ともみ@ピクニック

9月28日

先週までの青空がどこに行ったやらの天気。朝からぴゅーぴゅー、というよりも、朝からびゅーびゅーの風。雨は降ったり、止んだり。そろそろ当地でも初雪か?の予想を立てた方もおられたが、本日はまだそこまでの寒波はやってこぬようだ。■普段から悩みの種の歯槽のーろーだが、(わたしの肉体の中で一番老化が進んでいるのは「歯」であろう)、昨日の昼はうどん鍋の中に入っている「白菜」を食べるだけで、ずどどどどーんと痛かった。ま、いつも以上に刺激を与えぬようがんばっているので、なんとか重症はやわらぎつつある。まったく、なんまんだぶつの歯なのだ。■今夜は、ご飯どきに昨日の残り酒を飲んだだけで、夜のお酒はなし!とする。禁酒の夜である。枕元でカモミール茶を楽しみましょ。

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9月27日

山にもって来た本は以下の4冊(最後の1冊は最初の休暇下山時に購入)。『すべてがうまくいかないとき チベット密教からのアドバイス』(ペマ・チュードゥン著/ハーディング祥子訳)』、『日本の弓術』(オイゲン・ヘリゲル述/柴田治三郎訳)、『整体入門』(野口晴哉著)、『サンショウウオの明るい禅』(玄侑宗久著)。いずれも、よい選択をしたな、と思わされる本なのだが、なかなか読み進まないのが現状である。

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9月26日

たんたんと肉体の労働をする心地好さというものを、ここに来て初めて知ったかもしれない。■というのは、たとえば初めの頃には、ひぇ~と思った部屋掃除だが、今では淡々とこなしている。■いかに手際よく終わらせるか…に意識の大部分がゆき、肉体がムダなエネルギーを使おうとしないのである。(→すると精神の楽(ラク)に繋がる)。■まあ夏場の大量の部屋掃除をしているうちに得たことである。

そうはいっても、怠けの助なる性分はわたしに一生ついてまわるだろう。ここにいると(最近特に)、根っからの怠け者なんだなぁの自覚が働く。「労を惜しまない」なんてことはぜんぜんなくて(労を惜しみまくり)、所謂「じっとしていられない性分」「明日できることを今日やる」人種とは対局の地にいるのだ。

「損だ」とか「得だ」と、労働の質や量を、過去の体験や、周りの人や、報酬の値などで比べると、結局、自分が辛くなる。一見「得」と見えることでも、そうゆう思考を働かせた時点で、それは苦への一歩なのだ。まこと、日々の労働のなかで実感いたします。そしてこれは労働に限らず、生きる全ての道に共通するのだろう。

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9月26日

たんたんと肉体の労働をする心地好さというものを、ここに来て初めて知ったかもしれない。■というのは、たとえば初めの頃、ひぇ~と思った部屋掃除だが、今では淡々とこなしている。■いかに手際よく終わらせるか…に意識の大部分がゆき、肉体がムダなエネルギーを使おうとしないのである。(→すると精神の楽(ラク)に繋がる)。■まあ夏場の大量の部屋掃除をしているうちに得たことである。

そうはいっても、怠けの助なる性分はわたしに一生ついてまわるだろう。ここにいると(最近特に)、根っからの怠け者なんだなぁの自覚が働く。「労を惜しまない」なんてことはぜんぜんなくて(労を惜しみまくり)、所謂「じっとしていられない性分」「明日できることを今日やる」人種とは対局の地にいるのだ。

前にも少し書いたかもしれない話だが~。「損だ」とか「得だ」と、労働の質や量を、過去の体験や、周りの人や、報酬の値などで比べると、結局、自分が辛くなる。一見「得」と見えることでも、そうゆう思考を働かせた時点で、それは苦への一歩なのだ。まこと、日々の労働のなかで実感いたします。そしてこれは労働に限らず、生きる全ての道に共通するのだろう。

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9月25日

前にもちらりと書いたけれど、ここでの生活はいいこともいっぱいある。その第一は規則正しい生活リズムの獲得だろう。日の出の前に起き、ひと働きのあと朝ご飯(ちなみにパン食)を食べ、がぁぁっと労働し、おやつを食べ、また労働し、お昼を食べ、また軽く労働し、合間にちょっとソファーに座ったりして休み、そしてちょこちょこと労働し、またおやつを食べ、またがぁぁぁっと労働し、お夕飯を食べ、そしてほどほど労働したあと、お風呂。21時半~22時くらいの間には一日のあと始末をして、消灯となる。じっと思考する時間というものがまず無い。これはたいへん大きな体験であろう。ただ目の前には「労働とおまんまタイム、プラスα」があるだけ。考えようによっては「なんて悲惨な」だろうけど、また別の考えようによっては「とても貴重な」日々である。(たとえば通勤電車でぼぉっとするとか残業帰りに赤提灯でほっとするなんて世界では全くないのである。消灯タイムになると、みな、パタッと寝てしまう。わたしはこんな日記を消灯後にせっせと書いているけれど…一種の病気だ…、ともかく、「我(が)を深める」「我を遊ばせる」時間はここではほとんどないのである)。下界にいるとついつい「我と戯れ遊び過ぎてしまう」ことが多いので、たしかにここでの生活は貴重である。

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9月24日

この近辺では今が紅葉の真っ只中らしい。

先日まで昼間10℃もなかった気温が、ここ数日は10℃前半。朝も3℃程はあり、かなり暖かい。(3℃で暖かいのだからわたしの肉体も高山仕様になっている)。

積雪高を測る「てっぺんの赤い」ポールが、すでに舗装道の両脇に立てられている。

晩秋の山である。

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9月23日

たとえばですね、いくつもの仏教などで性的な接触を禁じているのは、(昔ニッポンで流行ったという立川仏教のように、ひたすら男女交わりましょう。それが修行です。なんてのは例外)、もしかしたら、「臭いものには蓋をしろ」なのかしら? その底には「性的接触の体験→そっち方向のコントロールが身心ともに利き難くなる」というさががあるから?

人間関係において、ほんと~にもうイヤ! 付き合いたくない! とココロが叫んだとして……、そういう感情が生まれる状況事態を避ければいいのか? つまりその人間関係を断ち切ればよいという話なのか? いやいや、それでは「臭いものに蓋をしろ」と同じでないの。

ほんとうの修行は(修行なんて言葉はいやらしいのだけど、便宜上、人生の修行という意味で使う)、セックスを禁じずとも、おのれの身心をコントロールする術を学ぶとこにあるのだろう。

人付き合いも、避けて解決というのは、ほんとうの意味で解決ではないよねぇ。自分のなかの何かを見つけなければ(何かを取り去らなければ)、いつまでたっても、カタチを変えて(相手を変えて)ひ~!! く~!! う~!!の難々な出来事がやって来るんだろうなぁ。

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9月22日

素人のカメラ懲りは基本的に「ナルシスト」なのだなぁ。何もナルシストがいけないわけじゃない。人の好みはそれぞれ。ナルシストというのは、それだけでは他人に迷惑をかけるわけではないので、カメラという道具によって人生に楽しい要素をふやせるのなら、よろしい趣味であろう。(←なんだか上から目線。そんなつもりはないのだが…)。

下界は彼岸花が見事だとテレビで知る。おお、そういえば本日は、秋分の日。シルバーウィークとやらが終わる。

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9月21日

自給自足の人生を選び送っている人たちを紹介するテレビ番組。ひょえ~っと驚いたのは、奄美の山里の手作りの家(掘っ立て小屋?)に暮らし三十年になるおっちゃん(関西出身)。職業は陶芸家。一年に一回しか釜焼きしないらしいけど(たしか年収20万程?)。生活道具は買ったものなんてほとんどないのでは?(拾ってきたり、自分で作ったり)。洗濯はじゃぶじゃぶとタライで足踏み(もちろん水は天然水)、ぽたぽた滴をそのまま干す。お風呂はごえもん。下山するのは月に一回?(ママチャリで一時間の下り坂)。豆腐は大豆を石臼ですりつぶし、ママチャリで汲んできた海水で固める。おっちゃんがカレーのためのスパイス作りをする手つき&足つき(そして風貌)を見ていると、どこか東南アジアの村人かぁ~と思えてならない。はい、いい意味でニホン人離れしております。彼の原風景は、事業の失敗で父親が借金取りに追われた幼少時代にあるという。「もっともっとビンボーになりたい。そしたらもっともっと楽になる」と彼はいう。誰にも否定できない言葉だと思う。

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9月20日

本日も秋晴れ。こんなに空って広かったっけ?と思うほどの秋の空である。■午前中からヘリコプターがブンブン飛んでおります。午後もブンブン飛んでおります。一日何度飛んだことやら。■近くのヘリポートから飛び立つ赤いヘリの動きを、賑やかに双眼鏡で眺める御仁や観光客も。今日は幾度ヘリの要請があったことか。(ヘリは県庁所在地の空港からやってくるらしいのだが、翌日には「燃料使い過ぎで飛べなくなった」という噂も)。山岳救助のこのヘリコプターは発足当時から、出動にかかる費用は一切公がもっている。つまり個人負担なし。下界の救急車と同じなのである。■今夏に付近の山で行方不明になった方の親族が、先日、民間ヘリコプターを雇い、上空からの捜索を行なった。もちろんそれ以前に警備隊が出動し、その後も地元の山岳ガイドが地上からの捜索を行なっている。■結局、ご本人は見つからず、お身内の方がさいごにヘリに同乗し、この日の捜索は終わった。■皮肉なほどに晴れた日で、ご本人が登ると云っていらした雄々しい山が、すっくり見事な姿を表していた。わたしは二階の掃除の合間、ときどき外に目をやっていたが、山をじっと見ているお身内の小さな背中が、晴れ渡った秋の山のなか、ひとつの現実をつくっていた。■話は戻りマス。本日、T岳に向かったヘリコプターをわたしもたまたま見ており、すぐにT岳の中腹から折り返すヘリを、「骨折だったんだろう。しかし骨折程度でヘリを呼ぶとはねぇ~」「いやいやT岳で骨折したら歩くのは無理だよ」「どうして病院に直送しないで、ヘリポートに戻るんだろ」「警備隊員を降ろさなきゃ」なんて会話を近くで聞いていたのだけれど、しばらく後に伝え聞いたところによると、あれは「死亡」がすぐに確認されたためなんだとか。(夕方テレビのニュースでも報じていた)。■クレヨンしんちゃんの作者もごく最近、群馬の山でお亡くなりになったとか。山はちょっとしたことで大きな事故に繋がる。

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9月18日

周りの状況が変わったわけではない。相変わらず「???」の連続だ。ただ、わたしはわたしの愚かしさに、少し気づき始めたのだろう。(一連の愚痴日記はヒトとしてたいへん恥ずかしい)。■とはいえ、内面のコントロールはむずかしい。刻々とやってくる状況に、腹が立ったり、憂鬱になったり、過大な疲労感にとらわれるたり。なんとも厄介な、なんとも「我」の強いおのれ。

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9月19日

大型連休が始まった。山は今年最後のおおきな稼ぎどき。観光バスや定期バスが続々と山の舗装道を走ってゆく。外は雲ひとつない秋晴れ。まさに行楽日和である。先月まで同じアルプスで働いていた奈良のKさんにも、この澄んだ空気を届けてあげたいなぁと思う。

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9月17日

朝起きて外の温度計を見ると0℃。最近はだいたいこの気温。先週は近くの0山で初雪が降ったらしい。十日程お休みしている間に、山はぐっと秋が深まった。

休暇中の快便がウソのようにSTOP。消化は順調のようなのだけど、大腸の中にどっしり便が停滞してしまう。(肛門直前で待機)。また糞詰まりの日々である。

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9月16日

ちょっとだけ自分の感情を客観的に見られるようになる。(なったと思う)。軽いノイローゼといってもおかしくない情況だったんだなぁ、と、先日までの自分をふとした瞬間に振り返る。

山の生活でも、眠りにつく前、本を手にする晩がごくたまにある。ま、2~3頁も読めばいいほうなんだけど。

昨日の日記に書いたのは『すべてがうまくいかないとき チベット密教からのアドバイス』(ペマ・チュードゥン著/ハーディング祥子訳)という本の引用である。(ちなみに本のタイトルに惹かれて手を伸ばしたわけではない)。

これは5月に山へ入る準備をしているとき、「何かお勧め本はありますか?」と、東の方に住んでるKさんにお尋ねしたら、「今から本屋で探すのはたいへんでしょうから」とご厚意で送って下さった書籍のうちの一冊。

今宵も同本に手を伸ばした。そして偶々開いた頁にあったのは……。

〈しかしそれと同時に私は、ダルマがより大きな変革をもたらすだけでなく、ダルマ自体が多くの人々にとっての方法論であり支えともなることを知っています。ダルマによって私たちは、自分の美しさ、自分の洞察力、神経症や痛みに対処できる自分の能力を知ります。〉(206頁)

〈これはリアリティを作り出すのは自分で、私たちは自分の投影を認識しているだけだという仏教の教えを探求するための試練でした。〉(209頁)

ふぅ~。

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9月15日

なんたることだ。朝、寝坊をしてしまう。仕事開始の時間になっても眠っていたのだ。(仕事開始の5分後くらいに女子部屋をノックされ、覚醒)。とにもかくにも反省。夜更かしは慎まなくては。

夜、手にした本のたまたま開いた頁にこんな文章があった。(128頁~129頁)

〈「心が強く痛むのは、何かに強くしがみついているから」〉

うー。

〈誰かのせいにするとは、自分の心を守ることです。自分の中にある弱くて、無防備で、傷つきやすい部分を守ろうとします。そして痛みを引き受けるよりも、もっと気分よくなれる場所を探し回るのです。〉

まるでわたしへのタイミングを図ったような言葉である。

以下はまだまだ、ぜんぜん、わたしには分からないけれど、きっと大事な話なのだろう。

〈私たちには多くのやわらかい部分-ソフト・スポット、優しい部分があります。出発点は、まずそこに触れることです。〉

〈非難するのをやめ、心に開けたスペースが生まれるのをじっと待つと、自分のソフトスポットに触れることができます。それはあたかも、他者への非難が芽生えた硬い殻の内側に横たわっている自分の大きな傷に触れるために、心の内へ内へと降りていくようなものです〉。

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