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この前からちょっと調子のすぐれない感じがあって、本日、「あっ、原因は」の思いに至る。波動がどよんと重くなっているのだろう。さらにそのどよんの原因は、今を生きていないから。「すべては波動から」という考えにわたしは確信をもっているのだけれど、そうか、灯台下暗しであった。(過去のわたしだったら、例えば「仕事のストレスだ」「~な悩みのせい」などなどと、現実世界との具体的なかかわりに不調の種を探したただろう。今もその傾向はある。けれど、それはね、たぶん“きっかけ”に過ぎないのだな)。そうそう、安田隆さんの技法では、ちょちょちょいと自分の波動をやりくりできるという……。



今日は I さんとハイキングに行く予定だったのだけど
待ち合わせ時刻にはしとしと、しばらく後にはどしゃ降りの雨。
喫茶店&軒下のぶらぶらデートに変更となる。
帰り際には、おはぎ弁当(手作りのおはぎ三種と箸休めの品)と
栗の渋皮煮(これも彼女の手作り。ビン詰めにして)をいただく。
まこと、ありがたい。

 
 しばらく前、
 ドミニック・ローホーさんの部屋を紹介した雑誌を購入。  

 ときどき、うっとりと、パリのアパートメント
 ―たった12平方mの屋根裏部屋―の写真を眺め、
 自分にもこんな小さくていとおしい生活が出来るかしら?
 と楽しい思案をしている。





宮本亜門さんの沖縄のお家がテレビで少し紹介されていた。うー。自宅のリビングからあの海を眺められるなんて・・・。ところでわたしが一番「およよ」と思ったのは、亜門さんがこのお家を建てて11年になると話されていたこと。かつてわたしが沖縄を頻繁に訪問していたころ、本島の建築家の方と知り合いになり、なにかの折、「ここが亜門さんのお家」とまだ建て始めたばかりの現場に立ち寄ってくれたのだ。あのころから11年か。沖縄は遠いと思わぬが、沖縄通いをしていた自分が遠く思える。

とーとつですが、この夏、なぜだか草むしりをしているときに、「たとえば殺人事件が起こったとして、重要なのは、“被害者の死を悼む者が、加害者を許すこと”なのでは」という考えがしばしば浮かんだ。(まあ、殆んど神業だよね*)。実はわたし、加害者を罰するなんてことには興味がない。だって事件を起こすこと自体、加害者にとって誰とも分かち合えない苦しみだと思うから。

ああ、そうそう。とーとつの話を書くきっかけを思い出した。

わたしのニュースの情報源は主に「たまたま流れてくるFMラジオ」なのだけど、先日から社会的立場の高い人の不正事件を耳にすることが続いた。で、こういうとき思うのだ。「汚職や、倒産、えとせとら。こういうのが続いたときの『大変な世の中ですなぁ』という空気って嫌だなぁ。むしろ膿を出す、好機なのにねぇ」。すでに過去のことである汚職や倒産などにネガティブな意識を向けるのは(情報を受ける者にとって)ただでさえ暴走しやすいエゴに栄養を与えるようなものではないの?

ごーいんなようですが、殺人の話も汚職の話も、ある点では、わたしのなかでは同じなのである。



*少しでも「そこに近づく」だけでも、大きな価値があると思う。憎しみに焦点をあてない、かといって自分を誤魔化しているわけでもない、という状態にちょっとでもちょっとでも持っていく努力というか・・・。


ペパル氏のすばらしい点は
(いっぱいあるだろうから、特に「おっ!」と思った点を挙げる)

(精神世界を学び実践しようとしている人の陥りやすい)
「これこそが重要なのだ」という考えに、自分は溺れやすい

とはっきり自覚しているところ。

う~ん。やられた。

その筋の本にはたいてい
「本当の自分」を尊ぶことがもっとも重要などと書いてあるけれど

彼はそれすらも超えたものを見ているのだな。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・


わたしは(たましいの哲学街道を歩いているゆえ)

ブログの10/14付にも記したとおり

「意識のあり方に増長したところがあった」し

今も「消えることが不可能と思えるくらい」残っている。

そうか。

でも・・・。

どんなに最高の哲学と思えるものであっても

それを特別重要とみなすのは、これ、ひとつのとらわれなのだな。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・


落とし穴。のない道なんて、ない。

どんなすばらしい街道であっても落とし穴はあるのだろう。

そして落とし穴に落ちないテクニックなんてものもきっと存在せず

ただできるのは、そのことを

せめて自覚していることなのかなあ?






ハニーピーナッツ 木曜日

ヒプノセラピストのペパル氏の本を読んでいて、なーるほどー♪ と
昨夜思った。わたしなりにその話を展開すると→

人は心(マインド)とスピリット(たましい)から成っている。で、この2つは「足して100%」の関係があるため、心(マインド)が大きくなるとスピリット(たましい)が小さく、スピリット(たましい)が大きくなると心(マインド)が小さく、こんな仕組みをとっている。どう! どうよ? わたしにはいたく腑に落ちるわい。ここから先は余談なのだけど、心はつまり頭なのよね。頭が執着を生み、心が執着を生み、なのである。そして、それと「全くおかまいなし」のところにいるのが、スピリット(たましい)なのだ。

何年ぶりかにハニーピーナッツを食べたら、これが、はまる、はまる。ハニーピーナッツは朝にも昼にも、もちろん夜にも合う、平和な食べ物だ。(夜に豆を食べるな。という話もあるが)。今もうずうずし、このブログをアップしたら、冷蔵庫からハニーピーナッツの缶をとってこよ~う。

頭のところと、ぼおっと付かず離れずのなにか(エネルギー?)と、実践する体、トライアングルのようなもので成り立つ自分をこのごろ感じる。もちろん、いつもいつも感じるわけじゃなくて、たいがいは(仕事いやだなぁなどと)全身が頭の虜になっちゃっているのだけれど。これからも、このぼおっとしたなにかを、感じたいときは感じとれるような自分になりたい。そのためには実践する体と仲良くやっていくのが大切だなと思う。

ひなたぼっこ 水曜日

●この季節になると、南の窓がまことありがたい。お日様の力を身にしみて感じる。夏にはまずなかった感覚だ。私の場合、特に、頭にしみる、ときと、体にしみる、ときと、心にしみる、ときがある。もちろん、いずれも区別されようがないともいえるのだけれど、ことさらその部分が、しみるというか、消毒されている、チャージされている、などなどと実感するのだな。
●昼にFさんから連絡があり、急きょ、デートする。表向きの用件は「北海道直送のじゃがいもを頂く」。近所のひらみパン(という名前。大正時代の建物をリノベーションした、レストラン&カフェ&パン屋)で、日の暮れかかるまでおしゃべりを楽しむ。
●屋久島でのヘミシンク体験を書いた坂本さんの本を読み、忘れていた感覚を思い出す。山や森というものにわたしは魂の郷愁をもっているのだな~というような。

瞬間瞬間の自由 火曜日

●スーパーに行ったら、つい野菜を大量に(いつもは玉葱などは実家から貰ってくるのだが、つい……ね。実家では、旬の野菜はそのときどき収穫し、備蓄の効くものは年間分を貯蔵している)、おまけに箱アイスも3つ5百円につられ、購入。で、片道30分はかかる道のりを順調に帰るつもりが、途中、ぼーとしていたらしい、まったく見たことのない、初めての町名の看板のある場所にでてしまった。わたしは、意図せぬのに、平穏に、順調に、というサイクルからすぐに逸脱してしまう癖があるらしい。なじみの買い物帰りの道でさえも。その後、自転車のかごから落っこちそうなものものを片手で押さえ、ようようアパートに帰り着いた。
●「瞬間瞬間の自由を楽しむ」(*)、この言葉を生きることが、大きなカギになる!と、急に布団のなかでひらめいた。

*健康とは?と問われた㔟簱孝代さんが「瞬間の瞬間の自由を味わえるときですよね。こんなことしたら明日寝込むんじゃないかとも思わず、ハジけちゃえるとか。(略)自由っていうのは、ほんとこの場にいられるっていうことです。」とおっしゃたことに、たいへん影響を受けている。

ぱらぱら雨の月曜

●午前、派遣の面接など。その場で採用となる。午後、献血。新米を貰う。夕方、土曜日に面接をした「デパートの物産展の売り子」不採用の連絡が。うううむ。こんなに就労活動をしている自分がちょっと信じられない。
●献血は、4月、7月、9月、そして10月と、このごろよく行っているな~。本日は体重絶賛上昇中が証明された。(あいかわらず、低体温、低血圧ではあるが、以前ほど気にしなくなったし、献血できる数値をなんとかクリアしている)
●夏に買った「モロカミント」というお茶(緑茶にハーブがブレンドされている、モロッコ人の愛飲茶)、よーく出るので、お湯をついつい足して飲んでいる。なんたって一昨日いれたものがまだ水筒のなかに・・・。

平和な日曜

●ごちごちだなー。わたしの頭。だからブログの内容も左脳的。(どうごまかしたって、おっと、ごまかしているつもりはさらさらないけれど)生き方は細部にあらわれるのね。
●きのうのシチューにコーンと豆乳と青菜を加えたもの。お昼用に買った海鮮サラダ巻き寿司。胡瓜とラディッシュの塩もみ。ゴーヤとアミエビの炒め物(今年最後のゴーヤとなろう)。ひとりだと、手軽な夕飯だなぁ。
●本を読んでいたら朝方になってしまった。こんな夜更かししたのは久しぶり。(で、何冊かの本をめくりながらあらためて思ったのだけれど、わたしは「イメージ」するのが苦手)。

*カレーライスをイメージする、という手法があるとしよう。そこでカレーライスのお皿のまわりの景色まで見え、ああ、食べたいなぁという心境になる場合と、単独、カレーライスのお皿だけがぽんっと浮かんでいる映像を見る場合があるとしたら、前者が「イメージ」で、後者が「考えている」ということらしい。

「書くことに、頼らなくてもやっていけそうだ。」

しばらくブログをお休みしていた理由のひとつは、これである。

web日記を(こちらのサイトで)はじめたのは、たしか2003年。

生まれてはじめての体験で、とってもたのしかった。

以来ずっとたのしくやってきた。

そして、またそれは、わたしにとっての「依存」だったと思う。




日記を(つまりは、日々の行動や、頭のなかにあることを)書かなくなっていたあいだ

わたしの精神は良好な方向にすすんでいたとの自覚があるのだけれど

一因として、「日記を書かなかった」ことも、微々ながら、挙げられるかも。




たぶんね、わたしは

書くことで→意識がひっぱられる

というのが強い性質なんだと思う。

何回も公言してきたが、わたしは

「精神のマスターベーション」として日記を書いてきたから

そこでは一種の逃避、快楽を得られても

明日につながるようなものではなかったんだな。



「書くという作業は、現実に意識がフォーカスするのを加速させる。」

これが、ブログをお休みしていた一番の理由といえるだろう。

人間として生きているのだから、現実にフォーカスしてしまうのは仕方がない。

でも、フォーカスすることで、執着が生まれることを

(わたしの場合、「書く→現実にフォーカス→執着」という仕組み)

体感として知ってしまったのだな。

(知ってよかったとわたしは思っている)

そして、書くことは怖いなぁ、となったのである。




  



話はまるきり変わります。

きのう、いくつかのブログをアップしたあと、あらためて思った。

概念は、言葉だけでは、ぜったいに伝わらない。

言葉にすると、大切なものがそこで止まっちゃう気がする。
                    (*1、*2)

などなどと。

*1 いやいや、これは感じ方の問題で、本当に止まるわけじゃないのだ。たぶん。
*2「自分のなかで育てていることを言葉にすると~」、と言い直したほうがいいな。

 




今夜は久しぶりにホワイトシチューを食べた。

だんだんと、冬の味覚に。





    

だんだん連想ゲーム

◎先日、ドラマ『JIN‐仁』の最終話2回分を見た。さいごのさいごのところで、パラレルワールドの話がでてきて、なるへそへそ、こんなところにもでてくるのだな~。と、やや興奮。(単にタイムトリップしたのではないのかぁと)。いろんなところで、今後、ますますパラレルワールドが語られるだろう。
◎ところで、未来も過去も現在も同時に存在し、(「時間という概念をもった瞬間に、時間が生まれる」と言い切る方もいる)、かつ、パラレルワールドをわたしたちは(それとは知らず)生きているの・・・? ホントに、この世は一瞬あるのみ!
◎余談。前に初期仏教のお坊さんの本をぱらぱらと読んでいて、「もしかして、悟る、とは、これを体験すること?」との考えが浮かんだことがある。→すべては、消滅の繰り返し。音も、映像も、匂いも、光よりも早く、絶えず現れ、絶えず消滅している。そしてまた物質と思われているものも、同じように現れ、消滅している。すべてが、現れ、消滅し、現れ、消滅し、……。だから、例えば、音と耳が同時に現れると、「聞こえる」ということが生まれ、映像と目が同時に現れると、「見える」ということが生まれ、匂いと鼻が同時に存在すると、「匂う」ということが生まれる。→たしかこんなような内容だったと記憶するが、これを読みながら、わたしは思ったのさ。「では、なにもない、すべてが滅の状態にいる世界を、感じとることが、“悟り”なの?」。わたしたちは普段、「現」と「現」の合わさった奇跡の瞬間しか(瞬間の数珠つなぎしか)自覚がなくて、でも、きっと、「滅」と「滅」の、もうひとつの奇跡があるのだろうな。


「この世は、常識なんてものに縛られているから、たいへんなのね~」と

とても優雅な気分で心がおしゃべりしていたころが、いく月かあったのだけど、

それも落ち着き久しくなりかけた今年の秋である。



まあ、自分のなかにいろんな変化があったと思うのだけど、このごろは

(理想の自分と現実の自分にはまだまだ大きな違いがあるというのに)

どこか意識のあり方に増長したところがあったのだろう。

 


わたしの「大切だと思う」話をすることが、相手にとって必要とは限らない。

閉じないで、相手を尊重し、やっていくって、どういうこと?




ドーナツビルの3階で下書きした、今月初め

古い友人あての手紙を一部抜粋


 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

過日の“現実は自分で作っている”という話、○さんに思いやりのない(ように見える)返信を2度続けてしまったな、と、思ってました(ます)。

この点(○さんとのやりとりに限らず、そのほか色々な面で)、今の、そしてこれからのわたしの課題だなと、身にしみて感じているの。

しばらく前のわたしだったら、一生懸命相手の心を軽くするような言葉(おこがましくも「励ましの」言葉)を探して、伝えようとしていただろうなー。(たとえ、それがひとりよがりであっても)。それしか方法を知らなかったし。人間社会って、そういうコミュニケーションで成り立っている面が大きいと思うし。

でも、本当に大切なのは、もっと別のことなんじゃないか―と思い始めています。

以下、こういう話に興味のない人にはまったく受け付けられない類のことだろうし、わあわあと声を大きくして言うべきことでもないので、ふ~ん、あんたはそう思っているのか、程度で読んでくれればと思います。


①現実はただの経験に過ぎない。経験に良いも悪いもない。
 (良い悪いは、しみついた価値観などから、人間の心が勝手にジャッジしていること)

②大切なのは、その現実に対して、自分がどういう心の態度をとるか、どういう行動をとるか。

③「経験に良いも悪いもない」とはいえ、その現実に対して心地のよさを感じないのならば、その現実を変えるよう試みるか、もしくは試みても現実を変えられないならば、(あるいは試みることをしない・できないのならば、せめて)、その現実から物理的に離れ、それにより心理的にも離れる道をひらく。

④補足するなら、どんな経験も必要あってこそ、起こっている。



7月後半~9月、久しぶりに社会に出て、「楽しい」とか「いろいろ大変だな」とか「出会う人たちは、わたしの鏡だ」と、ほんと実感した。特に今までにはない色合いで「鏡だ」と感じたな。(それは現在のわたしとは限らず、過去のわたしであったり)

現実に踊らされ、心がすぐに動いちゃうし、特に困ったこと、しんどいことがあると、「現実はただの経験だ」なんて思えず、現実にひきこまれそうになったりしたけどね。



「現実は360度の映像。感じているのは自分のなかだけ」

仏教で「空」という表現があるでしょ。そのことは、いろんな人がそれぞれの言い方であらわしているけれど、ある人はそれをこんな(↑)ふうに言っていて、わたしは「なるほどな」と思っています。

 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・


ああー。この手紙、わたし自身のために書いたのだろうなぁ。

背伸びせず、ゆるゆると日常生活などをつづります

はえともみ

Author:はえともみ
 
万の風になって、生きる。

ちちんぷいぷい~。
(HSPの自覚あり)
「うつと仲良く! ひきこもりだっていいじゃない」と
開き直って生きてたら
元気になってきました。

→ 近年は、老母の観察メモの
(&それに伴う自身の変化など)
色合いが濃くなっております。
・・・ま、長い人生の一コマですな。

徒然な日々も、留まることはない。
すべてがいとおしい。だから書く?

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