ともみ@ピクニック

つぅー。

午後、心療内科に行く。待合室に置かれていた、当院長が書かれたらしい冊子を読んでいたら、涙つぅー。決して涙もろいわけではないのだが、ときどき、分野によって涙腺が緩んでしまう。本日は何に「つぅー」となったかといえば、この院長も精神的に苦しい時期を越えてこられたのだなとわかる体験話に、つぅー。その後、診察。約10ヶ月ぶりの診察だ。昨日予約した時点で「土曜日は込み合っているので一人5分くらいしか時間をとれない。もう少し長めの診察を希望するなら平日の予約をどうぞ」と言われていた。もちろん「せっかくの、しかも久しぶりの受診なのだから、5分じゃ足りないよな」と思ったけれど、わたしは今日の受診を選んだ。「このとき」と思ったときを逃すと、また「受診しない」ままになっちゃうだろうとの心配もあったから。コミュニケーションの「コ」の時の段階で、新しいお薬が決まり、診察終了。人によってはこの診察に不満もあろうが、今のわたしに不満はない。たとえあと30分話する時間があっても、処方される薬は同じだろう。このご時世、専門医とじっくり話をしたいなら、カウンセリング中心の病院に行くべきだ。ともかく、薬に頼るわけでなく、医師に頼るわけでなく、もちろん自分に頼るわけでなく、まだはっきりとは実感のできない何かにおまかせするしかないのだろうと思っている。そのなかで薬や医師や自分が思わぬ助けをしてくれればいいなー程度の下心をもって。

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まんま?

昔からの友達と久しぶりに再会して、「昔のまんま。変わっていないねぇ」と再会を喜ぶシーンや、その後、第三者に対して「昔の友達と会ったけれど、あの頃に時間が戻りました」なんて報告することがある。わたしも、たぶん、したことがある。けれど、けれど。「昔のまんま」なんてことは、当然、ありえない。仮に「昔のまま」であれば、そりゃ、たいへん気持ち悪いことだと思う。大方、人が昔の友達と付き合えるのは、「昔のまま」をいくらかは残しているという暗黙の約束が双方に満たされつつ、同時に、会わない月日のなかで変化したお互いの姿が、なにかしら魅かれ合うものをもっているからだ。そうでなければ、人と人の絆を保っているのは、人類的な愛か、単なる「過去の時間」へのしがみつき、になってしまう。

まったく話は飛ぶ。人との縁を切って、切って、切りまくってきたわたしだが、それでもごくごくわずかに、大切な付き合いを続けている旧友がいる。その一人が、今月いっぱいで今の仕事にひと区切りをつける。数日後にはまったく新しい環境のなかに身を置く予定。今の仕事は、大手企業の研究職だった時代から、一歩一歩努力して、何年も経て得たフリーの仕事。きっと彼女のことだから、新しい環境のなかに身をおいても、今の仕事を再開する目途は立てられるだろう。しかし、一人身でない彼女は、今の仕事とは全く別の、生計のための仕事を選ぶことになるかもしれない。ま、それは、当然彼女も承知のうえだろうし、砂漠のなかに一人残されてもなんとか生きる道を見つけるほどの知力と実行力と平常心を供えた彼女だから、わたしも心配はしていない。ただ、心のなかでエールを送るだけだ。

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履歴書ぴらぴら

ゆうべは、ぷれっしゃあという枕で眠る。何度も目が覚める合間、津波に襲われる夢を見たり。▼朝10時の起床。「よっしゃあ」という気持ちで、すぐに履歴書の作成にとりかかる。毎度のことながら、何枚書いても、途中で書き損じ。うん、もうっ。時間がなくなったので、ひとまず身支度整え、駅に走る。▼たしか駅のなかに証明写真とれる所があったわなあ。数分後、「はい、写真、OK」。しかしその安堵も束の間、ハサミがな~いことに気がついた。(履歴書に貼るために写真を切らなければならんのに。貼付シールは持っていた)。まだ履歴書の書き直しもせにゃならんし。▼近くの喫茶店に駆け込み、「喫煙されますか?」との若い女店員の声に、「は、はい。履歴書を作りので、ハサミ、借してくださいっ!」と答えてしまった。(わたしはタバコは吸わんけど)促されるまま、喫煙席に。そして女店員は小さなガッツポーズとともに「頑張って下さいね」と笑顔で言い、すぐにハサミをもってきてくれた。さんきゅうである。▼面接約束は13時半。駅から歩いて5分の所らしいので、ココを13時20分には出なきゃな。約30分の勝負である。ブレンドを一口飲んだだけで、ひたすら、履歴書の書き直し。(ほんと、どうして履歴書って、何十枚と書き損じてしまうのだろう?)。あと、数年ぶりの履歴書書きであるが、苦労したのが“職歴”の欄。もうね、覚えておらんのよ。OL辞めたあと、就いたバイトや派遣は数知れず。なんとなく仕事内容は思い出しても、社名まで思い出せん。この辺は、ま、書く欄も足りないのをいいことに、「主に~」の羅列で済ませる。▼ああ゛、せっかくイイ線いっていたのにぃ、最後の最後に書いた学歴欄、<入学>と記すべきところ、<卒業>としてしまった(←よく犯す間違い)。おまけに、あと少しと気持ちを緩めたためか、乾ききらぬ文字に手を触れてしまい、文字が滲んでしまった。ひぃっ。▼今の自分の姿、なんか、社会人失格。求職以前のレベルである。しかも、しかも、もう、時間が、なーい。▼ダッシュで会計を済ませ、ダッシュでコンビニに走り、修正ペンを買う。(筆箱を持ってきていながら、修正用の文具を自宅の机に忘れてきてしまったのだ)。もうね、しょうがない。ごめんなさーい。履歴書の書き損じた文字<卒業>を修正ペンで消す。しかも、駅の構内案内板を机にしての作業だぜ。求職以前どころか、人間として、どうよ?な匂いがぷんぷん。し、し、しか~も、わたしは何たる買い物をしたのだぁぁぁ。「修正テープ」より「修正ペン」が数十円安かったばかりに、考えることもなく、乾くのに時間のかかる「ペン」を買っていたのだぁぁぁ。乾くのを待つ暇はない。履歴書をびらびら風になびかせて、駅の外へダァァッシュ。▼ともかく、面接は無事、おわった。

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バンジージャンプ

午前のうちに起きた。曇りながらも晴れ。お湯わかした。珈琲飲んだ。お布団に戻りたくなったけど、ぐぐっと頑張った。昨日駅の構内から貰ってきたアルバイト雑誌を開いた。わたしにウインクする仕事があった。ぐぐぐっと頑張って、応募の電話した。「あした面接」となった。洋服ダンスを開いた。着ていく服がない。社会との隔絶の時間の長さを想う。無理やり、サイズの合わないジャケットと、フックを留めるのもやっとのスカートを組み合わせることにした。美容院行った。そろそろ髪切ろうと思ってたので。いやほんとは3月に入ってから切ろうと思っていたのだけど。白髪を染めた。社会は「外見を見る」ものだから。

応募の電話したとき、超しどろもどろになってしまった。「あがらない」性格ではないけれど、ここまで戸惑ってしまうとは。電話を切ったあとはまだ興奮しており、自分の状態を省みることもなかったが、洋服合わせのために、似合わない格好をして鏡の前に立っていたら、とても場違いな気持ちになってきた。外見の支度さえ整えるのに四苦八苦している今の自分。「社会に出て、いっちょ前の顔をできるのか?」。そうだ、家族とさえまともなやり取りができないのに、日常生活さえままらなずあえいでいるのに、仕事だと?

しかも、それは、これまでに経験のない仕事。病を抱えている身としては、まずはゲートボールのような仕事で心身を慣らするのが良識というものであろうが、わたしが選んだのは、いきなりのバンジージャンプ。はて。はてはてはて。

美容院の帰り、口紅を買った。(このところ、年に1~2回しか化粧をしない)。そのほか、いくつか買い物をしながら、思った。「このままヤマンバのようなまま人生を終えるのはいやなんだろうな、自分は」。しかし、今のわたしが社会に出ることなどできるのか? 笑うこともほとんどない、いつも暗~い表情の自分が、人と接する仕事など、できるのか?

これまでの日々、「頭の妄想」が膨らんだ状態だったようだ。「自分は、今、していないだけで、やろうと思えば、いつでもできる。自分の経験と実力ならば、××だって、△△だって、できるのだ」と。自分の体力・内面の状態が変化していることを忘れ、「できる」妄想だけを、保ってきたようだ。

買い物をしながら、「ゆっくり治療にはげもう」「仕事をするとしても、まずはゲートボールから」などと言いだす自分がいる。また、「でもねぇ、どんな仕事でも、始める前は不安なものさ」「案外、荒療法で、バンジージャンプもいいかもヨ」とも、言い出す自分も。はて。はてはてはて。

あまりの緊張×葛藤のためか、「今夜は飲もう!」と思った。食材をいっぱい買って、アパートに戻った。発泡酒飲んだ。焼酎飲んだ。生野菜をいっぱい食べた。一口、ラム炭酸割りを飲んだ。そして、珍らしく、「だらだら食べる」のを止めて、お皿を洗った。シャワーを浴びた。

そして今、番茶を飲みながら、日記を書いている、25時半。

あしたの面接は(どうするか)あす決める。




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ひねくれのおまけ

先ごろのブログに、「わたしは、心があるべき状態にないから、何かをみるとすぐ後ろ向きな思いに包まれてしまう。それが愚痴となるのだ。あるべき状態に心がある人は愚痴などを言わない。何かを言うとしても、それは意見というものだ」というような話をボヤいた。

この「あるべき状態」とは、言葉では説明できない。先ごろのブログでは「健やかな」とも形容した記憶があるが、一般的に使われる「健やかな」とも、ちと、違う気がする。わたしの使った「あるべき状態」とは、仏教関係の人たちがいうような、我(が)という皮をむいて、むいて、むきまくって、(らっきょうの皮をむくように)、最後にのこる「本来の自分」という意味だ。それは「たましいの自分」とも言い換えられる。

ごく最近のブログでは「浄土真宗はまったくもう~」な話もボヤいたが、心があるべき状態にあるときは、真宗であろうと、何宗であろうと、そう、道の石ころ一つにも、ありがたく手をあわせられるだろう。「あれじゃなきゃだめ」「あれはいや」「これが正しい」などというのは、ほんものが見えていない証拠なのだと思う。あるべき状態に心があって、ほんものが見えている人には、世間的に<むしずが走る>ような出来事さえ、ウエルカムなのだろう。下の『ひねくれ村より』を書きながら、そんなことを思った。(毎回、愚痴めいたことを書くたびに「心があるべき~」の言い訳するのも面倒なので、当分、このことはわざわざ説明しないゾ)。

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ひねくれ村より

「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞をとった翌日、メガホンをとった滝田監督の出身地である富山県の県議会厚生環境委員会で、そのことが話題となり、ある県議が「県民の一人として誇りに思うが、ロケ地が山形なのが残念」と指摘したらしい。そして、議会では、あれこれ議論が交わされた末、官民によるロケ誘致が必要だとの意見に達したらしい。はぁ。受賞の翌日の新聞では、富山県の自動車会社が新しい霊柩車を売り出そうとのPRもしておった。ほぉ。はぁ。ともかく色んな角度で、受賞フィーバーが富山ではわいております。▼わたしの出身地も同県なので、常々わたしは、「県民が富山の自画自賛」をし(井の中の蛙の場合が多い)、「他県の出身者が富山を褒める言葉を、県民が100倍に評価」し(悲しいかな、そうやって自信を得ようとしている)、「有名人と県との『親の代の縁』やら『昔一時滞在しただけの縁』を恥ずかしいまでに使っちゃおう」とする(他に素材がないのだな)姿を気持ち悪く見てきた。(はい、わたしは愛郷心ゼロです)。▼外国に移住した日本人がノーベル賞を受賞し、「我が同胞よ、よくやった。日本人万歳」の興奮が日本メディアのなかに上がったとき、誰かが「彼は日本人じゃないよ。こんな日本に見切りを捨てて、アメリカ人となったんだ。それを忘れるな」と言った言葉に、わたしは「おお、よく言った!」と心の底で叫んだんだよね。滝田監督のこととて「なぜ、富山を出たのか?」を帳消しにして、毎度おなじみの「彼を生んだ富山は素晴らしい」発想だけを胸に抱くのはおかしい、と思うのだ。▼もちろん、滝田監督ご自身は「故郷の皆さん」に好意的な態度を示すであろう。彼は大人であるし、わざわざ好感度を落とす必要がないし、もしかしたら「ほんとに故郷好き」かもしれんし。はい、これを書いているわたしが、ひねくれ村に住んでいるのでしょう。

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お見合いプラン

お昼の電車で金沢へ。S銀行にお金を入れたり(PHS代が先月残高不足で引き落とせなかったらしい。2ヶ月分を、あわてて入金)、図書館に行ったり(意外な本が順番待ちだった)、近江町市場内のスーパーの二階が輸入食材を扱っていることを初めて知ったり。半月ぶりの金沢は季節が半歩進んだ感じ。梅の花がちらほらと。「雪釣りと梅の花」を同時に楽しむ、早春の風景である。

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<お見合いプラン>
   女性オール0円 
      年収800万以上のお相手を希望する方、お婿さんを希望の方は
      男性と同じ料金がかかります。
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      初めての男性の方は「特別無料」お見合い体験!

 上記、新聞のテレビ欄下にあった広告。料金体系の不思議につられ、メモ
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あたまをスッポリ取り外せたら、どんなにいいだろう。でも、それはムリ。
だから、このあたまを乗せて、歩いて行くのダ。

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うつ本音

この一週間余りで、うつ病を扱ったNHKの番組を三本見た。一番わたしにとって良かったのは先々週の放送。(うつ病の症状に時間を割いており、「ああ、わたしだけじゃないんだな」と生きる励みになった)。一昨日放送のは、「薬漬けを見直し、薬の適正化(薬を減らす)を図ったら、劇的な効果があらわれた」に力を入れており、これはこれで興味深かったのだけれど、わたしが一番目を引いたのは、「頭に電気を流す」療法だ。今のところ、長期にわたる薬物治療で回復が見られない人とか、自殺の恐れがある人などを対象とした治療法らしいが、なんか、わたしはこれが気になる。■おっと、ここまでは前置きだ。この三本の番組から共通して浮かんだ思いは、「なぜ、わたしは、うつの治療に熱心ではないのか」ということ。答えはすぐに見つかった。うつが慢性化しているのである。「うつが発症してここ数年」な~んて話(そんな短い期間)ではないのである。昔は「うつ」なんて名前も知らなかったから、ただ名もなき調子の悪さということで一人抱えてきたけれど・・・。自分の人格のように「うつ」をとらえる年月が長すぎて、今更治療という意欲がおきないのだ。■このブログにも何度も書いてきたが、「薬へのあきらめ」を(「さんざん試す」に至る前から)抱いてはいるけれど、実は、その裏で、「せめて睡眠薬だけでも貰いに行こう」(わたしの睡眠障害は過眠だけではない。生きるリズムを整えるために睡眠薬を飲んだほうが良いのではと思う日もある)とか、「前に飲んだ薬が合わないのは明らかなのだから、今度は別の薬を処方してもらえばいいのでは」と考えることはあるのだ。なのに、ちょっと調子が良くなると「薬には頼らない」の思いが頭をもたげ、一方、心身悪化が始まると、藁をも掴みたいくせに、クリニックに予約の電話をかけることすらできなくなる。ふうっ。

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おでんくんと煙のようなもの

先日、ちょこっと見たアニメ『おでんくん』では、それを嗅ぐと、全てがど~でもいい、何もが面倒くさ~い、やる気ゼロ~になってしまう煙のようなものが登場していた。主人公おでんくんの仲間たちはみな、その煙のようなものにやられちゃって、廃人ならぬ廃おでんになってしまうのだけど、ポジティブ度の高いおでんくんだけは、その煙のようなものに負けず・・・・・という場面まで見た。

ふと、わたしは思ったのだ。―――今、わたしのまわりには、メディアで報じられる“社会”の住人や、町や電車のなかですれ違う人たち、実際に話をするような距離にある人たち、そのほとんどが現代的なストレスをかかえている(心象だ)。そしてそれは時にウツというような形などであらわれている。なんとなく、これは、おでんくんで見た煙のようなものだなぁ。ストレスは個人の内面で生まれたような顔をしているが、実はこれ、おでんくんで見た煙のようなものを吸った結果ともいえる。年齢関係なく、職業や社会的な立場も関係なく、それを吸えば、一様に影響を受ける、煙のようなもの。なかにはおでんくんのように影響を受けない人もいるだろうが、これは、花粉症のようなものなのではないか? それが積もっていても、体内外に形として出ていないだけという。わたしたちは、みな、おでんくんに登場した煙のようなものを吸って生きている。その煙のようなものを生んだのは、わたしたち自身だ。

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かじる力

うまく説明できないのが、もどかしい。

傷んだ林檎を前にして

“傷にばかり目がいって、林檎を食べてみようという気持ちすらおきない”   
                                       
のが鬱の症状の特徴のひとつで                 

“傷は傷、そこに有るものとして、存在は知っている。 だけど
 そこに必要以上に目を向けず、何かを思う前に林檎をかじってみる”
    
のが健康人の生き方なのだろう。

わたしは知っている。たぶん知っている。

傷んだ林檎も、かじってみれば、美味しいのだと。

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最近の調子など

◎半週間ほど前から「(何時でも転げ落ちちゃうよ~の)坂のうえに立つ」状態にたびたび遭遇していたが、ぐぐぐっっと踏ん張って、とどまっていた。んだのに、気づいたら、坂の下にいる自分を発見。(いつの間に転がった?)。それでも、この坂は実に低い坂であることを、経験的に感じている。
◎誰も興味ないだろうが、自分メモ。10日24時間ほど覚醒、11日~14日夕方起床午前入眠、15日リハビリのため入眠せず終日覚醒、16日~23日朝起床夜入眠、本日24日夕方起床。←← 「リハビリして生活リズムが戻る」が常に通用するわけではない。相当なる不本意な生活態度を経て、それにうんざりした体が「正常態に戻ってもいいよ~」とならねば、いくらリハビリしても、リズムは戻らんのだ。
◎どうして自分は調子を崩すのか、もう手にとるようにわかってしまう。(上記の「いつのまに転がった?」は筆がすべって書いた。嘘である)。実に単純な構造。ならば原因になるような事態を避ければいいともいえるのだけれど、避けきれないのが人生であるのだなー。
◎ゆっくり静養するためにも、本日の最終列車でアパートに戻ろうと、荷物を持って親の家を出たのだけれど・・・・。乗り遅れた。あと30秒ほど早く家を出ていれば間に合っただろうに。「まあよくあることだ」と、親の家に戻る。

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新しいセーター

おば自慢であるが、コウちゃん(小6)が市民名誉賞のようなものをもらった。(昨夏の市の陸上大会で大会新記録を出したのが理由らしい)。昨日表彰式だったのだけど、そのとき着ていく服について、事前にひと悶着あった。コウちゃんは「普段着のトレーナーでいい」と、姉は「でっかいロゴの入ったトレーナーでは・・・」と意見が対立していた。で、先週、姉は「コウちゃん嫌がる気もするけど」と言いながら、授賞式用に紺色の清楚なセーターを買った。最初は「もし嫌がったら、わたしが着るわ」と身長160センチ用を選び、しかしすぐに「これじゃすぐに小さくなる」と(実際にコウちゃんはすでに160センチを超えているので)170センチ用のを選び直した。そして言ったのだ。「コウちゃん嫌がったら、パパに着せるわ」と。はははっ。子が親のお古を着るのではなく、親が子の服を着る時代なのである。典型的な日本の家族だなぁ――ある人が言っていたが、「とっくの昔に日本の家族は母子家庭化しています」、まさにその通りなのである。子供が主役、家長という言葉は殆ど死語なのである。(今、「家長」といえば、それは「稼ぎ頭」の意味ではないか?)。話戻って。新しいセーターを見ても、「普段着のトレーナーでいい」と言い張っていたコウちゃんであるが、母と我も姉に応戦して「新しいセーター、似合うじゃないか」などと持ち上げた結果、昨日の表彰式にはそれを着て行ったようである。正直、姉の見立てだけでは、コウちゃんも折れなかっただろう。とっくに反抗期を迎えているようであるし、何より「親の好み」を無条件に受け入れる時代は終わり、今や自分のセンスを大事にする年齢になっているのだ。ほんと、今年のお年玉代わりの図書カードの袋にも一言メッセージとして書いたのだけど、「いつの間に、こんな大きくなったのでしょう」だなぁ。

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レタスのストレス

「工場で作ったレタス」が夕方のテレビに映っていた。農薬汚染が少ないし、雑菌もほとんどない、体にいい野菜であ~る。そんな見立てがあるらしい。しかし、しかし。そこにレタスのストレスはないのか? 狂牛病だって、鶏インフルエンザだって、わがままに牛や鶏を飼育しむさぼり喰ってきた人間への、自然の反逆だろう。(そのうち豚を使った反逆があるかも)。太陽の光も浴びず、根に土を触れさせない、レタス。そんなもの野菜だろうか? きっとそのうち、レタスにストレスがたまり、野菜による新手の反逆があるに違いない。そもそも、安定供給とかなんとかって、食べる立場の人間のことしか考えていないわなー。今やレタスに限らず、色んな野菜が工場で作られているらしいが、太陽のもと土壌で育つ野菜のおかげで生き伸びている小さな生き物たちが、この世界にはいっぱいいることがおざなりにされているわいなー。

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田舎の法事

来月の祖父の十三回忌の準備のため、先日より叔母(母の弟のお嫁さん)が帰省中。蔵にしまってあった古い写真のいくつかを額に入れたそうで、見るのが楽しみだ。床の間には、祖父手書きの『般若心経』の掛け軸をかけたそうな。それを聞いたとき、「いいのだろうか?」(浄土真宗では般若心経は読まない)と思ったが、「宗派にこだわるなんて愚かしい。故人の思い出の品こそが好かろう」とすぐに思いなおした。まあ、法事の前には誰ともなく言いだして、市販の『南無阿弥陀仏』をかけなおすことになる気もするが。午前は母と叔母が会席のお店に打ち合わせに行き、午後は母たちきょうだいそろって引き出物などの注文に。田舎の法事は大変である。

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手作り枕

◆今日の昼はタラ鍋。甥たちも肝を好まないので、せっせとわたしが肝を食べることに。夜は、タラと牛蒡の煮付け。ここでも肝が。当分「肝は見たくない」気分だ。
◆ちょっと早めの誕生日プレゼントだと、孫から「手作りの小さい枕」をもらった母。(これがなかなか上手くできている。市販のキットを使ったらしいが、まるでミシン目のような手縫いなのである。おばバカで書くのだけれど、特にコウちゃんは大人が驚くほど手先が器用)。どうみても昼寝用の枕なのだけど、母は、寝床にもそれをもち運んでいた。(で、翌朝は、また居間にもってきて、コタツで使用)。
◆重症歯槽膿漏はかろうじての小康を保っているが、今度は他の歯茎が口内炎のような状態に。「やわらかい歯ブラシでマッサージするといいよ」と聞き、マッサージしていたのだけれど、どうも、力み過ぎたらしい。

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