ともみ@ピクニック

9月25日(土)

●イギリスの庭ガイドブックに紹介されたお宅をテレビを見る。・・・可愛いハマナスの花咲く海岸通りを、7月は毎朝のように通勤したっけ。今更ながらの話のように思われるかもしれないが、わたしはあの朝の時間、とても幸せを実感していたのだ。・・・本日のテレビでハマナスは(別名「ローズヒップ」である)日本原産なのだと知った。へぇ~。・・・特に印象に残った話→イギリスの植物ハンター(若いお兄ちゃん)が南米で誘拐され、あと5時間後には殺されると聞かされたとき、彼がしたのは、ガーデニングの計画(図)をつくることだった。(彼がしたというよりは、彼の身に降りおりた意思のように、わたしには思えた)。ちなみに彼が故郷に持ちかえった種は、まだこの地上では確認されていない(いわゆる新種だな)植物だった。
●お風呂に入る前、ちらっと『トップランナー』を見たら、今敏さん(若くして亡くなられたアニメ監督らしい)の作品の登場人物がこんなことを喋っていた(正確を逸するかもしれんが、こんなようなこと)。→「居場所のないって現実、それが俺のほんとうの居場所なんだ」。わお~っ。ほほほっ、ビンゴの答えに思えるぞ。すべてに通じる話ではないか?

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9月24日(金)

●仕事のあと、実家へ。晩ご飯を食べながら『金スマ』を見る。ゲゲゲ夫妻の特集であった。水木しげる先生、素敵さ全開。なんたって、お好きな言葉は?と聞かれ、鼻くそほじるんだもんねー。あれやこれ、詳しいことは忘れたが、大らかなのが一番なのよと全身で教えてくれる(鼻くそは関係なく)、水木先生、たまらん。好き。大好き。わたしの生き神様だ。(ちなみに、奥様はどんな人?と聞かれ、「生まれてきたから生きているような人間」って答えたらしい。これ以上の答えはあるまい!)。
●気持ちも体も比較的元気である。けれど、立ち位置を一歩変えたら、うつの崖を転げ落ちてしまいそうな不安をもっていることにも、うっすらと気付いている。

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追記

引きこもりが辛いのは、社会(人)と断絶しているからでなく

「自分と近く」なり過ぎるからなんだ、と気付いた。

要は、気持ちの風通しのモンダイか。

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9月23日(木)

●少し元気になっている自分がいるぞー。けれど、ここで、「ほらっ、社会と触れ合って、一般社会になじみある生活をおくるのこそが、いいのだよ」と単純な見解を下すのは、それまた誤魔化しの一歩なのだと忘れずにいよう。(手に入りやすい快楽・・・社会とのつながり感、収入を得ること、労働のご褒美として遊ぶこと・・・を得たからといって、いっときはラクになったつもりでも、それは根本の解決ではないだろう)。ま、だからといって、現状を嫌う必要はどこにもなく、今の環境を楽しむのもまた大切なのだろう。
●浮かれるのがよろしきこととは思わんが(浮かれるほど気分が緩んでいるわけじゃない、念のため)、「浮かれる」ほど心の輪郭を溶かす余裕は必要なんだと思う。
●秋分の日である。ひと晩で急に寒くなったなぁ。「そろそろ暖房を」と思うほど、底冷え感がある。今日は一日どこにも出掛けず。自分との距離が適度に保たれていれば、引きこもりも、いいもんだ。

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9月22日(水)

●初日の研修を無事終えた。わたしにはとても嬉しい一歩だ。そして業務とは全く関係ないのだが、ピンクリボン(乳がん検診を推進する運動)の研修も受けた。ふと、健康につき積極的で前向きな思いが浮かんだ。
●暮らしの立て直しといいましょうか、そんな方面のことを、漠然と、色々と考えている。(考え始めた)。リクリエーション部門としては、“クヨクヨ気分から逃げるため、アパートでは意味なくだらだらとパソコンに向かってしまう時間が多い”ため、それを打開するためにも!と、金沢に越して初めてレンタル屋さんの会員になる。
●ぱんぱかぱ~ん。借りたのは『天国の階段』である。「韓国ドラマよ、ここまで描くか。正気とは思えぬ意地の悪さに支配された人々。この酷さ、想像を絶するね」というのが、6話まで見たところの感想である。チェジュウの初恋相手の人だけが(わたしにとって)救いである。

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9月21日(火)

●お昼の高速バスで金沢へ。夕方の歯医者の予約があるからだ。
●あすから、お仕事。4年半ぶりの内勤仕事だ。「不安はあるけれど、今は今なのだから(その不安と一体になってはいけない)」と、この仕事が決まってから、自分のなかで反芻していたが、前日となった今も、やはりそれは同じだ。そして、久しぶりに「社会のなかにでる」という喜びも、ある。

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9月20日(月)

●近ごろ、たま~に、狂ったように「ゲェ~、ゲェ~、ゲゲゲのゲェェ~♪」とうたっている自分がいる。もちろん「普通の」声ではなくて、あの、なんとも愉快で恐ろしげな声をまねて。この夏、あの歌の元祖の歌手(お名前知らんが、ちんちくりんの小太りの、妖怪の世界から来たような雰囲気もあわせもつ、でも親しみ深い。かなりのご高齢だろう)がうたっている姿をテレビで見て、強烈なインパクトがわたしの心に刻まれたようだ。ふふふ。うたっていると、たのしい気分が近づいてくるようで、嬉しい。
●敬老の日、母になにもしてあげられなかったので、せめて「ビールを冷やす」という仕事をした。ちょっと自分でも驚きだが、この一週間、お酒を一滴も飲まなかったのだよ。「敬老の日のお祝」と称して、ビールを開けた。

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追記

「おおむね幸福な人生」だとっ。あほたれなこと書いたなあ。まるで幸福と不幸に「目盛り」をつけているみたいな表現だ。ひゅううっ。難病じゃない幸せ、スラムに生まれなかった幸せ、暴力と無縁に生きてきた、そんな、あれやこれやをおごり、どんぶり勘定しているからこそ、でてくる言葉だ。

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9月19日(日)

おおむね幸福な人生なのだと、自分では思っている。うつ的性格が深まっていることをのぞいては。家があり、温かいご飯を食べ、清潔な寝具で眠る。そう、ドラマチックな試練などなにも持っていないのだ。

しかし、苦しい。

昨今の一番の苦しみを告白すれば、「人づきあい」となるのだろう。

なんどもこのブログで書いてきたが、

ほんとーに人に会いたくない。顔を見たくないし、会話もしたくない。

人に会うという発想をするだけで、ものすごい疲労感が押し寄せる。

ありがちな見解を浮かべてみれば、「『人が嫌い』『人と会いたくない』という者に限って、実は人が恋しく、人に飢えている。なんらかのコンプレックスの裏返しから、人嫌いのお面をかぶっているだけ」となるけれど、はてなあ、深層心理は測れないが、とりあえず、わたし、心の表面では「人が恋しい」というのは、ないなあ。

しかし、「コンプレックスをもっている」というのは、あたっているかもしれない。

ここ数ヶ月、「まわりが(家族、親族が)消えちゃえばいいのに。そしたら自分は楽になる」という頭の声が非常に頻繁になっている。最近は、「まわりが消えちゃえ」ば、自分のモンダイはほとんどすべて解



*9月26日の深夜、ブログをあけてみたら、続きの原稿が消えていた。ひぇ~ 以下、ごにょごにょ続きの文章があったのだけれど・・・。週末はPCのない環境におり、ケイタイからブログを訂正した(たった3文字)際に、間違って消してしまったようだ。残念 

いや、消えてしまう前に読んでくれた方がいたことを感謝しよう
そうしよう

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9月18日(土)

●縁側で寝ころんで見る空が「秋だねぇ」と言っている。一日中ごろんとし、誰とも口をききたくないわたしだが、空には「そうですねー」と返事してみる。あほか、自分。この怠惰な日々のなか空を見上げていると、「今、目にしている景色だけで、いい。他になにもいらない」気分になるが、それは、社会と向き合いたくない逃避でもあるんだろうなあ。
●夜、ベトナム戦争を駆けまわった戦場カメラマンたちのラジオドラマを聞いていたら、甘美な気持ちがやってきた。どうも、わたしは、外国人として南ベトナムで暮らした人たちの物語が好きなようである。匂い立つ、汚さ。けれど、ねっとりと甘く。残酷で、官能的。いや、残酷だから官能的なのか。

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9月17日(金)

先日、今年初のサンマの塩焼きを食べた。(スーパーで「頭とはらわた」をとられた、一尾98円の)。「あまり美味しくないねぇ。脂ののりもいまいち」と言っていたら、後日、近所の魚屋で、全身まるまるのサンマを母は買ってきた。(一尾150円)。「うん、これは美味しい。やっぱりサンマの塩焼きは内臓ごとじゃないとね(苦味がたまらん)」と、褒めると、また母は翌日も、近所の魚屋からサンマを買ってきた。もちろん、まるまるの姿で。たしかに美味いが、今度は「2尾で450円」だと。食卓にお財布話を持ちこむのはまことに下品だとは思うが、普段百円レベルで悩ましい思いをしている我、「こんな高いサンマを食べるくらいなら、百円貰ったほうが嬉しい」と発言をして、老母を絶句させた。

どう考えても、自分が情けない。

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9月16日(木)

だるい。気持ちはさほどひどくないものの、体がどろんと重い。今週にはいり、(日曜は不調だったが)、月・火・水と、そこそこ調子良かったのになあ。きのう、生垣の剪定に体力を使ったためだろうか。ふう。

きのうの夜、なんだかものすごいこと、当たり前なんだけど、それに目を瞑っているからこそ、おのれのシンドさが在るんだよー、という類の、ある思いに包まれたのだけど、それが何だったのか・・・。(翌日は憶えていたのに、これを書いている今、忘れてしまった)。う~んっ、個々のモンダイのなかに入りこみ、モンダイと自分の区別ができなくなっている、モンダイ=自分とする癖があり、ゆえに苦しい、でも、モンダイは自分じゃないんだよ、自分を自分としてだけ見てみれば、ラクになるんじゃないの・・・ということだったような。◆こういうことは知識として知っていても、心の底から「YES」と、いつも言えるとは限らない。きのうは珍しく、その「YES」がやってきたんだろうなあ。これを持続できれば、たいがいのことに怯えず、明るい気持ちで過ごせると、そんな自信まである。

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9月15日(水)

▲ドリアンチップス。「カシューナッツの揚げものみたいな味だ」と姉はいったが、たしかに、そうね、遠からず、の感じ。わたしはクセのある、あの臭~いドリアンが好きなのだけど、お菓子になったそれは、たいへんマイルドであった。
▲甥っ子の作文を読む。上手くて驚いた。構成も、話の展開も、読みやすさも、二重マル。(←叔母のひいき目でなくね)。しかし、テクニックが際立っている分、「若人としての躍動感」が感じられなかったぞ。数年前まではもっと個性の輝いた文を書いていた気もする…。たぶん、この先、小論文なんてものを書くようになったら、「受験に十分通用する」文章を書くんだろうなあと予感させるが、それは「おもしろい」文章ではないのだろうなあ。これはわたしの学生時代にも当てはまる話だが、たいがいの人は学校教育のなかで、「書きたいこと」ではなく、「どう書けば、大人に(先生に)認められるか」を、頭の片隅で優先的に意識する癖が身についてしまうのである。それが国語教育にとり、いいことなのか、悪いことなのか、わたしにはよく分らない。

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9月14日(火)

批判はなにも生まない。のに、わたしは四六時中、ずっと心のなかで批判している。「あれが、ああだから、こうなのだ」とか、「それが、こうならば、ああなのに」とか。そして一番深い根は、エゴに支配された自分を、エゴに支配された自分が批判しつづけている、ということなのだろう。

先週あたりの日記で「さも理解を深めた」ふうに誤解を受けそうなことを書いたりもしたが、所詮、それらは「上っ面な知識」に過ぎない、ということは、自分がよーく、わかっている。(だからこそ、しんどい、しんどい、しんどい、と、何をしていてもエンドレスに心のなかでつぶやくという、対極の行為をしているわけで)。

「ワタシはダイエットも効かないほど、身体の代謝が悪くて。だから太っているんです」と言っている人に、生活の観測日記をつけさせたら、「代謝のせいではなくて、ただ単に、だらしない食欲が問題だった」という話を読んだことがあるが、まさに、わたしにも当てはまるかも。「ワタシは生まれ持った性質により、抑ウツ感が大きくて。だから、いつもだるいのです」と自分ではとらえているが、単に「生活態度が一番の問題」なのかもなー。(とにかく寝ることが好き、病的なまでに一人でいたい、運動嫌い、などなど)。

卵が先か、鶏が先か。なんて考えたら、永遠に抑ウツのなかなのである。(ウツだから、こういう心身態度になるのか。こういう心身態度だから、ウツになるのか。なんて謎を考えるのは、無意味なんだなー、きっと)。

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9月13日(月)

朝一番の高速バスで、実家へ。(こんな長い期間、アパートに滞在したのは久しぶり。少なくとも1年以上ぶりだな)。月曜の朝の道は混んでいるのね。(京都に行ったときも「あら、週末なのね。だからこんなに人がいるのか」とあとで気付いたが、今朝も、ちいさな渋滞に遭い、「あら、月曜なのね」と気付く)。おかげで、実家に行くための乗り継ぎ列車に乗り遅れた。(これまた毎度のじたばた。しかもほんの一呼吸分の遅れであった)。次の列車まで2時間あるなー。雨の外を散歩する気分ではないので(きのうからずっと起きており、体がしんどい)、駅でぼぉっとする。その後、ようやく乗ったローカル列車は、秋の車窓を映していた。田んぼの稲刈りも終わったねぇー。雨あがり、しっとり色気ある青空で。

*稲を干す「はぞ」の写真*

いつも2~3日ぶりに実家に戻るだけでも、部屋の雰囲気、庭の草木など、しっかりと時間の流れを感じるのだけれど、本日、2週間ぶりに戻ると、まるで季節がぽーんと飛んだ印象だ。エアコンは直り、トイレの水の修理がなされ、食卓も秋の食材にシフトしつつあり・・・。夜は、Tさんが新米を届けてくれる。

お風呂からあがった母は(わたしが無言の仏頂面でテレビを見ているだけで)「人がいるって賑やかだねぇ」と、毎度のとおり、喜んでいた。

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