波風立たず人間界に住まうための手段だから、みんな、なかなか声をあげられないのだよねえー。


★追記★ しかし、しかし、わたしはやっぱ、せまいなー。0円ハウスの坂口恭平さんのように、グチをこぼす前に世の中を覆すような行動を起している人だっているのだよなー。


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しばらく前に、新しい食器洗い洗剤を買った。

「こんどはドイツのカエルのにしよう」と
思っていたのに、結局はスーパーで買える
国内メーカーの“手荒れ防止”の食器洗い洗剤に。

で、これ、使い始めは
「お風呂に入ってるみたい」な匂いがして
な~んか違和感ありありだったのだけど
(食器にコレ?とあんまりいい気分じゃなかった)
何回か使っているうちに、違和感も薄れてきたのだった。

そして、さっき、気付いたのだ。
「あら、ここ最近、こまめに洗いものしてるなー」。

わたしは汚れた食器をシンクにおいたまま眠れる
そーゆー、だらしなタイプの人間なのだけど
最近は、お皿や炊事道具など、わりとすぐ
ちょちょちょいと洗っている。

これ、もしかして、洗剤のおかげ?

この洗剤が好きってほどじゃないし、
薄れたといっても、まだ違和感はある。

でも少しはこの違和感を楽しんでいる自分。

さて、何を書きたかったかというと
ココカラガ本題デス

物に頼らず…現象に頼らず?…心を豊かに暮らしていく
そういう自分にあこがれてはいるのだけれど

まだまだムズカシイみたい。

まあ、せっかく三次元の世界に生まれたのだから

物との付き合いにもほどほどの楽しみを探し

心をはっとしたり、わくわくしたりして

(たとえば、こんな洗剤のようなことであってもね)

生活するモチベーションをあげてゆきたいな~。

                   

生きることに関して、自分が下ばかり向いているのを
ちょっとだけ意識し始めてはいる。

でも、意識するだけじゃ、
どうにもならないのだよな。

生きる。なんて単語にすると、大ごとで、
どこから手をつけていいのか
わからなくなりそうなんだけど

生きる。の土台は、日々の生活なんだよなー。


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下の続き

あっ、待てよ。

「今日は七夕だった」そんな話を書こうとブログを開いた
のだった・・・が、ま、いいか。

生きるモチベーションを上げるためには、
季節のモヨオシゴトなどに関心を寄せるのも
手ではないか? ね。

楽しくなくても百回笑ったら、なんとなーく楽しくなる
なんてことが起きるかもしれないのと一緒で

よどんだ精神状態であっても、なーんか楽しい気分風な文章を
書いていると、だんだんと楽しくなってくるかもしれないよね。


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うおおおー、独りよがりといおうか
意味の通じにくい情緒にひたっているというか
観念的な話ばかりの、最近のブログであるが

冗談抜きでほんとうに伏せっているばかり
の生活のなか、なんでもいいから、アウトプットする作業は
なーんもしない。寝ているだけ。心の中でうなってるだけ。
よりは、少しはましだろうから、
ま、唯一の能動的な活動ということで

自分のなかで「よし」「よし」行為ということに
しておこう。


  *  *  *


よく、ウツの人には「休養を」というけれど

今のわたしには、何かをはじめないと「出口」がない

ことがわかっている。

休養しすぎで、体も心もだるい!んだよな。

(しかし、また何かをはじめたらはじめたで
過剰な緊張感にさいなまれるのだろうな・・・)


  *  *  *


「視線を変えないと、なにも変わらない」
はいはい、そうですねー、と、わかりながら
視線を変えることができないというのは
結局、勇気がないということなのだろう。

「誰しもが毎日生まれそして死んでを繰り返している」
というけれど、目が覚めたとき、どうして
昨日の続きのように思ってしまうんだろうな。
えっと、それはたぶん
目覚めたときのエネルギーが「昨日」を引きずっている
それが原因なのだろう。


  *  *  *


うるるる~。

こんな話を書き始めると、エンドレスになりそうなので
ここらでやめておこう。

ミルク紅茶でも飲むか。

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「閉塞感」という言葉を誰もが口にするようになって、たぶん二十年くらい経っている気がするのだけれど、感度の違いこそあれ、いまや、物心ついた子供から、ボケ手前の老人まで、みーんな、これを肌で感じているんだろうな。耐久能力の違いもあって、ぴくぴく酸欠失神手前の人から、まあ、この状態にあと何十年かは耐えられそうな気分の人まで。

★みもふたもない言い方をすれば、全体の閉塞感を取り去る方法なんてないのじゃないかな。だから勇気のある者から「イチ抜~けた」と、単身、閉塞ワールドと決別し、手探りであたらしい世界を築いていく。そうやって「イチ抜~けた」人口が増えていった結果、あれれ、気がつけば、閉塞感が収まっていた、となるのでは。

★たぶん、それぞれ時に孤独な思いをしながらも、すでに閉塞ワールドを抜け出している人たちはいるのだろうな。抜け出す途上の人も。わたしは、といえば、がっつり閉ちゃんの世界にいることを自覚しつつも、あたかもそれは「まわり(=漠然とした社会や世間)の責任」のようにとらえ、自分自身が、閉塞ワールドの加担者であることを、気付いていないふりしている。

★つまんないことで人の揚げ足とったり、とられることを心配したり、生活費を稼ぐために世の中の負の軸をまわす労働を厭わなかったり、イヤだけどこのご時勢仕方ないさと色んなことに目をつぶったり、弱っている人の上を土足で踏んづけたり、保身がその人の中で最大の価値をもってしまったり、などなど、世の中、つまんないことに力いれてんなー。

先ほど読んだ横尾忠則さんのつぶやきにこんなのがあった。 → 「別の隣の家は俳優の橋爪功さんの家で、わが家のテレビがよく見えるそうだ。こちらからは何も見えない。夜中に目が覚めると橋爪さんの家は何時でも電気が煌々とついている。いつ寝られるのだろう」。ふふーっ。ま、何気ない話なんだけどね。横尾さん、いつもこんな感じで、心にわだかまりがない、というか、まっすぐなんだよなー。(わたしは芸術のことはさっぱり解らんが、横尾さんのアタマのなかは好き)。普通だったら「他人のプライバシーを書くのはいかん」と自制が働きそうだけれど、横尾さんはそうじゃない。現代人のそういう面倒くさいマナーなど、はなから気にかけていないご様子で。あるがままを大事にしているというか、いつもご自身の気持ちにまっすぐな感じで。横尾さんだって現代社会に生きているのだから時代の空気を吸い閉塞感も十分に体験されているのだろうけれど、彼の場合、そこを抜け出すというよりは、最初から「同時に、そこに存在していない」そんな感じなんだよなー。

過剰な気遣い、過敏な態度、そういったものが閉塞感を作る大元のひとつとなっているのは間違いない。それらが「人との和」を維持する大切な役割を果たしてきた面も当然あるけれど、今となっては、その罪のほうがはるかに大きいよな。閉塞ワールドを抜け出すヒントに、横尾さんのような在り方(気持ちの出し方)があると思う。隣の人間を誘う必要はない。自分一人が、その一歩を踏めばいいのだ。


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ものごとは60%ほどの力でも進んでいくのに
99%をささげないとならないのではないか
ととらえるふしがどうもわたしにはあるようで
だからだからあらゆることが重く感じてしまうのか。
世の中はほんとうはもっと軽いのか。

ジョークでない。本気でわたしはこんなことを書いているのだ。

こんなわたしは
「コトっと何かがはずれれば、病院行きになる」素質が
じゅうぶんにあるとは思う。
(幸いにも、わたしは他人に乱暴をはたらいたり
 肉体的な自傷にもひきつけられないので、
 一見、平和な日々をおくっている。
 要はこの素質ゆえ、かろうじて静かな暮らしをおくっている)。

記号的にいえば、単なる社会不適合者のレベルなのだな・・・。

ただ、肉体を傷つけるような乱暴ははたらかなくても
精神的な乱暴はじゅうぶんに
(まわりにも、自分にも)
はたらいていることは承知しているので、それはつらい。



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