ともみ@ピクニック

5月24日(月)

●「今日の目標」というものを立ててみた。その内容は、日のあるうちは眠ない!
●レーズンパン、ゆで卵、きゃべつとアサリの豆乳スープ。久しぶりの朝ご飯である。PC触ったり、部屋をうろちょろ。昼に、あったかいうどんを食べ、「ゲゲゲ」再放送を見たあと、外出。カッパ着て、長靴はいて、傘さして出かけたら、じきに雨が止んでしまった。「とても勘違いな格好」のまま、手紙をポストに投函し、銀行で先月と今月分の国保料を払う。(ここで水道&ガス代を払ったら、お財布がすっからかんとなり、また貯金に手を出さねばならん。と考え、その支払いは見送った。とうとう蓄えは20万と数百円となってしまった今、いずれ近々払わねばと分かっていても、気分的には貯金を減らすのを一日でも遅らせたいのである)。ここまで来たのだからと、市場に寄る。果物屋の前で「大盛りの夏ミカン」が350円とあり、迷わず購入。しかし、しかし。うえ~ん、重いのなんの。(家に帰ってから数えたら、12個あった)。普段は自転車生活なので、荷物の重さというものを考慮しないで買いものしちゃうのだな。ただでさえ、最近は筋力落ちてるのに。おまけに、3分以上歩くなんてめったにないのに。再び雨の降り出した帰り道、バス停ふたつ分を、ひぃひぃ言いながら歩いた。

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5月23日(日)

朝になって眠ろうとしたら、眠られず、昼過ぎまでずっと悶えていた。その代わりというべきか、細川さんの出るテレビの再放送も、成ちゃんのラジオも(今月3回やったのに、一度も聞けず)、爆笑問題の太田さんの「情熱大陸」も、見逃し、聞き逃してしまった。わたしの眠りにおける難点のひとつとして、一度睡眠界に足を踏み入れたら、どんなに楽しみにしていたことも、「もー、どうでもいい」と、眠りを最上級の位置にもち上げてしまうことがあるな。(やる気のない日々のなか、唯一の楽しみとなっているテレビも、眠りに負けて、ちょいちょい見逃す)。ちなみにアパートはテレビがなく、携帯デンワの小さな画像で見ているのであるよ。結局13時近くの入眠、28時くらいに起床。外は大雨のようである。

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5月22日(土)

どこまで自分を出していいのか。誠実であるとは、どういうことか。本音の功罪。などなどの辺りで、迷っていたが、結局、月曜に仕あげたはずの手紙をまた書きなおすことに。どんなに信頼しあっている相手であっても、「自分を垂れ流す」のはいかんな。それにより自分が少しは楽になったつもりになれたり、抱えているものを共有できたり、という点はあっても、そこには「相手の心の負担」を二の次におこうとする態度が消えない。わずかな不具合を知らせても、どこかで線引きをしなくては。ほほ笑む力があるならば、相手の前ではほほ笑んでみよう。半日後には脱力しても。そういう自分を選んだのである。(この手紙には2つのテーマがあって)後半部分も、はじめはもうちょっと遠慮なく書いていたのだけれど、やっぱり「どんなに親しき相手でも、相手の家庭問題に<こんな切り口>で入ってもいいのか」と思いなおし、だいぶ削った。

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5月21日(金)

夕方、起きる。ほぼ一週間ぶりの入浴。日が長くなったなあ。19時をまわっても、あかるいではないか。(ちなみに朝は4時をまわるとあかるい)。窓をあけると、どこかなつかしい、甘い草木の匂いがする。自転車で買いものにでかけた際、寄り道をして、今まで知らなかったスーパーを発見。大箱アイス2つ、フルーツケーキ(5こ入り)、生クリーム(絞るだけ)など、またおやつを買ってしまった。(おやつが家にないと不安になる。で、実際、よく食べる)。

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5月20日(木)

火曜、水曜と、午前に入眠して、夜遅く起きる、そんなリズムであったが、本日はとうとう「夜中2~3時間だけ」起きて、あとはずっと寝てる人だった。ふうー。これはいったいなんのか。自分への甘えだけで、人間はこんなに眠れるものなのか。わたしは人間でないのか、そもそも。▲先日のクリニックで、処方された薬がまた効かなかったことを告げると、先生はかなしそうであった。(普段からかなしそうな表情をしがちであるが、わたしには「なす術がない」ことをかなしんでいるように見えた)。で、別のあたらしい薬を、となるのがこの世界の流れであり、先生は「○○○、オレンジ色のやつ。まだ飲んだことなかったでしょ」とおっしゃったのだが、よくよく、先生、カルテ代わりのパソコンをみてみると、すでに以前処方済み(で、効き目なし)であったことが判明。当分、抗うつ薬を飲むつもりがわたしにはなかったので(いくら飲んでも、効いたためしがない。お金がもったいない。そもそも薬なんて、毒であるし)あらたな処方は見送ってもらった。▲基本的にわたしは「世の中には抗うつ薬が効く人もいる」ことを肯定するようにはなったが、おのれの身にはこのうつ状態が薬によって軽減されるなんて魔法のようなことは起こり得ないだろうと思っている。だけど年に数度「駄目でもともと。藁をも掴む」気持ちで、クリニックに頼ってみる。そして「ああ、やっぱり(だめだった)」の繰り返し。あと、わたしがクリニックの門をくぐるのは、「あいつは(うつに対する)自助努力を怠っているではないか」と(誰もそんな指をさしてはいないのに)さされることを懸念して、「わたしだって何もしてないわけじゃないのよ」「薬飲んでも効かないのよ」を証明するために、というところもある。(こんな調子だから薬が効かないのか。いや薬は気合で効果が左右されるものではない。ただし、あたらしい薬を処方されてしばらくは、「これで少しは楽になるかも」と淡い夢をみて、それだけで少し元気になるのだから、気合も必要?)。▲ところで、わたしの「寝過ぎてしまう」との訴えに、先生は「10時間くらい?」と聞き返したのだけど、「毎日平均十数時間。連休中なんて連日20時間ほど眠っていた」と説明しても、先生には信じがたいようだ。インターネットで知るところによると、世の中にはいく種類かの「過眠症」という病気があるらしいが、わたしの場合、その病気と圧倒的に違うのは「寝てはいけないところ(仕事中など)でも、屈しがたい眠魔におかされる」ということがないことだ。(おのれの陣地だと思える場所でいかんなく睡眠欲を発揮するのであって、人の前では決して眠らない。というか眠れない。この点は神経症的)。昔、OL時代、緊張のあまり眠くて眠くてしかたなかった経験があるけれど、最近はそんなことない。ただひたすら、「(入眠して)気が付いたら十数時間経っていた」とか、「現実の意識を自分に宿すのがとんでもない重荷と感じ、ひたすら眠りに逃げる」という状態なのだ。

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5月19日(水)

あなたが患者の話を聞いているあいだは「一種創造的な退行状態」にあるのではないか、それは詩人が詩を作るのとよく似ている、というようなことを、谷川俊太郎が河合隼雄に話すと、河合は「何か非常に深いところと瞬間的につながったという感じかな。自我と自己とのあいだに一本の線がスッと引かれたというか」と答える。そしていくらかの語りのあと「神秘的なものが生きていた時代は、詩人たちも、自己の深いところで他人と共通のものをわりと持ち得たという感じがするんです。いまでももちろん持ち得ているはずなんだけれども、共通のものというのがますます深いところへ行っちゃって、そこまでなかなか到達できない。そこで、自己の深さの奥にある普遍性に到達する以前、つまり自我の段階で言葉をすくい上げていると言えばいいのかな。本当の自己ではなくて、一種の個別性の段階で自分の意識下の言葉をすくい上げてくるから、何か詩人一人一人が難解なことを書いて、お互いに孤立しているような状態になっているという感触があるんです」と谷川。それに対して河合は「結局、近代になればなるほど、われわれの意識が非常に多様化してきたわけでしょう。その多様化したものの中の最大公約数になかなか到達することのできないもどかしさが、難解な表現としてあらわれてきている」。そしてまた続く谷川の話に、それは「自我の呪縛」であると、河合。「自我というものが時代の社会的な条件で管理されてがんじがらめになっているからこそ、われわれは奥へ奥へ、自己へ自己へと行こうとするんだけれども、なかなか本当に解き放たれた広さを持つ自己には行けないまま中途半端なところへ出てきちゃって、結局またもとのもくあみになるということを繰り返している」と谷川。・・・『魂にメスはいらない』262~265頁から。

上のような話は、臨床心理学者や詩人でなくても、わたしたち誰もにあてはまるような気がして、メモ。現代社会の「生きにくさ」が本当にあるとすれば、それは「一種創造的な退行」の方法を人間が忘れてしまい、「自我の呪縛」に苦められるようになったからだと、わたしは思う。なかにはそれを(無意識のうちに)負担にとらえるあまり、精神を病む者もいるのだろう。

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5月18日(火)

しばらく前の日記に「・・・は癒しである」と書いて、「あ。」と思いつつ、そのままにしていた。▼「癒し」が悪いのじゃない。癒し、大切なことである。誰もが内に求めているものであろう。しかし、しかし。いつの間にか「癒し」という言葉が独り歩きしたようで、その露出の多さに辟易している人は、わたしだけではないと思う。▼「癒しの楽園へようこそ」とか「手料理で癒す」とか「癒しのマッサージ」とか、露出のし過ぎだろっ。「またかよ」と眉をしかめられちゃうよ。あー、楽園なんて癒しあってこその場所であるし、手料理は毒がこめられるか癒しがこめられるかのどちらかで、マッサージはまさしく癒しそのもの。つまり癒しをすでに内包しているコトゴトに、いちいち「癒し」が使われるのだな。「おっぱいに癒される」も、けっ。「男がおっぱいに癒されなくて、どうする!」と、逆に文句をいいたい。人類の周知事項だ。やや土俵のあたらしいところでは、「アロマの癒し」とか「ロハスで癒し生活」なども同様だ。われわれは昔からお香で身や心を清め安らいできたし、無理な力を入れない暮らしからおのずと癒しを実践してきた。▼ふうっ。どう考えても「癒し」自体に罪はないし、「癒し」という言葉にも非はないはず。ではではどうして「癒し」という言葉のイメージが低落してしまったの? 本来その(癒しの)意味を内包するところに、さらに「癒し」という直接表現を加えることで、逆に、その(癒しの)価値が目減りしたように見えてしまう。ということも、癒しの「露出の多さ」まわりにある問題であると思うけれど、それだけが原因でここまで「癒し」という言葉の表現力は落ちないだろう。▼そうさ、そうさ。本来、人は生きていくことそのものが癒しで、同時に、「癒し」という欲求を本能的に抱いてきた。(縄文人だって「癒し」の欲求を秘めていたと思う)。逆な言い方をすると、癒しはそうそう手に入るものではないのであるよ。安売りすんな。(安く買おうと思うなよ)。遠く遠く歩いた道の先に、はじめてその裾が見えてくるという、癒しに対する敬意のようなものが損なわれつつあるのが、今、癒しにまつわるなによりの問題なのかしら。


ふーむ。もっと簡潔に書けそうなことを長々と書いてしまった。

わたしが人の目に触れるところで「癒し」という言葉を使うようになったのは、今から十数年前であったと記憶する。その後も、ときどき使ってきたが、最近は口に出すのも紙に書くのも恥ずかしい言葉となってしまったなあ。右を見ても左を見ても「癒し」が踊っているよ。――という愚痴愚痴思いが、本日の日記を書く動機となった。

同様に、ブログ以前の日記では、「ほっこり」という表現も、ごくたまに使っていたが、これもいつの間にか、よく目につく言葉となってしまい、なんとなく使うのがためらわれる。

ちなみに、「まったり」という表現は、もともとわたしのなかにはなく、最初から「受け売り」の感が強いので、ほとんど使ったことがないのではないかと思う。

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5月17日(月)

●クリニック、おやつ買いだめ、ドトールで手紙書き、来月分の家賃の支払いなどなど。クリニックは先週キャンセルを入れてしまったので「本日は這ってでも行かねば申し訳ない」の気持ちで・・・。家賃は、外出恐怖症的なところのある身、「人と顔をあわせることがつらい」状態に頻繁になるので、比較的元気な本日、来月分の家賃を払っておくのがよかろうと判断したのだ。
●家賃を払いに行った不動産屋では、おじさんがパソコンの前でマイクを握っていた。「なにをしてるんですか?」とたずねたら、「カラオケの練習」との返事。(わたしが戸を開けたとき、まだ歌い出す前だった)。最近、カラオケ教室に通い出したのだとか。「へぇ~、中国語も習っているし、多趣味ですね」と、わたしがいうと、「古文書もやってるよ」と、おじさん。金沢では昔から古文書遊び(集めたり、読んだり)をしている人が多いそうだ。

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5月16日(日)

一日中眠っていた。(きのうは昼~夜、寝ておいたのにな。ま、いつものこと)。

この睡眠のもんだいは、もう人間の域をこえていると思えてならない。「反省しても、また過分に眠ってしまうのだから、反省するな」とか「落ち込んでも、また過分に眠ってしまうのだから、落ち込むだけ損」と、居直ってしまったほうがいいのだろうか。

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5月15日(土)

●ふうっ、3週間ぶりのアパート。午前中に体を起しているときはほぼそうであるが、本日も「昨日から一睡もせず」である。そうでもしなければ、日のあるうちの行動なんてできないのである。
●自転車で4~50分ほど行ったところに「やまや」があり、たまに行くのであるが、本日は閉店直前のお店にかけこんで、ワインを買った。2リットルの箱型(フルボトルの2と2/3本分)で1200円。「こんなに安いのでは、たいしてうまくはなかろう」と思い、ここ数年ずっと冷やかに眺めていたのだが、いや、しかし、空きびんがたまらなくていいし、なんといっても「お酒の在庫」をしょっちゅう気にしなくてもよくなるのでは?という考えから、まずはお試しと、あいなったのだ。結果をいえば「値段以上のお味」であった。わたしの知る限り、これくらいの単価では、まず「フルボディ」は売っていないのだが、この箱には「フルボディ」と明記され、たしかに深みはある。味もしっかりして、バランスいいし。(ちなみに葡萄はシラーズ)。ただし、難点もあるのだった。ボトルのワインだと、「どれくらいの量を飲んだか」一目了然であるが、この箱に入ったタイプでは、自分の飲んだ量がさっぱりわからない。(翌日になり、箱をもちあげてみて、ワイン2本分ほどを飲んでしまったことが判明。あればあるだけ飲んでしまう習性を思えば、「在庫」にはなりかねんのだな)。おまけをいえば、冷蔵庫にちょくちょく行き、箱についているプッシュ型の蛇口からワインを注ぐ姿は、どう見てもエレガントではないだろう。

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5月14日(金)

●毎回のことであるが、「アパートに戻ろう」と思ってから、必ずや数日~(たいていは)一週間以上、戻れないでいる。(逆の「アパートから実家へ」も同じ)。今の環境が気持いいとかそういうのではたいていなく、単に「動く」のが面倒なのである。まったく人によっては信じがたいかもしれないけれど、「顔を洗う」のも難儀する身であるからして、「公共交通機関に乗る」なんて、想像するだけでも体がこわばる大仕事なのである。・・・なんてことは自分のなかですっかりなじんでしまった事実である。今日もまた、引きこもり。
●ここ数日、「自分、偉い!」と思うのは、連日お風呂に入っていることである。あいかわらず湯船に浸かるだけでも疲れてしまうが、これにより一日に一回はなんとか顔を洗えるわけで、人間としての質が上がったような気持ちを味うことができる。

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5月13日(木)

●いつまでも寒い日が続いたためか、例年ならば「そろそろ初イチゴ」となる時期であるが、今年はまだ白い実のままのイチゴ畑である。聞くところによると今年は、みつばちの減少で、実そのものがつかないイチゴ畑もあるとか。まあ、年々、いろいろですな。余談だが、ここらのイチゴ畑でも、藁の代わりに黒いビニルで一面を覆うところが増えている。そのほうが費用も安く、作業も楽なのだろう。おまけに草も生えないしね。けれど、わたしから見ると、藁はイチゴのベッドであり、クッションのようなもの。黒いビニルでは地面が呼吸し難そうだし、なんとなくイチゴの居心地も良さげには見えない。
●なんてことを書くと、ぼちぼち畑仕事をしているような風にもとられかねないが、この一年、ほとんど畑仕事を手伝っていない。ちなみに今日も、引きこもり。
●冬が終わり、畑の季節がやってきて、母はだいぶ元気そうである。あちこち痛いなど、体はきつそうだが、(←毎晩、足や背中にサロンパスを張っている)、心はいろいろと充電しているようである。(←いつ何をどこに植えようと考えたり、もちろん植えたら植えたで「いつのタイミンで、どうやって」とそのお世話を終始気遣い、畑友達や通行人たちとの交流もあり、もちろん農作物の成長を見るだけでも楽しいらしく、などなど)。いいことである。

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5月12日(水)

●13時前には起床。昼ご飯は、ラーメン。久々だ。醤油味。キャベツとアスパラとハムとタケノコを炒めてのっける。韓国ドラマ『華麗なる遺産』だったか?の第2話を見たあと、再放送の『古畑仁三郎』を見る。ぐるっと近所を自転車一周。T子さんと話。夕飯は、ウドの葉を揚げたのと、イカとタケノコのかき揚げ。カワハギの煮付け。いろいろゆで野菜。毎夕食べているが、きょうも、ウドの酢味噌あえと、ナガイモともずくの酢のもの。ごはん。ビール。デザートに豆乳・ニンジン・バナナのジュース。20時台、寒くてコタツにもぐっていたら、少し眠ってしまった。『アイリス』は録画。22時から『マザー』を見る。24時頃、お風呂。気持は小康。
●こう書いてみると、すごく普通の人(ただ怠けているだけの)のようだ。このペースを維持できればいいなぁ。

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5月11日(火)

●きのうは夜9時頃一度覚醒したが、クヨクヨ気持ちが瞬間に浮上して、起きられなかった。日をまたいだ本日朝の1時頃にちゃんと目を覚ます。どうも面白くない夢を見たせいなのか、起きたと同時に「あ、危ない。(気持が危ない)」とわかる。お茶の一杯を飲む力もない。朝の6時近くまで、ひたすらお布団のなかでラジオを聞いて過ごしたのだった。
●ほぼ一日中、細かな雨が降る。
●本日は小康。あいかわらずの低空飛行だが、ぼちぼちいきたい。

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5月10日(月)

●朝早くから(珍しく!)掃除をする。たいした量でもないのに、たちまちエネルギー減。気力をしぼって朝ご飯を食べ、『ゲゲゲ』を見たあと、お布団に逃げ込んでしまった。昨夜(毎度のことだが)眠っておらず、また些細なプレッシャーに押され、すぐに入眠。そのうち、月命日の坊さんのお経が階下から響いてきても、ラジオのクラシック音でかき消し眠り続けた。
●『ゲゲゲの女房』は、久しぶりに面白い朝の連ドラである。水木しげる、この人物あってこそ!のドラマだ。


*「きのうの続き」の続き*

今のわたしは、感情が平たんなんだな。「しんどい」と「(しんどい度の軽くなった)小康」、この二つのみを行ったり来たりといっても過言でないぞ。「しんどい」と「小康」のミゾは小さく、わたしのここ数カ月の感情をグラフにしたら、浅い波が見られるだけだろう。外の世界に対して感情が乏しいだけでなく、おのれ自身にも、のっぺらぼうな視線しか向けられない。「楽しい」や「嬉しい」などのプラス感情が湧かないだけではなく、マイナス感情の底すらも浅いのだ。

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