ともみ@ピクニック

ゆく年くる年なのだ

今年もあと一日!と思い、朝のうちの起床。眠い目にマッチ棒でつっかえをして、朝ごはんを食べるも、眠い。マッチ棒を2本にして、熱いシャワーを浴びるも、眠い。テレビドラマの再放送を見ながら、マッチ棒を3本に増やすも、眠い。濃いコーヒーを飲むも、眠い。そのうち、3本のマッチ棒がボキッと折れそうなほど瞼が下がってきたので、お布団に戻って、ぬくぬく電気毛布で眠る。(今年は電気毛布を使わないゾと思っていたが、寒すぎると眠りが浅くなるので、昨夜から電気毛布を入れている)。昼をいくらかまわって起床するも、どうも、寝た気がしない。薄々感じていたが、これは色々と気持ちのほうがメゲているのである。(気持ちがメゲると、とにかく眠りたくなる)。色々とは、まあ、正月は人と会う機会が増えるとか・・・そういうシャバの人付き合いを想像して・・・。しかし、いよいよ大晦日も半日を切り、ここで寝倒してはいか~ん!と、気合を入れて、今度はマッチ棒の5本立てにしたら、そのうち眠気もどこかに飛んでいた。それからは、搗きたてのお餅をもってきてくれたHちゃんと茶を飲みながらお喋りしたり、風呂の掃除を長々としたり、祖母宅にカニを食べに行ったり(今年は数えきれないくらいカニを食べた!)、親の家に戻ってオセロゲームをしたり、していたら、あっという間に夜も更け、気づいたら、新しい年が明けていた。

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ぐにゃぐにゃぐにゃ

これはわたしのオリジナルな発想でなく、先達たちも似たようなことを云っておられるが、これを認めたときからすっぽりとこれはわたしのなかの安定した位置におさまってきた。

   仏教は宗教の枠を超えている。

   禅は宗教でなく、生き方なんだ。

なのに、最近、ぐにゃぐにゃぐにゃと、これを認める自信が揺らいでいる。

思い当たるいくつかの理由はある。お経をありがたがるのって結局は宗教じゃないのー(誰だったか忘れたが、「経典も寺も燃やしてしまえ~」と云った故人(著名な日本人)がいたそうな。「自分の心のなかに確固たる信心があるから」の理由で。そこまで云えると気持ちいい!)とか、禅寺の高名な住職の「悟りをあきらめている」ようにも受け止められる発言を聞き、ショックを受けたとか etc。

漠然と仏教に興味を持つようになったこの半年余り、凹む材料もいくつかあったのだけれど、それにもメゲず、曇りなく、かなり素直に受け入れてきた(←わたしには珍しい)世界に対して、今、疑いの概念だけが独り歩きして(重箱の隅をつつくように!)、わたしの気持ちが折れ曲がりそうになっているのだ。

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ぶくぶくぶく

「大乗仏教の呪縛」につながる話であるが、親の家に戻ったら、瀬戸内寂聴さんの言葉を引用したこんな新聞記事が目に入った。「(忘己利他の説明として)自分の幸福のことは忘れ、ほかの人の幸福や利益を常に思いやれ、そのため、無償の奉仕をしなさいということです」「尊いのは、悲しみ苦しんでいる人の手を取って、一緒に涙を流せる人です」。こういう言葉には静かにこうべを垂れるしかない。そして、わたしはぶくぶくぶくと海の底に沈んだ気持ちになる。息が、で・き・な・い(との錯覚)。

近江町市場はおしくらまんじゅうの賑わいであった。わたしは冷やかし顔で生鮮売り場をのぞきつつ、コロッケ屋さんで買った昔風コロッケを立ち食いし、コーヒースタンドでブラックを飲み、お餅を三種類(豆、昆布、黒砂糖)買い、早々に立ち去った。夕方早目に親の家に戻るつもりであったが、いつも10分ほどで金沢駅に到着するバスが30分もかかってしまい、結局、親の家に到着したのは予定より2時間近くもあとだった。

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自己と寄る辺

「哲学で人を救うことはできないけれど宗教には人を救う可能性がある」
誰かが云った言葉をこの数ヶ月ときどき思い出してはひとり頷いていた。

しかし既製品となってしまった宗教は
「救う道を指し示す」に留まり、「実際に救う」までには至らないのでは?
――と、このごろは、思いを修正しつつある。

結局どう転んだって自分ひとりで歩いてゆくしかないのである。

道元禅師の有名な言葉
「仏道をならうというは自己をならうなり」は
まったく疑いないけれど(←わたしの概念では)
一方でこの言葉にすがるような心境を寄せるとしたら
それはやはり「宗教」になるのだろう。

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追記*  この文章で宗教を否定したり肯定したりする意図はない。
      宗教を必要とする人は、それを寄る辺とすればいいのだ。

追記2* 宗教心は哲学の変形とはいえないか? 

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上の追記

「自分ひとりで歩いてゆく」というのは・・・

いろいろ端折った書き方になるが、

たとえば弥陀如来であろうと、大日如来であろうと
それはつまり自分自身なのだ

という発想も含んでいる。

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今年もあと3日

昨日は <早く眠れば、翌日「早起き体」を望めるのでは?> との淡い期待を抱いていたが、過去何千回と失敗しているとおり、見事、「そんな甘くねぇぜ」であった。「その日は早く起きた」とか「最近睡眠時間が少ない」とか「肉体が疲れている」など、良質の睡眠を誘いそうな原因は、殆どわたしに作用しない。これは人生を左右する大問題であるが、未だ解決を見ず。「良質な睡眠を誘う」にも、それが働きやすい土壌があるんだろう。生活リズムの確保と最低限の精神安定が必要だと思う。

本日は13時頃に体を起こす。シャワー浴びて、蕎麦をゆでて食べ、PCをちょっと開いて・・・としていたら、もう15時半。「年末は血液が足りないの。予約の上、献血を」とのハガキが来ていたので、献血ルームに電話したら、「今日の予約はもうとれません」だと。ガクッ。年末ということもあり、買い物やその他済ませたい用事があったのに、結局、家を出たのが16時ころ。まず本屋を二軒はしごしたら、それだけで18時を過ぎていた。どうもおかしい、わたしの時間の進み方。ショッピングセンターでかねてより目をつけていた長靴を購入。(雪が降っても心強い!)。先週は連日、高級和牛などを食べていたので、「今回の金沢滞在時は質素な食を」と思っていたのに、いかん、いかん、久しぶりに大型スーパーを歩いていたら、予定外の買い物ばかりしてしまった。あああ。

先日の本、玄侑和尚が「私の立場では・・・言えません」と話す所がしばしばあったが、わたしが驚いたのは「本当の仏教を日本で広めるのは大変でしょうね」と玄侑和尚がスマナサーラ師に云ったところ。(←今手元に先日の本がないので、正確な書き写しではない)。ふと気になって、だいぶ前に読んだ別本を開いてみると、玄侑和尚は梅原猛さんを相手に次のように語っていた。⇒大乗仏教が山から下りて、世のため人のために働くのは、まず自分が太陽になった後だと思うんです。自分が泣きそうな曇った顔をしているのに、人を笑わせることはできない。私はこれを「大乗仏教の呪縛」と考えています。(『多生の縁』172頁)。うーん、この呪縛は前からわたしが自己に照らし合わせ「困った」と思っていたことである。ここにこのことが書いてあったなんて。

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ちょいとずれ

午前、金沢へ。ひと息ついたあと、D寺へ。参道入口に並んだお地蔵さんの頭がさざんかの枝でぎゅうっと押しつぶされそうになっていた。花盛りのさざんかとお地蔵さん、結構、壮絶な図である。年の瀬の日曜だからか、墓掃除をしている人々がちらほら見られた。帰宅後は、何が原因か知らないが、どっと疲労感があふれ出し、動けなくなる。夜、自分の下半身の冷たさに目覚め、(ヒヤリと氷を触るような冷たさ。足もお尻も)、「何もしたくない、でも眠れない」時間を過ごす。

一人暮らしのなかには「フライパンや鍋から直接食べる」(調理した器具をそのまま食器に代用)種族がいると聞くけれど、わたしはそれをしたことがない。しようと思ったこともない。だって「落ち着かない」と思うから。▼ただ使ったお皿をすぐに洗うという習慣が(特に一人でいるとき)わたしには殆どない。洗い物の溜まった光景は、日常である。▼ついでをいえば、「一度使ったカップを、また使う」というのも、全然平気。紅茶のあと、そのまま珈琲を飲めるし、昼に飲んだカップを夜にも使える。(ただし丁寧な淹れ方をするときや、気分を改めたいときなどは、ちゃんと新しいカップで)。▼自分よりも横着であったり非衛生的な生活をしている人を、「ずぼら」とか「不潔」とかの目で見ちゃうけれど、そんなのは「生活態度の軸がちょいとずれてる」程度の違いだと、わかって欲しい!

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つらら

起きたら、昨日よりも積雪。
つらら 庭木からは、つららが。(左は、昼近くの様子) 

 いいよ年末迫ってきた。
 お祖母ちゃんも本日より冬休み(自宅へ)。
 夕は親戚で宴会。


以前、わたくしが確証を得た「法則」を書いておく。
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   トイレの水をいちいち流さない人間は
   用を足したあと、手洗いもしない。
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この法則にのっとり生きているのは、やもめ暮らし族が主だと思う。
知らぬが仏、本人だけの秘密にすれば、誰にも迷惑はかからない!                 

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カレー饂飩

最高気温1℃。一日中、雪。ゆうべはカレー鍋。ひるはカレー饂飩。お風呂に三回入る。おだやかな師走である。

前日の本を読み終える。<肉体は自然(=不自由)ということを分からないと、心の自由はない>など、ふむふむ、と思うところ多し。これまで幾冊か拝読の機会あった玄侑和尚の対談本とは一線を画すものであった。特に前半は互いに違う方法で井戸を掘っているといおうか、玄侑和尚のいつもの博識ぶりが相手を巻きこむぺースにいかないといおうか、和尚の「たじたじ」ぶりが随所ににじんでいるのである。これは、日本仏教(大乗仏教)が身につけてきた手垢の多さの証しとなるかもしれないし、テーラワーダー仏教には在りながら片や日本仏教からは抜け落ちてしまった仏教の本質を暗示するのかもしれないと思う。さいごに、スマナサーラ師のさりげなくも強烈な(これを言われたら日本の仏教は一溜まりもない位置にいると思う!)一言をメモしておく。<ありがたく信仰するということは、科学的な態度ではありません。感情でしょう>。

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A・スマナサーラ

●アルボムッレスマナサーラ師(上座仏教の長老)と玄侑宗久師(臨済宗の僧侶)の対談本『なぜ、悩む!』を読み始める。気がついたら、頭の中が疲労困憊。「空即是色」は完全なる間違いである!という話や、お釈迦様の「十難無記」のことなど、今のわたしが容易に追いつける内容ではなく、でもだからといって上のそらで読み流すなどできない、思考の小部屋をひたひたひたと消耗させるものであった。今年のわたしの大きな出来事は「特に禅、日本の仏教のなかに学ぶことがある」と体感したことであるが、スマナサーラ師の語りに触れると、日本の禅宗もまだまだ足りないところがあるのだな、との確かな予感が走る。これはわたしの今後の課題につながるだろう。ところで、禅の修行をしていないスマナサーラ師が「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」という禅の公案に一発で答えたとは、これが意味することは見逃せないだろう。
●この頃、虹を見る機会が多い。つい先日は海と半島をまたぐ、太くて短い虹。今日は集落を包む大きな虹。(母によると、もとは二重の虹だった)。ふうっ。3時のおやつに、お抹茶を飲む。世間ではクリスマスらしい。

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ウコン大根

●久々にストーリーらしきもののある長編の夢を見た。たぶん、その「終わり」のところだと思うのだけど、一本の木に次々と鳥が集まるのを、夢のなかのわたしは目の当たりにしていた。ただの鳥ではない。見たこともないような美しい姿の鳥だ。沢山の種類の。そして夢のなかのわたしは「これはお釈迦さんの木だ」なんて思っていたみたい。最近、明恵の本を読んでいるので、その影響であろうか?
●母が大根のビール漬を作ったのだけど、その際、「和カラシと間違えて、ウコンを入れてしまった」らしい。できあがった品、母本人はおいしいいと言っているが、わたしの舌には少々苦く感じる。
●週間天気予報では、今日が年内最後の「晴れマーク」のある日。お墓に行って「今年もあと少しです。なむあみだぶつ」と挨拶してきた。連日、氷点下の朝が続いている。あすの朝も冷えるのだろうか。

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つれづれ感想

入院中の乳児の点滴に「ポカリスエットの混じった古い水」を注入したという女性、昼のニュースで「容態が悪くなれば、ずっと娘に付き添えると思った」との動機を聞いたので、「愛情と執着が混乱したゆえ、ここに至ったのか」と、わたしは苦い感想を抱いたが、夜のニュースでは「この乳児以外の娘たちも、幼いうちに亡くなっている」の説明が加えられており、今度は「あれは言い逃れの動機だった?」の印象が。そして絵に描いたような悪人をにわかにこの母親にあてはめてしまった。◆今、この日記を書きながら、「いちいちの情報でオセロゲームの駒を白黒させるごとく心象を変える、日和見な人間だなー、我も」と省みる。普段はテレビ番組のゲストなどが「まるで自分は正義の遣者のような顔をして、報道の中の悪の像に憤慨し、悪を裁くごとく感想を述べる」姿に嫌悪を感じているのに、結局、おのれの心のなかも、それと同じなのである。◆ところで、執着の暴走した「愛情」仮面と、わかりやすい「悪」と、どちらが罪深いのか、わたしにはわからない。そもそも罪を比べることが愚かしいのかも。毎日新聞のHPには、<子供を病人に仕立てる一方で献身的に面倒をみる行動は精神疾患の一種「代理ミュンヒハウゼン症候群」に特徴的>とあった。

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『恋のバカンス』

しばらく前から母の鼻歌が復活している。(正確には鼻歌ではないかも。歌詞付きだから)。元々、「誰かが歌をうたっていたら、勝手に合唱をする」(「誰か」とは周りの人であったりテレビのなかの人であったり)は勿論、台所に立ったり、自転車に乗ったり、廊下を歩いたりしてるとき、すぐに「~♪~♪」と、唱歌や昔の歌謡曲を歌うのが、彼女の癖。今朝は居間からトイレに向かう途中、「溜め息のでるよぉ~なぁ~♪」と、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』を歌っていた。(この曲は朝の連ドラで最近よく登場するから、影響されたのだろう)。一方、お祖母ちゃんは今日、椅子に腰かけて『ドロップスの歌』」(タイトルはわたしが勝手につけた。大正時代の歌である)をうたっていた。たまたま近くにサクマドロップスがあったからなのだけど。有り難く、平和である。

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ホットヨーグルトドリンク

▲朝のNHKテレビを見ていたら、「今、上野動物園で歴代パンダの剥製を公開してまーす」と中継紹介されていた。ショックである。「これを見て、うわぁ懐かしぃとか、かわいぃと喜べというの?」との発想の前に、パンダが剥製にされていた、その事実がショックなのである。永遠の眠りについたあと、パンダにそういう処置がされていたなんて!(まさか解剖までも?)。生存中のみならず、永遠の見世物パンダなのである。
▲昨夜、ホット牛乳を飲もうと思い、冷蔵庫のいつも牛乳の入っている位置からパックをとりだし、マグカップに注ぎ、レンジで温め、いざ取り出してみると、分離している~!(←半濁液が上澄みとなり、カッテージチーズもどきが所々に!)。もしや腐っている?といぶかり匂いをかぐと、ほのかに甘くて酸っぱい。む、むむむ。冷蔵庫のなかのパックを確かめると、それは牛乳でなく、ヨーグルトドリンクであった。うはっ。好奇心から、温められたそれを飲んでみると、意外にも、おいしいっ。そのあと「おかわり」を作ったのだけど、今度はレンジ時間を短くしたので分離もしなかった。
▲ひと月ほど前から庭の山茶花が咲き始め、今はわんさか咲いている。山茶花の花びらは一枚ずつ落ちるので、苔まじりの地面が、今はピンク模様になっている。

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今年もあと10日

雨。しかも小降りなんてものじゃない。すこし迷ったが、参禅。▼おのれの怠惰な国民態度を明かすのは若干「恥」の感情がないでもないが、書いちゃおう。→ 今になって平成18年度分の確定申告をしている。こういうのは「手をつけないと、とことん億劫」に感じられるけど、いざ、始めると、すいすいすいと進むのね。ひとまず国税庁のHPにて必要事項の入力を済ませたので、あとは確認などの作業をすれば、ゴールは近い。ちなみに、次年度の税金はとっくに払ってあるので、その戻りのお金が6万以上もあるようだ。涙が出るほど、嬉しい。▼今夜親の家に来客があるため、夕方あわててアパートを出る。今にも雪に変わりそうな雨である。▼香林坊から一緒にバスに乗った老紳士が、女房と思われる老婦人を座席に座らせていた。ふと思ったのだけど、こういう日常の行為(西洋風にいえばレディーファースト)を長年受けてきた女と、まったく反対の「女房を立たせても平気な顔してる」ような男と一緒に生きてきた女では、女としての成り立ちに確実な違いが生じるのだろうな。守られる安心感はいくつになってもどんな女でも心の底では求めている(と思う)。

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