ともみ@ピクニック

11月20日(土)

午後の起床。j-waveを聞き、平和な気分。日が暮れてから、突如「電器屋へ行かねば」と思い立ち、郊外まで40分ほど自転車きこきこ。■過日の帰省の折「今月でエコポイントが~。T(村の電器屋)に一緒に行ってテレビを選んで」と母から何度も誘われ、(居間のテレビはすでに買い換えており、寝室のテレビはまだ先でもいいと前に言っていたのに、「お急ぎください。エコポイントが~」との庶民を煽る宣伝に母もはまってしまったのである)、しかし出掛ける気力のなかったわたしは「だってTで買うと高いもん」を言い訳に渋っていたのである。■これいいかもな。これにしよう。と、決断に至った商品は13万円ちょっと。しかしだよ、手持ちのお金が少し足りない…。出直しと相成った。■この大型電器屋のポイントカードの終了を知ってはいたが、今度はケイタイでポイントを貯めるとはねぇ…。ああ、面倒くさい。店の人に説明を受け、やっとやっと登録を済ませる。(どう考えてもこれは「客サービス」ではないな。店の都合である。そしてそれにのせられる消費者。わたしもその一人。これは時代に巻き込まれるという一例であるが、ほんと、時代にまきこまれないと、現代的サービスを受けられない世の中なのね)。電球を2つ買って、帰宅。

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行き詰まっている。この現状を省みるに、「逃げ」が足りないのではないか?と思う。わたしの「逃げ」はまだまだ力足らず。世間体とか常識とか情にひっぱられ、ちっとも逃げきれていないのだ。正当法で生きるのが無理とふしぶし感じているのだから、とことん逃げる勇気を持てよ!自分。

ほとんどの事(できごとや人間関係)に違和感と過剰な負担を感じ、その陰で「自分のせいではない。自分はわるくない」と思っているふしが大いにある、わたし。(時間が経てば、その間違いを思い出すことも偶にあるのだが)。人生を開けないわけである。

「苦→楽→苦→楽ですよね」といってくれる人がいたが、(これは世間的には良識であろうし、わたし自身もその良識を捨てきれてはいないけれど)、コレ、違うんだよな~という自分も生まれている。できるなら、どんどんこの先「違うんだよな~」を確信できる自分に近づきたい。

過日、Kさんに、「(某書は)わたしが意識にも上らぬところですでに知っていたことが書いてある。だから、YESと叫ぶあなたの気持ちが分る」というような手紙を出したけれど、これ、嘘である。いや、書いているときは確かにそう思ったし、今もそう思うけれど、現実世界にあらわれる<わたし>はまるで違う生きものだ。その点で大いに嘘つき。思考の世界で疑いなく信じられても、心でも時々思い出したつもりになれても、生きる態度としてはまるで反転している。まるで知らぬに等しい。あらゆることを逆さに生きている。二つの次元に生きているようだ。

自分で自分に「死んでしまえ」とののしっている毎日であろうと、完全に絶望はしない。二元だっていいではないか。二元の振り子があるということは、可能性を秘めている。(ちなみに、YESと叫ぶ先にあるものと一体になれば、二元はなくなるのだろう)。


・・・・・最近心に浮かんだことのうち、すぐに思い出せるものをメモしておく。

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ふー

ひたひたと否定的な態度に満たされるこのブログである。続けていると社会や友人知人との膜がさらに厚くなるかも。▼たまに見かける「みんなを元気にするために書いてます」という姿勢のネット発言はすばらしいと思う。そういう表明があってもなくても、その姿勢はほんとうにすばらしい。(嫌味ではない。ここまで…どこまで?…来たら、本音あるのみ)。▼「否定的な言葉をおもてにだす」と、それが振動してしまうというのが、まだわたしにはしっかりとわからなくて、「それを(感情を。感情未満のサインを)すでに抱いてしまった」のだから、それを言語化してもかまわぬだろうと、たかを括っているのである。でもいずれは「その域に行きたい」(感情も自分で作っているのだろう、多くは)とは思っている。▼(最近のわたしの日本語はおかしいと、たびたび自覚)。▼稀に「うつ」の人のブログを漂泊し時間をまぎらせることあるけれど、たいがいは安堵の波に溺れるだけである。最近はそういう(この日記も同じである。否定的なものを垂流している)内容に嫌悪を覚え、開いた(苦しさにまぎれ開いてしまう)瞬間気付き、すぐに閉じてしまう。しかしなー、どうしてか、「うつ」でありながら、「うつ」の内容を表しながら、それを読んでもちっとも不快ではない、という人のブログもある。両者には明確な違いがあるのかもしれないが、まだよくわからない。▼ときどき身につまされ、痛い痛いとなることもあるけれど、(←自分の欠点があらわれて)、やっぱり、精神的な健康を得た人の文章(人生の環境がいいというのとイコールとは限らない。そうである人もあるし、世間的な括りでいえば大変な環境の人もいる)を読むことで、心のなかがほっとする。▼人様のネットの文章などを読むと、「なんでそんなことを気にするの? 怒るの?」と不思議になること、たびたび。それくらい笑ってみてみろよ~とか、悪気はないのだろうから流してやれよ~とか、いいじゃんOKだべ~と、思うこと、たびたび。ほほー、「内に抱えている」と思い込んでいるわたしとは真反対の人格があらわれてくる。▼わたしよ、わたしのなかに籠っているのが辛いのかい? 実は誰かとなにかとコミュニケートしたいと思っているのかい?(コミュニケートを日本語に…例えば「交流」…しようかと思ったが、今の段階ではコミュニケートのほうがしっくりくる)。▼これは言い訳なのだけれども、このブログを続けることは、精神的な病の記録である。


このブログ、いつの間にやら「遅れ遅れ」があたりまえとなってしまったが、日付から近い日に書いてそのまま眠っていて半月ほど経ってからアップのものもあるし、半月も前のことをぼそぼそ思い出し綴りやっとアップのこともある。


読んでくれて、ありがとう。

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11月19日(金)

お昼前に起きる。ケイタイの電源いれると、「派遣会社から仕事の紹介」の着信が。なんというタイミング。実はきのう、ネットであれこれ、アルバイト求人を見ていたのだ。▼喉元過ぎて熱さ忘れたわけじゃなく、「フルタイムの仕事をする体力&精神力のない、今の自分。人付合いを極度に恐れる、今の自分」を認めたうえでいうけれど、わたしは「仕事そのもの」を嫌っているわけではないのだ、たぶん。(そのことは先ごろの仕事期間中も気づいてはいた)。(仕事でまいるというよりは、「能力がない」ということを病的なほど気にし過ぎるので、そんな自分(自己批判の自分)に疲れるわけだ)。▼自由時間がありすぎて鬱が増すのは以前からのお約束であり、ある程度の縛りがあったほうが、生活リズムも整う。それになんといっても収入は「ある種の不安を和らげる」のに効果がある。結局、行きつくところは「凡人のわたし」なのであるが、わたしはそのことを否定的にはとらえていない。▼仕事を探そうかという気持ちになった翌日に、仕事の紹介。ふむ。(先ごろの仕事の最終日、今後のお仕事を辞退する旨伝えていたはずなんだけど…。なぜ電話がかかる?)。ありがたい話ではあったが、「週5日のフルタイム。短期といえど来春の4月末までの仕事」は、今のわたしにはやはりハードルが高く思え、また仕事の内容を含め、ちょっとまだ色んな意味でトラウマがあり、お断りの電話をいれたのだった。

*仕事を探そうという気持ちには、過去長きにわたる無職期間も、ときどき発生していたのだ。けれど、求人誌をみたり、ネットで探したり、そこまでは「やれ」ても、たいていはそれ止まり。やりたい・やれそうな仕事がないと溜め息を深める、(←ニートの言い訳のようだ。わたしは年齢的にニートの括りに入らないが、実態は同じ)、あるいは稀に興味ある求人を見つけても、すぐに応募するのが怖く、時間の経過とともに気力も萎え、結局は行動に移さないのであった(←やっぱりニートの言い訳のよう)。

*なお、ニートという言葉、わたし以外に焦点をあてたときは比較的寛容な意味をもつが、「ニートのわたし」としたら、たちまち自虐的なものとなる。

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もうひとつ

●ひきこもりDay。
●積極的な消費をしなければ!と思うのです。ここ近年を振り返るに「収入がある→当面の生活費(家賃など)に充てよう」道を貫くあまり、楽しいことにお金を使うのがこわい、ケチケチ道を歩んでいるのだね。あれやこれ(ホーロー鍋を買いたいな、ミニ旅行しようか)、いくつか案はもっていたはずなのに、また、どんどん気持ちが保守になっているなぁ。(←お金を減らさなければ、その分、ひきこもり生活ができるという発想)。それって結局、自分の首をしめているのかもなぁ。お金を使うべし。(食費だけはよく使っている)。消えてなくなるものこそにお金を使うのがよいのかもしれないし、モノの購入で日々の生活が楽しくなるのならそれも素晴らしいお金の使い方だろう。
●(略、略、略)。しかし、消費も労働も、一度は自分から嫌気がさした世界。ある程度の精神的健康を保つためとはいえ、「再び、同じ道をゆく」のでは、社会からはみ出した意味がないようにも思える。(ならば月給とりを続けていればよかったわけで)。「逃げろ、逃げろ」。逃げるを大切にし(必要な分は逃げ)、かつ、心から安心できる価値観を暮らしにとりいれ、生きていくのがよいのか?


(追記)安定した生活をするのが「こわい」という思いもある。みずから捨てた世界ではないか。同じことを繰り返すのかと。・・・・・いや、表面は同じでも、(自分にしか分からない)大切なものをそっと育てていけるなら、それもいいかも。

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11月18日(木)

昨夜は過食してしまったので、ごはんを抜いて、午後から歯医者。「根っこを治療してもらった患部がいまだすっきりしない」や「頭痛やリンパのはれ」のことは云わず。先生を信頼していないわけではない。云ったからといって、どうにもならないことを云うのに、疲れただけだ。(つまりは面倒だと)。本日の治療メモ→土台入れ&型どり、左上歯周ポケットのそうじ。帰り、東京ストアーに寄り、チキンフライ、春巻き、ポテトサラダなど買ってしまう。最近、油っぽいものが食べたくて仕方ない。

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11月17日(水)

●くよくよが活躍するので、夕方まで睡眠界に逃げる。起きてほどなく、くよくよを丸めこみ親の家を出発。・・・外には出たくなく、本を読む気もなく、ネットも接続悪く、障子の張り替えもしたくなく(家の仕事は山盛り)、この一週間「寝る→食べる&テレビ見る→寝る」の繰り返しだったのだから、くよくよが勢いづくのも当たり前だ(more*)。
●母親の作る、体にやさしく栄養のある料理をたべるのが苦痛で、わざと夕飯を抜いた。案の定、母はあれこれと総菜をもたせてくれたけれど、わたしは駅の二階のスーパーで色々買いこみ、夜の9時ごろアパートに到着。ひとり、ケイタイの小さなテレビを見ながらジャンクフード(餃子とカップ麺とマウイチップス)をとる時間に、安堵をおぼえた。(こんなことに安堵するなんて、自分はみにくい人間だなぁ)(more**)。
●どんなに愛し慈しんでくれても、それと、「本質を理解してくれる」のは別の話である――というようなことをある方が仰っており、すごく頷く。わたしと家族の(わたしが一方的に抱えていると思ってしまう)問題も、こうとらえれば、かなりすっきりする。

(more*)「ないない」尽くし。努力したくない、無理したくない、頑張りたくない。これじゃあ毎日が苦しいはずだ。うつを隠れみのにしている限り、巨大な石に押しつぶされたような精神状態になるのは、あたりまえ。やっぱり「うつ」は病気なのではなく、人としての質のもんだいなのではないかと、自分をみて思う。
(more**)このへんの仕組みはよくわからんのだが、誰にも遠慮なくジャンクフードを食べる時間は(アパートへの移動ができたという喜びも加算して)、この数日で「雪だるまのように大きくなっていた」抑うつ感を溶いた。(ジャンクフードは一緒の麻薬ですな)。

余談。わたしの親となった母は可哀想だなあと、これまで何十回何百回も思った。あふれるほど愛してくれる母を、わたしは傷つけてばかりだ。(感傷で書いているのではない、これも単なる事実の記載…書いて楽になるわけでないけれど。ヒトが読めば「甘えている」の一言だろう)。

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11月16日(火)

●午後起きたら、リクエストどおり、「さつまいもご飯」が炊きあがっていた。
●お風呂も済ませ、荷造りもして、いつもより一時間以上早く夕飯を作ってもらったというのに、結局、アパートに戻るのを断念。外は寒そうだし、だるいし、こたつを出る元気がない。要するに「怠け虫」にやられてしまったのである。
●テレビ『フリーター、家を買う。』と『ギルティ悪魔と契約した女』を見る。不調であっても、テレビドラマを観れるとは、わたしも都合のいい生きものだよ。

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11月15日(月)

●先週から精神的な下降体勢に入っているのは感じていたが、いよいよ危ない。
●人と会うのに病的な負担を感じるのは、突きつめば「自分に自信がない」からである。「このごろは何やっているの?」「これまでこの人生で何を築いてきたの?」「こんなことでは老後が大変だよ」と、有言無言で投げられてきた(もちろんそのなかにはわたしの妄想的なものもあろう)これまでの人間関係から生じたトラウマも大きい。心を病んでいるのを知られるのが恥ずかしい、「わたしはわたし」だと言う勇気がない、まわりの人々の価値観にがんじがらめになっている、何にでも過度の心的負担を抱く、などなどの自分。
●あと、そうそう、無理をして人と一緒にいると、そのあと<心身の調子が悪くなったのは、無理して会ったからだ。→相手のせいだ>と、つい思ってしがち。このごろは、こんなカラクリに陥ってしまうなら、とことん一人でいたほうがいいのでは?と思うようになった。
●難点なのは、「会いたい」のではなく「会わなければいけない」、「やりたい」のではなく「やらなければいけない」という強迫観念で、ほぼ毎日の自分が満たされているということ。(このへんの一例は、先日も「遠ざかりたいのに遠ざかれない」話として挙げたな)。人格が自分のなかでせめぎ合いしているとでもいえようか・・・。

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11月14日(日)

過日、グラパラリーフという名前の「葉っぱ」がデパートで高級食材として売られているのを見て、「こりゃ、実家にあるアレでは?」と思い、ネットで調べたら、やっぱりアレであった。名前を初めて知ったぞ。おまけに意外な栄養価を秘めているのね(参考)。この植物、大きくなるのが早く、たいへん繁殖力も強い。多肉の葉っぱを土の上に置いておいたら、どんどん子どもができる。おまけにかわいい。というわけで、豆鉢や貝殻に植えて遊んだりもしていたのだけれど、へぇ~、食べられるとは…。で、本日、食べてみましたぞ。「おいしい」という感想にはほど遠い。でもヨーグルトにいれると合うかも。それにしても、なんでも商売にする時代なのだなぁ。

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11月13日(土)

●午後から母は近所の人たちと一泊温泉旅行に出かけた。(この数年、この恒例行事を休んでいたわけだが、そのたびに「どうして行かない?」とあちこちから言われるのが母は嫌だったらしい。ところで、これは愚痴なのだけれど、この温泉旅行や新年会などの費用は、月々の集金からまかなわれる。不参加の家庭には「手土産」が渡されるだけ。つまりは強制出費なのですな)。
●家族といえど、(特に母はわたしが唯一我がままな態度を出せる相手なのに)、誰か側にいるのは気が張る。一人になれるのは、嬉しい。数日前に「温泉行き」の話を聞いて、この日をわくわく楽しみにしていた。いったいどれだけのイヤな人間なのだ、わたしは。(→*)
●しかし、日が暮れてから、「この広い家で一人夜を過ごす母のさみしさ」を想像できそうな気持ちもうまれた。

*これは十分に病気の範囲であろう。身のまわりにやってくるあらゆること(特に人間関係)に、過剰な負担を感じるのだから。さかのぼれば小学生時代から現在にいたるまで、この病のためにどれだけの人(友人、恋愛感情をもってくれる異性、家族など)を傷つけてきたか。なにも感傷的に書いているのではない、ただ事実を、たんたんとわたしは書いているつもりである。

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11月12日(金)

●先週の幸福感は、自分でも「異様」と思えるものだった。あの幸福感を言葉で説明すれば、ヒトによっては「躁状態ですね」と言うかもしれない。しかし、わたしのなかでは説明がつく。あれは躁ではなく、「反動の大きさ」のあらわれなのだと。「抑圧的な状態から<解放>された」と感じる、精神の反動の大きさからきた「幸福感」に過ぎない。いわば幻のようなもの。
●それだけ肉体的にも精神的にも危ないところに、一月半ほどいたのだと思う。ただここで書き添えておきたいのは、労働の内容にも(客観的にいえば、そうとう酷いわけであるが)、対人相手にも、否を述べるほどのことはなかったのだ。「肉体的にも精神的にも危ないところに行ってしまう」自分自身にもんだいの種があったのだ。

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11月11日(木)

●このごろ、時たま、ひょうが降る。しかし、短い秋と入れ替えにガクンと冬がやってきた先月の体験があるので、最近は「寒い」という気があまりせん。寒さにカラダが慣れたのね。
●先の労働期間中、あまりにも様々しんどかったせいもあろう、たとえば、「ひたすらデーター入力しているのは、入力していることに意味があるのではなく、この作業を通して“わたしが体験すべき”何かがあるからだろう」とか、「この人がわたしの前にあらわれているのは、なにかの理由があってだろう」というようなことを、その(作業や人間接触の)進行形の時間がすぎたあと、一人になったとき、ふと思うことがときどきあった。けれど、<そこまで>がわたしのなかに起こったのは事実でも、それに繋がる具体的な答えはなにも見つかっていないように感じる。そして無職に戻り一週間、事象を事象のままにとらえない頭の回路も、だんだん薄れていくなぁ。(またいつか回路を復活させればいいか)。

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11月10日(水)

そんなに嫌なら、そこから「遠ざかれば」いい。という考え方を最近はもつようにもなったけれど、なかなか、どうして・・・。様々なしがらみから、逆に今度は「遠ざかって」いる事実への、負い目の感情がわいてくるのを抑えるのは難しく、結局は「遠ざかり」きれないわけで・・・。それをニンゲンゆえの悩みなんだよね、そういうものさと、割り切りぶってみたって何の解決にもならず・・・。はてはてはてなのである。▼わたしのよろしくないところの一つは、右か左か、白か黒か、正か誤か、心のどこかで何にでも測りをもってしまう傾向が大きいことである。中庸が少ない。まあ、ぼちぼちとか、しょうがないよねとかと自分の苦手なものをとらえられない。苦手なものは徹底して苦手意識が走ってしまう。(短期決戦では「ぼちぼち」や「しょうがないよね」でやり過ごしても、のちにたいがい、そのことが自分に牙をむく)。▼父の命日に、毎月、坊さん家族がやってくる。(奥さんは「こちらに伺うのが楽しみなんです」と。まあ、歓待の接客をしているからな)。お経をあげてもらうのはいい。お布施もいい。わざわざ用意する茶菓子もいいだろう。しかし、法要あとに、長々とお喋りタイムが続くのは、あー、勘弁してほしい。おまけに、(奥さんは=わたしのさらっとした経歴を知り=わたしに好意的興味をお持ちの様子が以前から存分にある)、今日はわたしが久しぶりに月の法事に参加したもので、根ほり葉ほりの質問にあってしまった。これ以上続けば失神してしまうのではないか?と思うほどの苦しい時間であった。(←ここまでの感情に至るのは、わたしの病であろう)。ちょっと話の切りを見つけたところで中座。はじめは「中座で気持ちを落ち着かせよう」程度であったが、結局は坊さんたちのいる座敷に戻るのがあまりにしんどく、そのまま別室に隠れて、お見送りもせず、という大変失礼な態度をとってしまった。(これまでは、内心「しんどいな」と思っても、表面上はちゃんと接待し、お見送りまでしていたのになぁ。ふう。わたしは昭和の田舎の子なので、お客様にはちゃんと家の外まで出てお見送りするくらいのマナーがある)。▼これまでも、子育ての話やその他「わたしにとってはどうでもいい」話題ばかりの、法要のあとのお喋りタイムは苦痛を感じており、(←わたしの内的世界の狭さの露呈だな。どうでもいい話題にだって付き合えるほどの度量をもつのが、ほんとうは良いのだろう。いや、「どうでもいい」と感じるわたし自身がもんだい。「どうでもいいとは思わない」才能を、なぜ持てぬ? ニンゲン世界は(特に田舎では)ほとんど「これ」で成り立っているのだぞ)、あー、もう月の法要には参加せん。(本心いえば、年ごとの法要だって大きな精神的負担なのだ。お経をあげてもらうのはいい。でもその前の準備とそのあとの接待時間がたいへん苦痛)。と何遍、何十遍、心に誓ったことか。しかし、話は冒頭に戻るけれど、それ(=遠ざかる。この場合は「月の法要に参加せん」)を続けていると、<様々なしがらみから、逆に今度は「遠ざかって」いる事実への、負い目の感情がわいてくる>のだ。▼理性では、正解が思いつく。「遠ざかることができないのならば、自分を変える」しかないのですよ。と。ひぃ、はぁ、ふぅ。ひぃ、はぁ、ふぅ。まだまだ、そこに追いつけない(追いつこうともしていない)わたし。

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11月9日(火)

午前中がんばって布団から出て、(すでに早起きが危なくなっている)、雨の止み間をねらい、ぴゅうんっと外出。DVDの返却など、用事をすます。えええんっ。この日記で何十回も書いているが、わたし、なにをするもドタバタだ。余裕あったはずなのに、いつしかギリギリ。本日も外出先からもどり、遅い朝昼食を食べ、PCでたまった日記を書いていたら「今日は帰省したくないなぁ」気分に。ズンズンと時間が過ぎてゆく。しか~し、きのうは母に「明日の明るいうちには到着するようにするから」と帰省を延ばす電話をした手前があるしなぁ。結局、乗り換えのいい電車を見送ってしまった挙句、夕方になり大慌てでアパートを出る。駅で10分ほど時間があったのでロールケーキなどを土産に選んだはいいが、レジで時間がかかる。なんとか改札を出たら、今度は電車がいつもと違ったホームに停まっており、数十メートルを猛烈ダッシュ。大荷物抱え、はあ、はあ、はあ。これ、すべて自業自得ですな。何をするのも行きあたりばったり。余裕をもってアパートを出ていればね、それに「あの時間の電車は遠いホームに停まる」のを前も経験済みではないか。その後は、すっかり日の暮れたなか、乗り換えのT駅の冷たい雨風吹くホームにて一時間近くローカル列車を待つことに。プルプル寒い。昼間の元気はどこへ。滑稽な人生を演じている自分よ。

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