ともみ@ピクニック

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山を歩きながらああでもないこうでもないと悩みの種を転がしていた。目に緑を映しながら足を前に出しながらわたしはほとんど「今」にいなかった。よく人々はこ~んな場所に来たら「ふーーう。人間ってちっぽけね。悩んでいるの馬鹿馬鹿しくなっちゃった」と笑うんじゃないの? どうなの? (ちなみに今回わたしがココに来たのは単に時間があったからである)。わたしは大抵どこに行っても頭のお喋りが始まりその時々の気の重いことを転がしてしまう。ぐぅ。色んな方々(身体の専門家とか宗教の偉い人とか宇宙方面の人とか)の話を併せてみるに、こういうことなんだろう。→→エゴは常に栄養を欲しがっている。魂に光が当たるとエゴは生きていけなくなるので常におのれの存在をアピールし魂の出番をじゃましている。せっせと〈ここには無いもの(悩みもその一つ)〉を心の表面に運んでくるのは、エゴのいじらしい計らいなのである(たぶん)。うっほん、つまり、「エゴが運んでくる餌をわたしはぱくぱく食べ、エゴを太らせ、調子にのったエゴはますますわたしに餌を与えようとする」わけね。ところで、上京一日目にして「自分の何十回何百回と繰り返してきたパターン(心の動きの癖、それを踏まえた行動の癖)」がまた著しく顕著になり、とっても“自分に”疲れている。もう寝よう。

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新しい切り株に顔を近づけるとヒノキのいい香りがした。

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お弁当をもっていなかったので、代わりに(?)お昼寝日向ぼっこをいたしました。

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頂上に立ち、遠くの富士山などを眺める。(朝の電車からは白い帽子かぶった富士の姿がくっきりだった)。

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名前の分からない、ちっこい小鳥の群れ、可愛らしかった。ムササビにも会ってみたいなあ。声に特徴があるそうな。

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お天気の心配は及ばず。都心もよく見える。

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朝から、健康おじさん、健康おばさんがいっぱいいた。(毎日!登っているという人ともすれ違った)。皆さん、何時からここへ?

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高尾山に来た

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信じると、信じることの実践。「この二つは、まったく一緒。噛み合っちゃう、いや、重なっちゃうよね~」と胸を張って言ってみたい。■「知識の向上」は少しはあるかもしれんが、「たましいの進歩」はなかなか難しいなぁと、わたしは常々ずうずうしくも思っている。■信じる、これは今のところのわたしの場合、知識によるところが大きい。だからなのだろう、あんなにも、こんなにも、そんなにも「信じて」いるハズなのに、いざとなると「信じることの実践」に後込みしてしまう。■何のこっちゃ。もうちょっと具体的に書いてみよう。「現実は自分が創っている」のなら、心地よくはない現実がやってきたなら、それを創り変えればいいのだ。ちょちょいのちょいと。何を躊躇う必要がある?(いやない)。だって現実なんてホントは存在してないのだから。■(もちろん一筋縄ではいかないように見える現実はいっぱいあって、そういうものまで「ちょちょいのちょい」と言っているのではない)。■しかし、どうだ、実際のわたしの態度は。くぅくぅと悩み続け、幾日よ。声を出して「NO」と言えばいいだけなのに。(どう思われてしまうだろう?と)まわりの評価が恐くて声を出せないでいる。■こうなると、“そもそも本当に「信じて」いるの?自分”となっちゃうよな。信じることの実践が出来ないならば、信じる自分も実は存在しないのかも。(信じたい自分がいるだけで)。■今、高速バスに乗っているのだけど、ずーっとさっきから「臭いなぁ」と思いながら、このブログを書いていた。臭いの元はおそらく後部席の人の靴下ね。で、えっと、えっと、何を言いたいのかというと…。「この靴下の臭いも、他の誰でもない自分が創っている」とは頭では理解しているのだ。ふぅ。こういうことは時々ある(←トホホの現実に別の角度から自分ツッコミを入れる)。


誰でもそうだと思うけれど、わたしは幾層からも成っていて、だから捉える現実も幾層もあり、(この短い時間にも、頭とお喋りする自分、信じることと現実の間で葛藤する自分、臭いなぁと鼻をつまむ自分、そんな自分を一歩ひいて見るというか慰める自分 etc)、一見ばらばら矛盾するようにみえても、全部がひとつ。ああ、そうか、堂々巡りのような話ではあるが、「信じていない」のではなく、「信じる自分も、信じながらも実践出来ないでいる自分も、どれも確かにいて」、そして全部がひとつなのだ。


信じるを忘れるほど、信じることの実践の中にいる自分になりたい。(スピリットがおおきくなると、心がちいさくなるように、きっと、信じることの実践が身につくと、信じる必要なんてなくなるのだろう)。




↑読み返すと、酒酔者の文章のようだ。一滴も飲んでないのに~。

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「前世であなたはヒトから黒魔術をかけられたのよ。それだけじゃなく『こんなに頑張ったって、ちっともいいことなんてない』と自分で自分に魔術をかけた。つまり二重の魔術ね」。う~ん、う~ん、どうよ? こんなことを言われたら。実は去年の冬、ある占い師から「あなたが生き辛い理由はこれこれ、しかじか……(実際はもっと物語性のあることを前提として語られ)」と告げられた。うげっ。わたしは、あー、お金をだましとられた。とそのとき思ったのだけど、あのあと、わりとすぐに「真実はひとつじゃない」という思いが胸に落ちてきて、(もちろんお金のためにでたらめを言われたという可能性もあるわけだけど)彼女にはそう見えたのかもしれないし、ただそうではない真実も同時にあるかもね。と楽観的な性格でもないくせに、あっさりとわたしは思った。今でも「真実はひとつじゃない」との思いはあり、あの言葉の信憑性に肯も否も下してはいない。

*これ書いてみて気づいたのだけど、短い文章のなかに「お金」のことが2回も出てくるわ。たぶん「稼ぎのない自分がそれなりの経費をかけたのに、悔しい~」という思いがあるのね。(「こんなこと言われて悔しい」じゃなく、「お金がもったいない」なのだ。ひぃっ)。

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この前テレビでやっていた、牛蒡の竜田揚げ。美味しそう~と、母とわたしの意見が一致。早速「明日やってみよう」と言ってたのだが……。翌日の昼、「(おとといの)紫蘇の実チャーハンと、(きのうの)トマトペンネと、(きのうの)味噌汁に納豆を入れたもの」で、簡単に済ませよう……と、支度をしていたら、「今から行くから」と姉から電話。もちろん、お昼ご飯をこちらで食べるとのこと。うーん。三人分には足りないよなぁ。と、急きょ、具の少ない焼きそばを作る。まこと炭水化物祭りだ。そして夕方、母は嬉々として掘ったばかりの牛蒡を持ち帰ったのだけど、「それからねぇ、お弁当もらったの」とも。(畑の近くに企業などに配達するお弁当を作っている店があり、そこに勤めている知り合い人が、たまに一人暮らしの母を気遣いお弁当をくれるらしい)。うーん、どうする。牛蒡さんよ。エビも解凍中なんだけど。結局、母もわたしも両方を食べる自信はなく、お弁当を分けあって、あとはちょこちょこつまみと、白ワインでお夕飯。ああー。わたしはその翌日には金沢に戻ったので、いまだ牛蒡の竜田揚げはあこがれの存在。

牛蒡の竜田揚げ・・・適当な大きさに切った牛蒡を、茹でて、叩いて、下味、衣をつけ、揚げる。

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今月8日のばなな日記に「『こうであれば、~なのに』とか『こうでさえなければ、~なのに』というのはからくり」という話があった。そう、そう、ばななさんほどの方であっても、頭では知っているのに、その都度都度に体験し「なるほど。なるほど」と自分と確認しあう作業をされるのだな~と、励まされた思い。

わたしにも姿を変え繰り返しやってくる教えがある。(最近もある話(*)に触発された)。まだ気づきというレベルではなく、ほとんど知識の段階なのだけど~。「AさんのA´という問題を捉えて、悩ましく思う。このとき、実はAさんに問題なんて存在しない。自分のなかに問題があるのだ」というやつね。「悩む」は、「憂い」や「怒り」や「絶望」などなどにも変換できる。たとえばわたしの場合、「母はなんて片付けのできない人なんだろう」と、ひんぱんにいらいらしたり暗い気持ちになったりするが、(そして母に文句を言ってしまう)、これ、ほんとうは、母の片付けられない性質→家が整頓されていない→わたしがいらいらしたり暗い気持ちになる→問題は「わたし」なのであるねぇ。

現実にどっぷり浸かり色々忘れがちだけど、わたしも都度都度に学習しているわけさ。と自分を励まそう。

あるカリスマは自分のところに相談に来る人々につき「どうしてこんなことが分からないのだろう?」と疑問に思って仕方なかった。しかし原因は相談者たちにあるのではなく、自分のなかにあったのだ。自分の生み出した疑問で、自分の心を重くしていた。こんな内容だった。


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ホ・オポノポノは、現実は記憶の再生という考え方にのっとり、好ましくない現実があるならば、“その現実を生じさせている記憶”をクリーニングすればよいと教える。この記憶とは、個々人が体験したことにとどまらず、生命が誕生して以来の記憶である。▼一見「?」な話に聞こえるかもしれないが、こういうことだ。政治家が汚職をしたら、その原因は政治家本人にあるのではなく、わたしの記憶にあるのである。地球の裏側の戦争は、わたしの記憶が起こしているのだ。雨乞いはそれ相当の記憶をクリーニングするゆえに天から雨が落ちる。▼その道(*)の大家であるヒューレン博士はクライアントを癒すのではなく、彼自身の内面を癒すことで多大な成果をあげている。(彼には、たった4年で犯罪者の収容されていた病院を閉鎖したという有名な功績がある。ヒューレン博士が自分自身を癒すことで、大量の薬も、手足をしばる道具も必要なくなり、やがて収容されていた者たちが退院していったばかりでなく、そこで働くスタッフにも大きな変化があったという)。▼(*)日本に広まっているホ・オポノポノは、ハワイの少数民族の伝統であるホ・オポノポノを、故モナ・ナラマク・シメオナが生みなおしたもの。

わたしは数年前にホ・オポノポノの理論とは出会っていたが、今年に入って、たまたまある人物の検索をしていて辿り着いた『引き寄せを中心に幸せと豊かさに役立つこと』というブログで、ホ・オポノポノの理解を深めたように思う。なお、このブログ、わたしはときどきちょっとずつ遡り開いているのだけれど、すごく勉強になる。へぇーとか、ほぉーとか、心がジャンプしながら読んでいる。たんに理論やメゾットの紹介ではなく、しっかりと書き手の実践哲学も伝わってくるのだ。


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「死んだ者はね、肉体から離れることができ、幸せなのです。名残惜しいと悲しむのは(死者への思いやりではなく)残された者のエゴなのですよ」だいたいこんなニュアンスの話だったと記憶するが、先日、ある方のブログにてお葬式のときに牧師さんが話したという説教を知り、わたしはなるほどなぁと思った。■数年前、はじめて接心(何日も集中して座禅する)に参加した折、「お父さん、楽になってよかったんだぁ」と、どこからともなく、やわらかい思いがやってきた。本を読んだからでもなく、先達の話を聞いたからでもなく、どこかと繋がりながら自分のなかに自然とわいてきた思い。それはわたしが父の死を初めて受け入れたときだった。■座禅から久しく遠ざかり、そのときの感覚は普段忘れがちになっているが、あれはわたしの原点でもある。■今はどちらかといえば思考的な面から「死んだら肉体を離れる」という哲学に共感している。死を100%悲しいものともとらえていない。ただ「残された者のエゴ」という角度にはなかなか考えが及ばなかったなー。新しい刺激を受けた感じ(まだまだ思考のレベルだけれど頷ける)。

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昨晩から実家。終日小雨。夕飯なに食べる?との母の問いに、「(やきそばの麺とおいしそうな椎茸があるので)鉄板焼きか、(そろそろ恋しい)お鍋」と答えたら、すぐに話がまとまった。まだ白菜の収穫には早いので菜っ葉は春菊と青梗菜のみ、ここ半年ほど肉をあまり食べたくない体になっているのでチルド室に眠っているカワハギ、根菜色々、きのこ類、鍋には欠かせない豆腐としらたきなどの踊る、今年初のお鍋となりました。近年、わたしは内臓が弱っているのか、どんな鍋を食べても、「スープがいちばん美味」と思ってしまう。今夜も具材を残しスープだけ土鍋の底までさらってしまった。生姜の効いた、塩味スープ。ホントおいしいのだから。

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