ともみ@ピクニック

うっす。朝はもう4時台から明るくなっている。

4月もあと一日ですなー。

この頃「日々の日記」を書かなくなっているが、「思うところあって」なんてのでは全然なく、ただ「なんとなく」そうなっている。(特に実家にいるとパソコンを開くことすら面倒になって)。ひと頃は「日記(日々のメモ)→現実というホログラフィーに益々栄養を与える」的な発想もあったけれど、(たしかにその通りなのかもしれないし)、今は「やりたいことをやればいいや」(だから書きたくないときは書かない)という柔軟なあたまにシフトしている。アジアのある坊さんの本のなかにあった「花を見て、美しいと思うのも、これまた執着なのです」という話をときどき思いだすのだけど、まずは、この話はまったくもってその通りなのだろうという前提に立ったうえで、「せっかく生まれてきたのだもの。この世で遊ぼうよ(美しいと思うのも心の遊び)」の姿勢を今はもっていようと思う。執着を手放そうと努力することも、ひとつの執着なのだろうし。

               

さてさて、最近のまとめ日記を書こうと思ったが、はて、何をしていたのだっけ。数日ごとの「実家とアパートを行ったり来たり」、やっぱり、これが一番の大きな仕事かな。

母はあいかわらず元気でいてくれるので(「さみしい」と、時々「頭がもやっとする」のが困る、という悩みはあるらしいが)、実家では母の作った料理を食べ、ときどき庭をうろうろし、あとはテレビを見放題、お風呂入り放題、眠り放題、の生活をしている。「傍にいてくれるだけでいい」と本気で思っているらしい母の弱さ(さみしい病)と、わたしの怠惰な暮らしが、ほとんど波風も立たず絡み合った、のんびりとした静かな日々。

(真夜中起きているわたしの出す音でさえ「うるさ」くはなく、嬉しいのだと。「あれ食べたい」「これ作って」というエンドレスの我儘や、わたしの時々発するイヤミな発言さえも、嬉しいのだと。それほどまでに一人のときはさみしいのだと。ちなみに、姉は毎日電話をしてくるし、週一くらいは実家にくるし、近所の人ともおしゃべりしているし、ときどき女学校時代の友達や名古屋時代の友達と連絡取り合っているし、畑友達がいるし、いつも(母の)妹たちと会っているし、えとせとら……それでも、さみしいのだと)。

               

今月一番の発見を書いておこう。もしかしたら毎年発見しているのかもしれないが、今年は揺らぎない感覚として体からあふれるほど、はっきりと、しっかりと実感したので、ここに書いておくのだ。

植物の生命力に癒される(実家の庭の)。

これほどこの恩恵を味わった春は初めてかもしれない。なんでだろ、毎年この芽吹きの季節には「とても気持ちいいなあ」と魂が喜んでいたと思うのだけど、今年はそれがグレードアップして、庭の植物を眺めるわたしの細胞ひとつひとつが、瞬間、瞬間、「ああ、幸せ」「気持ちいいねー」と、わたしに語りかけてくるようなのだ。

そうして、気がついた。これは、なかなか滅多に訪れない、「癒されている」というやつではないか。わたしは感受性が強くない。たいがいのことに感動しない。いつもぼけ~っとしてる。人々が「感動した」「癒された」と熱く語るような体験を横にしても、ふ~ん、としか思わない。「すごい!」「いいね!」「幸せ!」と言葉にすることもあるけれど、それはたいてい、その場の勢い(興奮)だ。いやいや、そういう肯定的な気持ちはたしかにあるのだろうけれど、それ以上のものではない、ということ。これはあらゆる方面においていえること。きっと、インドの沐浴を見たり、オーロラを見たり、もっと言っちゃうと、宇宙から地球を見ても、わたしにはこれほどの(実家の庭の植物の生命力に癒されるほどの)癒しは起こらないのでは?と思ったほどだ。

この体験の、そもそもは、「どうしようなく気持ちが固まっていた」ところから始まるのかもしれない。わたしの場合、気持ちが固まるは、疲れている、やる気がない、などとも言い換えられるのだけど、そういうときは(実家に滞在しているときの)わたしにとっての唯一の外界である「庭」にすら出られないのだよ。「そろそろ庭仕事の時期だなぁー」と頭では自分に語りかけても、とてもとても、身体を起して外(庭)に出てみようという気持ちが起きない――そんな時期がしばらくあった。

今となってはなにの拍子だったのか思い出せないのだけど、あるとき、外(庭)に出ることができた。「外(庭)に出る」ことは、想像するだけで、息苦しいことだったはずなのに、案外、息をするのもラク。いや、家に篭っているよりも、ずっとラクに息ができる。今春初めて庭に出た日、わたしは久しぶりに自然の光を浴びて、気持ちも穏やかになっていたのだろう。それをきっかけに、実家滞在時、晴れていて体調のまあまあのときは、外(庭)に出られるようになったのだ。そして、ちょっとずつ日をかけて、今年も庭の春支度を始めた。

先日の帰省で、ほぼ春支度は終了。あとは、草むしり、剪定、植え替えなど、ルーティンワークだ。広い庭でもないのですぐに庭のパトロールは終わってしまうのだけど、一度庭に出ると、日ごと変化する植物を眺めたり、苔をなでたり、お日様をまじまじ感じたり、あっという間に時間が過ぎていく。そう、きっと、「いる」だけで癒されているのだな。

そして、ときどき、「自分が庭(植物)のお世話をしているのではない、庭(植物)がわたしを助けてくれているんだなー」と、はっきりした言葉になって胸におちてくる。(と、書くと、まるでわたしが全面的な世話しているようだが、普段は母がせっせと水遣りなどの世話をしているのだ)。

ここに書いたことは、毎年、味わっている幸せ。落葉樹の新芽がぐんぐん伸びて、アスパラが顔を出し、コゴミは葉っぱに変身し、などなども毎年この時期のお約束。こうやって毎年、庭の植物の生命力を(ときどきは「虫がついた」とか「~しなきゃ」とイヤイヤモードになることはあっても)肌で知っているはずなんだけど、今年は、さらに深いところで心が呼応しているといおうか。

居間のコタツに当たりながら、春の体内時計のスイッチ入った植物を眺めていた先日も、「ああー、幸せー。見ているだけで癒される」と、無言のつぶやきをする自分がいた。


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先ほど夕飯を食べながら「女性の貧困」をテーマにするテレビを見た。うわっ、うわっ。さすが大衆マスメディア。思いっきり笑ったぞい。「これぞ、幸せの基本」という暗黙の敷石の上に作られた番組といおうか、そこからハズれたものが貧困なのねー。くっ、くっ~、こういう社会にはびこる無意識のパワーがあるから、ますます負の連鎖が起こるのね~と、勉強になった。ありがとさん。あまりにバカバカしいので、細かい感想はひとつだけにしておく。ふふっ、「あなたの代わりはいくらでもいる」と言われたら、わーい、わたしの代わりいくらでもいるよねー、無理してコレやらなくてもいいのねー、よかったー、と、心の底からわたしは思うでしょう。

*社会的な括りでいうならば、わたしは「貧困中の貧困」、ど真ん中、というか、貧困層のなかでも更なる下層であるけれど、へへへっ、「だから何?」なのである。

*一番の問題は「社会的な価値観のなかで作られた認識→貧困意識を、当事者が何のためらいもなく受け入れている」という点であろう。みんな、バカボンのパパ、になれ!


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わたしは、現代的なお色気産業に携わる女性たちに対して、なんとなく上品さからかけ離れた印象をもっている。ちゃんと相手を知らない、あくまでも印象なのだけど、芯のあるお姐さんというのは、如何ほどいるのだろう。

例えば、浅草の鮨屋で祖母と一緒に食べていると、時々、芸者のお姐さんがお客さんを連れてやってくる。しかし、お姐さんは、鮨は絶対につままない。「食べなさい」とお客さんにすすめられても、お茶を飲むだけ。お姐さんはガリにむらさきをちょっとつけて、お客さんの鮨の上に、そのむらさきをちょんちょんとつけてあげる。それをお客さんがつまむ、という具合に、お鮨はお客さんが食べるもの、お姐さんはガリを食べるというのが常識でした。(渡辺誠著『昭和天皇 日々の食』118頁~119頁)

そんなことを、先日、渡辺さんの本を読んであらためて思ったのだった。

まあ、現在、粋なお色気さんが減っているならば、心の恰幅というか、それに応えられる男性も減っているのだろう。そして女性全般のレベルも高まっているとはいえないのだろうなあ。

ところで、なぜこんな発想がわたしに染み付いているのかと考えてみても、さっぱり分からないのだけれど、わたしは一昔前の「男が女を囲う」というあり方に、嫌悪の感情がわかないのだ。(自分とは別世界の話だから? もしもわたしが結婚していて配偶者が「女を囲って」いたら、いい気はしないだろう)。

もちろん、本宅を省みず、なんてのは問題かもしれないけれど、あっち(本妻の家)もこっち(お妾さんの家)も大切にする、経済的にも精神的にも両方に自分のもっているものを注ぐなんてのは、すごいことじゃない? カッコいいとさえ思う。

(わたしは前世で、とてつもなく素敵な男性の妾だったのだろうか! そしてその人のことをものすごく好いていて、感謝していて、いまだその感覚が残っている・・・とか?? 漫画のような妄想が膨らむが、けっこう違和感なく受け入れられそうでもある)。

えっと、話は、「男が女を囲う」の一般論に戻る。

想像の世界という弱点を含んでいることを承知して書くけれど、わたしは、一昔前のそういう関係には好意的であっても、現代のそういう関係には好意があるかないかさえ分からない。ついでをいえば、もしも自分がと想像すると、ぞっとする。なんでだろうなー、この違い。現代の場合は「お金が一番モノをいい、男の度量のようなものが極めて薄い」そんな偏見と関係があるような気もする。

(昔は、玄人も素人も、女も男も、タカルという発想をする人が、今ほどいなかったのではないか。その反面、施しは、今よりずっと多くって、与えるほうも受け取るほうも、さほど鼻を高くしたり卑屈になったりしなかったのでは)。

(さらにいえば、昔の人には礼儀があった、現代人は礼儀というよりも神経質な面ばかりが際立っている。また昔は人と人の境界線が大雑把だったが、現代は境界線が繊細に張り巡らされている分、個人的な利益の追求に重きを置きがちになっている。このことも、「男が女を囲う」ことの好き嫌いに関係してくるような)。

(↑昔を生きていないのに「昔は~」なんてどうして分かる? ツッコミが自分に入るのだけど、そう感じてしまうのだから仕方ない。よく「明治のころはロマンがあった」と明治を生きていない現代人が語るのと同じことなのだろう)

これ、男の胆力と深い関係があるのではないか。わたしは、かつての「男が女を囲う」という行為のなかに、男の「胆力」を見ているのでは?

「男が女を囲う」。世間では、なぜ、そんなことに目くじらを立てたのだろう。「あってはならない」ことのように声を絞って噂したのだろう。結婚制度のもとの「男と女の関係」と、「旦那さんとお妾さん」の違いはどこにあるのだろう。前者に愛はなく、後者に愛がある場合だってあろうに。

わたしは「一度縁を結んだ女性の世話を生涯する」男性の心意気を好意的に受け止めている。えーっと、三谷幸喜さんのドラマ『わが家の歴史』の鬼塚大造(佐藤浩市)のような男性って、魅力的なんだけど。


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下の下の頁は、「心の運動」における我なりの理論(空想)、
決して「心の運動」の体験(実践)ではないのだなー。
(体験をせず、理論を語るだけでは、意味ないよー)。

ところで、

わたしは上手くいかない日々(*)に慣れ親しみ過ぎて
(*明るい気持ちになれない、やる気が起こらないなど)
もはや悶々とすることにも疲れたフシがあるのだけれど、

へへっ、それは良いチャンスかもしれない。

「悶々とする」ことに疲れているなら、悶々とするの止めようぜ!

もう何十年と、そういう自分をやっていたんだろ! サヨナラだぜ!!

頭のなかはグルグル同じ傾向のことを考えるのがラクだから
(思考における慣性の法則といいましょうか)

ネガティブワールドの渦のなかで
わたしはただただアップアップしていた。
(アップアップというのは、自分に向けた自分のポーズで、本当は
慣性のなかに浸るという安らぎを喜んでいたのかも)

よく、「思いっきり落ち込んだら、翌日すっきりした」とか、
「泣くだけ泣いたら、元気になっちゃった」という話があるけれど、
わたしにはそういうのが、ない。

あれはたぶん、不の慣性をもっていない人の出来事なんだろうなー。
(不の慣性がないので、ときに「不」に入りこむと、反動が起きる?)

あるいは普段、あまり自分の感情に向き合っていない人か。
(いわゆる「ためこみ」過ぎているのですね)

おっ、とっ、と。こんな話を書こうとしたのではない。

要は、やる気が起こらない。→やらない。
   だるい、しんどい。→寝てる。
   やらない、やらない。寝てる、寝てる。
   →ますますエネルギーが低下。

このサイクルのなかに、わたしは浸っているんだな。

これを変えるには、

どんな些細なことでもいいから、エネルギーを作るのがいいんだろう。
(もちろん、暗い方向じゃないエネルギー)。

しばらく前のブログに
「感情→意識→エネルギー」と、その誕生の流れを書いたが

「明るいエネルギーを生むためには、明るい感情をもてばいいのでは」
という論理も成り立つわけだ。これ、たぶん、正解である。

「明るいエネルギーには、明るい感情が必要」なのである。

では「明るい感情を得る」ためにはどうすればいいの?

(二週間ほど絶食するとか、まる四日間起きているとか、そのほかの生死をさまよう修行もあろうが)

まずは、単純なことから始めればいい。

ゆる~く、なにかやってみるだけでもいいんじゃないかな。

(こんな書き方すると、誰かに語りかけているようだが、この場を使い
わたしはわたしに語っているのだ)。

たとえば、6年近く前の引越しから未だ片付いていないダンボールを整理してみる、とか。

と、実は、
何ケ月も前から、わたしはわたしにけし掛けているのだけどねー。

うーむ、うーむ、理論(空想)だけでは、なにも生まれない。
(つまり、まだ実践に至ってないのですね)

ともかく、ともかく、未だ実践できぬ身であっても
「行動がエネルギーを生む」
(なんでもとにかく動いてみなけりゃ、生まれない)
「些細なことでいい。ちょっとしたことでいい」
これも忘れないでいよう。

思考における「負の慣性」が強い人間には、容易に明るい感情が湧いてこないかもしれないが、(思考の慣性は、物質界における重力のように強烈?)ま、そんなこと思い詰めたって仕方ないよねー。

あり、まあ、また理論(空想)をつらつら書いてしまったが、
これがわたしの唯一の趣味のようなものだから、ま、いいか。


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下の追記


「非難しない」というのは、自然な感情に「蓋をする」というのとは
ぜ~んぜ~ん違って、

肯定力を高める、練習の途上のようなもの

と思うんだ。

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感情を整える、は不可能なことではないのだろう。

と、怠け者で、その実践へ向ける努力をしていない

わたしではあるが思う。



上を書いて、今、連想することを記してみる。



△自分の弱点を生まれ持ったものとして、
 矯正しようとはしないのは、
 これまた努力の怠り。

 同時に、「弱点」をもった自分を許すことも
 大切だ。

△人を非難しない。社会を非難しない。
 口に出さないだけじゃなく、心のなかでも
 これを実践できたら、すごいことだ。

 もちろん無理やり「心をそういうほうにもっていく」のは
 不健康なやり方で、そんなことなら、どこかで
 きゃんきゃん吠えているほうがマシかも。

 (よい、悪いと)判断し、なにかを非難することは
 もう時代遅れなのだと思う。
 
 まあ、人間、時代遅れなものであっても
 それが心地よければ、しがみついてしまうのだけどねー。



ふ~ん、そうか、そうか、自分、そんなことを考えていたのか。



ところで、この前、

当面の目標(仕事を見つけて、引越しする)の進まぬ自分が
落ち込みの沼にできるだけはまらぬよう、

◎暗い気持ちと向き合わない
(よくいうでしょ、感情がやってくるのはしょうがない、
 それの相手をしなければいいのだと)

◎具体的には何も見えなくても、明るいほうを向く

これをやってみるといいんじゃないかなーと、思いついた。

で、以降、たいがい忘れているようなのだけれど

きっと、きっと、それを思いついたときの
空気のようなものはぼんやりと覚えているのだろうな。
(だから、今、これを書いている)。



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「女の子に『好きだよ』っとは言わないで、じわじわと態度で示すんです。好き、好き、って。そのうち女の子はじれったくなって、『ちゃんと口に出して!』って、言ってくる。そうしたら、こっちのもの。すかさず『口に出していいの?』って聞くの。……そういう遊び」。

今夜、ラジオの生放送中に地震が起こったとき、菊池成孔さんは一旦、ディレクターに確認したうえで、地震直前に読んでいた「エッチな投稿」の流れを継ぐ、即興のおしゃべりを始めた(それが上)。あとで成ちゃんは「もしも生放送中に地震が起こったら、下ネタを話そうと、ずっと前から決めていたんです。ちゃんと出来て、自信がつきました」と語っておった。

ふふー。ずいぶん久々に成ちゃんの声を聞いたが、天才ぶりは変わっておらんなー。

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この数年、エッセイ本がちっとも読めない体質になっていたのだけれど、しばらく前に母用に借りた本を気晴らしに手にとってみたら、案外、目が踊らないのである。ちゃんと活字を読める。まあ、拾い読み(面白そうな頁だけ読んでみる)も多いのだけど、それでも、わたしにとっては画期的な変化。

最近読んだもので一番おもしろかったのは、渡辺誠さんの『昭和天皇 日々の食』。昭和天皇のお人柄、宮中内のお食事、大膳(宮中における台所)の様子などなど、興味は尽きないし、渡辺さんの生い立ちや、宮中に上がる前の料理人の世界も楽しめる。

この本の終わりの章には、皇太子さまの独身時代から結婚初期の食にまつわる話も披露されている。昭和天皇がお隠れになられて久しい今、皇太子さまのエピソードは昭和天皇の思い出話とはまた別の意味で興味深い。(今度は『殿下の料理番』を読んでみよう)。

なお、この本に登場する、渡辺さんのお父さんや、「天皇の料理番」の先輩の中島さんや秋山さんも、たいそう魅力的。昔はこういう人がいっぱいいたのだろうなあ。男気があるというか。時代が彼らを作ったのだろう。それぞれの方だけで一冊の本にしてもらいたいほどであるが、残念ながら、渡辺さんはすでに亡くなられているので、それは叶わない。

「へーっ」と意外だったのは、今に伝わる天皇家のお正月の行事は大正時代に整えられたらしいこと。なんでもそのきっかけは、明治時代に宮中の西洋化が急激に進んだことを危惧してなのだと。そうか、そうか、天皇家といえば伝統の象徴のようにも思っていたが、実はわたしたち一般人と同じように明治大正時代にぐっと暮らしは変化して、今も刻々と変化しているのだな。


おまけ① わたしには天皇を格別に崇拝する心の働きはないつもりなのだけど、TVなどで天皇陛下や天皇家の方々のご様子に触れると「敬いたい」センサーが働くこともある。やっぱり、この国の精神的な宝なのだなー。テレビで美智子さまをお見受けすると、いつも心洗われる気分になるし。滲み出る人柄がこんなにも際立っている方々は、わが国において、天皇家のほかにはないだろう。

おまけ② 最近「おっ」と思ったのは、雅子さまが「昼夜逆転」生活をなさっているという、週刊誌の噂。うーむ。うーむ。そうであってもなくても、わたしは雅子さまを応援してるぞい。健やかな気持ちになる瞬間が少しでも多くありますように! !


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ただ今、28日の15時半。ゆうべ、金沢に戻った。今日はあちちち~ですな。30度近くあるのでは。先ほど起床したばかりなのだけど、今年初のTシャツ姿になりました。(と、ココまで書いて、「うー、お日様を浴びて、こころの消毒をしよう」と、外出。なじみの場所をいくつかうろうろ)。そして帰宅。こんな日は、ウエルカム本格的な春(初夏を期待させる)ドリンクを飲もうと、白ワイン・ぷらす炭酸水を、アペリティフにしてみたんだけど、どうも塩っぱい。「塩をいっぱい添加した、安物の炭酸水のせいでは」と、犯人を見立てたのち、今度はワインだけで飲んでみたら、「ありっ、これも、塩っぱい?」。うー、うー、うー。安ワインで日々の舌をしのいでおっても(=要するに、アルコール依存心と懐具合が相談し、ごまかしているという)、それくらいは分かるのだ。今宵開けた一本目、塩分高い土地で育ったブドウから作られたの?という疑問はさほど気にならず、それよりも、今日買ってきたロゼワインを開けてお口直しをしようかな~、という関心に先ほどから揺れてるぞい。うー。只今、20時45分。今のところ、おつまみは、いろいろ野菜(白菜とか春菊などの菜の花、と、ニラ)のゆでたもの、ホタテのお刺身(お店ではホタルイカが安かったけれど、実家でたらふく食べてきたので、今日はやめた)、お菓子のリッツ(カマンベールペッパーのクリーム入りを初めて見たので買ってみた)、アジフライ(自分で作ったのではない、スーパーのお惣菜)、これから何か中盤になるようなものを見繕い(まずは、お豆腐と子持ちメカブのあわせものかな。冷蔵庫のなかと相談だ)、〆は野菜ラーメンか、タケノコの入ったちらし寿司(きのう母が作った)のどちらかの予定。世間さまは、黄金週間なるものに突入されたとのこと、おめでとうございます。わたくしも、こころ穏やかな黄金週間を過ごしたいと思います。ぐわっ。

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先日、オリンピック出場の決まったトライアスロンの選手がテレビに映っていた。わたしがたまたま見た場面では、彼女のメンタルな立ち位置を紹介したものだった。大雑把にいうと、ポジティブシンキングの類なのだけど(アスリートで成功している人のうち、ポジティブ人間ではない人なんていないかも)、彼女の場合、「視線を未来において、すでに成し遂げたこととして、感謝する(とらえる)(実感する)」という方法だ。最近、よく、目にしますな。この方法。きっといいいのだろう。引き寄せの法則とも、イメージ療法とも、通じる。▼例えば「何年何月(←未来)五輪出場が決まり、ありがとうございました」とか、(ケガをしたら)「「何年何月(←未来)ケガのおかげで、それを乗り越え、より強い自分になりました。ありがとうございます」というようなことを、実際にコトが起こる前に日記に書くのだ。また取材した人が「あなたの弱点を~うんぬん」と言葉にしたら、選手は「言い方を直していただけますか。弱点ではなくて『伸びシロ』というふうに」とすかさず提案したそうだ。ふぅ、さすが! (道端ジェシカさんの本は読んだことがないけれど、ジェシカさんもこんな感じなのかしら。わたしはモデル業にもブランド品にも興味はないけれど、きらきらと体の内から輝きを放っている道端ジェシカさんは好き!!)▼わたしは昔、「ありがとう」病の人(なんでもかんでも「ありがとう」と言ってる人)を馬鹿にし(←感謝の気持ちじゃなくて、単に言葉を呪文のように用いてご利益を得ようとする人を、あさましく思っていた)、飲食店のトイレなどで(相田みつをさん的なノリで)「ありがとう」の大切さをさり気なく、でも、じとーっと、色紙に書いて張っているのを、不愉快なものとして見ていたけれど、いやいや、歳月は流れましたぞい! いまだ、心地よい「ありがとう」と、なんでもかんでも「ありがとう」病の、差別はしてしまうけれど、それでも、感謝の気持ち、「ありがとう」の効能は、頭では理解しているつもりなのだ。(なら、実践せい!!!)。▼アファメーションが潜在意識を動かしたり、感謝の気持ちがエネルギーを生み、よりよい現実を創造していくのだな。(う~、「感情が意識を作り、意識がエネルギーを生み、そのエネルギーが現実に投影される」なんてのは、量子物理学ではとっくのとうにお馴染みだ!とは、多くの人の意見である)。また、宇宙の法則(自分の放ったものは、すべて自分に返ってくる)の理にも適っている。ネガティブなエネルギーを放つと、現実はますます追い込まれるほうに動き、逆に、喜び、嬉しさ、感謝など、愛の方向のエネルギーを放つと、現実は思いもしないほうに好転するというのは、わたしも疑ってはいない。

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ある作家さんのツイッターからまわり廻ってたまたま辿り着いたサイトのなかの、宗教学者の釈徹宗さんの語りが印象に残った。


現代社会っていうのは、普通に暮らしていると、だんだんと自分っていうものが大きくなるっていう、そういうメカニズムになっているように思う。われわれ、小さなころから、君には無限の可能性があるとか、あきらめなければ夢はかなうとか、ナンバー1よりオンリー1とかといわれて、メッセージを受けて暮らしてるわけですね。また現代教育というのは、それなしには成り立たないので、そういう中でいると、ある程度自覚的にうまく自分を整えないと、自分っていうものがどんどんどんどん大きくなってしまう。で、自分っていうものが大きくなれば、現実とのギャップに苦しむという事態に陥る。これは、現代人が陥りやすいわなっていうような気がする。というのは、毎日学生たちを見てても、自分というものが大きくなりすぎて、すごく不全感に苦しんでいるの
・・・以下略。


まるで、わたしのことのようだ。(わたしの不全感の始まりは「そこにない自分を見ようとしている」点ではないか。つまり「自分が大きく」なっている?)

ちょっと話は飛ぶけれど(でも関連しているつもり)、よく昔の話として「見合いの当日まで、相手の顔を知らなかった」さらには「結婚するその場で、初めて相手に会った」というのがあるけれど、現代日本人にとっては「アンビリーバブ~ル!」、受け入れがたい出来事と映るだろう。それは、自分が大きくなっているからだ。(自分を過剰に評価しないなら、案外、昔のような結婚でも上手くいくのだろうな)。

自分を尊ぶ、自分を大切にする、それはとてもいいことだと思う。人間の生きる目的はそこにあるといっても過言ではないかもしれないとさえ思う。また、可能性を信じることはすばらしいことだ。ただ、現代は、釈さんのおっしゃるような構造があり、自然と「自分が大きく」なってしまう。そして、そのことは、自分を尊ぶ、自分を大切にする、から、遠ざかるような作用をもたらすのだろう。

「自覚的にうまく自分を整え」るとは、どういうことだろう?



ところで、ほぼ日さんのこのブログにある

   僕に『こうしてほしい』というのが
   わかるんです。
   僕は、無意識のうちに
   その『無言の希望』に従ってきたんです。


このフレーズを自分のことのように受け止める人は少なくないと思う。
(いわゆる「いい年」「中年」になっても、この思いを半目を開けたまま抱え慣らし老いていく人は沢山いるのでは)

ここのあたりと向き合うための課題と、「自覚的にうまく自分を整え」ることは、通じているような気がする。


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 ずっと空き家になっている、こちらの庭。
 冬のおわりに一斉に椿の花が咲きだし、
 それはわんさかとすごかった。

 いつも数日ぶりにアパートに戻り窓を開けると
 この庭と、その隣の曲水の庭、目に入る二つの庭から
 小さな時の移りを知らされる。


ひと月ほど前には庭の一面に蕗の薹が顔を出し、今は一面の蕗の絨毯となっている。いつの間にか姿を消した椿の赤に代わるように、こんどは手前の柿の木に黄緑の葉っぱが、奥の落葉樹に紅い葉っぱが茂り始め、じきのまぶしい新緑を予感させる。



*写真は本日、起床したての16時半前。

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先日、幻冬舎のwebで読んだ益田ミリさんのエッセイを、自分のことみたい(最後の数行を除いて)と思った。わたしもたいてい初対面の人とざっくばらんな雰囲気でお喋りするので、相手から「良い」印象を持たれやすいと自己判断している(*)のだが、実は「そうじゃないんだよー」という叫びがいつも体のなかにある。

(*オメデタイ? いいのですぅ。オメデタ人間は世間において迷惑かもしれないけれど…)

どんな人だって、一人のときの顔と、親しい人といるときの顔と、社会的な顔は違う。違わない人なんて、この世にいないかも。(「自然体の人」といったって、自然体に見えるように無意識で演じている場合だってあろう。わたしもこのクチであり、周囲に大いに誤解されている)。いつでも誰かと会うときは、上乗せした自分を創る。とにかくその場を乗り切るためにテンションを上げる。・・・これも多かれ少なかれ誰もの身に起きている現象なのだろうし、実はみんな声に出さないだけで「人と会うのは疲れる」と思っているのかもな。(疲れても、それ以上の喜びや実りがあるから、人と会うの?)。

わたしはかつてに比べ「ムリをして人と会う必要はない」と思えるときが多くなり、実際、古い友人たちからの誘いにはことごとく断っているここ数年であるが、それでもやはり「他人と触れ合う時間はよいことである」という固定観念は残っている。人は人と会うことでエネルギーをもらい・与えることができる、という理屈にも賛成だ。つまり、「人と会うことは大切」と、頭では思っているのだな。(人と会ったあと、「やっぱり疲れた~」と、うぅうぅ寝込んでしまうことも多いが、特に友達と会うと「疲れたけど、楽しかった。元気になった」と感じることもあるしね)。

ムリして人と会う必要はないし、ムリして笑う必要もない。(なお、わたしが人と会うときは、ムリして明るくしているのではない。自分でも知らないうちに「そういう自分」のスイッチがonになっている。別の言い方をすれば(ある意味では)自然体なのである)。自分に正直でいいんだよ。これらは間違った考え方ではないだろう。しかし、しかし、待て待て待てよ。「笑顔は伝染する」「明るい表情はまわりの人を幸せにする」「笑いは免疫力を高める(本当におかしくなくても、わははっと笑うと免疫力が高まるそうだ)」などの今や常識なる法則もある。うーむ。人はいかなるときも笑って生きているほうがいいのだろうか? 


おまけ
◎非定型の自閉症なのではないか、わたしは。と思う。ならば、ひたすら「人並みのことが出来ない」とメソメソ寝込んでいるよりも、はっ、はっ、はーっ、わたし、非定型なの  と明るく割り切って生きるほうが、すっきりと気持ちがいいのだろうなぁ。(ううむ、「割り切って」の表現は違う?「認めて」と言いなおそう)
◎「あらゆる罪悪感は 身勝手な行為」と、久々に開いたHPのなかでウィリアム・レーネンさんがおっしゃっていた。
    

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前略 メソメソ君へ

◎世の中を見渡せば、仕事はもちろん、趣味の世界、体を動かす、ボランティア、家事などなど、生きることをがんばっている人は多い。わたしはといえば、寝込まずにいるのが「まずOKの段階」で、たましいを喜ばすようなことは何もしていない。(たとえ、「エロ本切り抜きスクラッチ帳を作る」という趣味だって、それが生きる楽しみならばいいと思う。すばらしいことだ)。生涯学習の時代の恩恵にあずかって、何か新しい分野の勉強をしてみる、という選択だってあるのにな。えっと、その前に、なんとか片付けのやる気が起きんものか。
◎「いいんだよ、自分」の洗脳を自分にかけようと、先週末が始まる前にふと思い立ち、2~3回くらいやってみたけれど、はたして効果はあったのだろうか? 何が「いいんだよ」なのか、まったく分からないけれど、あえて否定的な感情を抱く必要はないのだよなあ、どうせ活動的なことはしないはず、ならばいっそ「OK」光線を自分にあててやろうと思ったのだ。そして、すぐに「自分洗脳計画」は忘れてしまったが、引きこもりは予定通りこなしました。
◎上の計画は、木曜の夜、「この週末は思いぃぃっきり引きこもってやろう」と決意したときだっけ。引きこもりへの決意は、上手くいかない自分の人生に(←こんな言い方、漫画ですな!)反動しての現象だったのだろう。(ふふふ、決意しなくても引きこもりなのにね。ところで、惰性の「結果、引きこもり」よりも、決意した引きこもりのほうが、精神的にいいような気がするぞー。
◎自分で書いてアップしたブログにも、落ち込むわたし。「ライフログの記録という行為をナナメに見ているように思われるのではないか?(←自意識過剰)」と後ろ向きな思いにとらわれたり。で、今夜の夕食をケイタイ撮影し、ブログに載せて、ほらっ、決して「食事の写真撮影も否定的ではないのですぞ」の心意気を見せようと思ったのだけど、なんだか薄暗く撮れてしまったので、やめておく。


メソメソ君、わたしの話を聞いてくれて、アリガトウ。


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「春がまぶしい」。うー。

言い方はいろいろだけれど、毎年、

雪が消え、桜が咲いて、ゴールデンウィークの辺りまで

ごっつうシンドイよー。と、

書いているような気がする。

まあ、ほんとうのところは年がら年中シンドクて
これは己の個性のようなものと思ってはいるのだけれど

はいはい、今年も例外なく
この「まぶしい季節」が、シンドイのですね~。

たぶん
「こんな輝かしい季節に、しずんでいる自分」
「躍動のときに、あいかかわらず、うずくまっている自分」
などなど、
デブのなかにヤセがいると、ヤセがさらに目立つように
チビのなかにノッポがいると、ノッポが一層と際立つように
“比較の視線”が働いているのだろうなー。

ヤセは誰といてもヤセで、ノッポは誰といてもノッポなのにね。

わたしだって、冬のわたしとなんら変わっていないはずなのに
(その変わらない、というのがツライんだな。
 すでにソコソコの精神状態でいれば
 こんな心境にはならないのだろう、と想像するのだが…)

何かを勝手に比べ、何かを自分に求め、その求めた答えが返ってこず

「春がまぶしい」なんて弱音を吐いている・・・。

いやいや、そうじゃなく

上に書いたことは殆ど勘違いであって

これは単に生理的なもんだいなのだろうか??



先ほど、何日間も開封したままにしていた、バーースデープレゼントの
ウサギの縫いぐるみを手にとってみたら、
誕生石(もどき)の飾りや、足の裏に誕生月の刺繍を発見。
こんなに凝った縫いぐるみだったとは・・・。
うー。
一生懸命に選んでくれたのだろうなー。
ひと言「ありがとう」のメールでお礼を済ませていた・・・。

自分軸で暮らすのは、決して悪くないのだろうけれど
どっぷりと心身調子に甘えきり(依存して)
相手のあたたかい気持ちを見ることすらできないでいた。

うさぎの縫いぐるみの話は、まあ、一例なのであり
だいたいがこんな具合で日々をやり過ごしている自分なのだ。

ただ「いる」「存在する」というのが、なぜに、シンドイのか。
本来は、なにものも「いる」「存在する」ことは、喜びでないの?

ぐう。今は、こんな迷宮入り話は切り上げて、おこう。



只今16時半過ぎ、先ほどから落ち込み度は低くなっている。

午前中は雨が降っていたようだけど、今はちゅんちゅんスズメが鳴いて
やわらかい午後の日がふりそそいでいる。

   







     今日は西の窓に机を向けてみました
  
 

で、なんか、幸せ感度が、ちょっとだけ働いている。

すべては瞬間瞬間なんだと頭では分かっていても、
ついずるずると感情を引きずることがある。
シンドイというのも、その最たるものだ。
ただ、ものぐさに、惰性で、シンドがっているだけなんだよな。
(そこにシンドイ材料がなくても、惰性で感情を引きずっている)。

なぜに、今、下降の気持ちにブレーキがかかっているの?

そのきっかけは、太陽の光を浴びたからなんだと思う。
(もちろん、いつでも太陽の光が万能薬になるわけではない。
 ときどきの環境とかタイミングが大きくかかわっている)

(今日の行動おさらい → 朝8時半、3分ほどだけ起き、
 このところ「起きられない」理由で溜まっていたゴミを出し、
 また入眠。ときどきの覚醒時には、雨の音を聞きながら
 「ああ、偉い。がんばったな。よかったー(ゴミ出しできて)」
 と自分に言い聞かせて、14時半過ぎに、起床。
 ここ最近の流れどおり、どよ~んとなりそうだったけれど
 数十分ほどグズグズ呆然ごっこをしたあと、えいやっと気合を入れて
 5日ぶりにシャワーを浴びて
 今、コーヒー飲みながら、パソコンに向かっている)

本日より、東京スカイツリーの雲の階から
NHKFMとJ-WAVEの放送が始まったらしい。
ふーん、ふーん、と、両者のコラボ放送なんてのを聞いていたけれど
そのラジオを消せば、お隣の庭からは、水の流れが聞こえてくる。
(冬のあいだはおそらく降雪のために川も水量調節しているのだろう。
それが解かれた春には用水路に水が入り、こうして曲水も動き出す)



のんびりとパソコンに向かっていたら、もう日没だ。



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