ともみ@ピクニック

お勤め

ゆうべは雷&大雨だったが、きょうは終日ほどほどの雨。この数ケ月の母の心配ごとであった一周忌の法事がやっと終わった。どうもわたしは「お勤めせねばならん」と法事をとらえることができず、「シャバの人付き合い」のための行事程度の感覚しかなく、この数ケ月、そして直前になっても当日になっても、非常に冷めていた。(客を招待することから、自宅での法要なのでそれに纏わるもろもろ準備、その後の会席のこと、引き出物の内容など、しきたりを重んじてコトを運ばねばならんと、親世代は思っている)。が、しかし、さすが大勢のお客様を迎えるとなると、気は張るし、いろいろ疲れる。会席が始まるころには頭がぽーっとなって、始まりの挨拶はしどろもどろの挙句、なにを言ってるのか自分でもわからん状態になってしまった。ぐふん。「ともちゃんがしっかりとこのお勤めをしきっている」と全くの勘違いしている親族が大勢いる。違うんだなー。と理性ある我は言いたいのだが、そういった労いの言葉をかけられると、何も考えず、「うんうん、あの親だったら、しょうがないでしょ」なんて、テキトウで無情な返事を返す始末。きょうは姉に文句をいっぱい言ってしまったし、お客様との会話もみじんも真心が入らなかった。結局は、自分自身の態度にクヨクヨな日なんだなー。あす以降は、借りた座布団を返したり、仏様用の掛け軸を返したり、近所にお配りものしたり(大半は今夜母が済ました)、各種支払をしたりの仕事が待っているが、すべて姉と母に頼むのである。

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姉弟体操

◎夜は叔父夫妻や祖母と宴会。「今、こんなの流行ってるんだって」と叔父(60代半ば)が「やきとりじいさん体操」(←クリックを実施披露。メタボ体系、髪てっぺん薄々の体が、お酒のせいか妙に軽く動く。腰をくねくね、腕を串刺しポーズなどなど。途中、「体にいいらしいよ」の付け加えを聞いた母も立ち上がり、見よう見まねで一緒に体操を。姉弟で「やきとりじいさん」はかなり壮絶だ! 3月には祖父の十三回忌を予定しているので、「法事の会席で、四人姉弟(平均年齢70歳)揃ってこれを披露したら、かなりイイんじゃな~い」のアイディアまで飛び出した。
◎お風呂、「下着持ってきてないからいいよぉー」と断ったら、叔父が言った。「僕の友達、同じパンツ4回はくの。まず普通にはいて、次は前後を逆に、次は裏っかえし、次は裏っかえしの前後逆。だから替えの下着がなくても平気~」。
◎今日も姉が掃除に来てくれたので、わたしはぼやぼや過ごし、結局は庭の落ち葉を拾うくらいの手伝いをしただけ。

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気合を

ハムエッグの朝ご飯。午前中は親のハガキ印刷を主に。イカとアジの酢漬けの昼ご飯。午後はブログを更新したり、祖母の顔を見に行ったり。豚の生姜焼きの晩ご飯。夜は二宮君のドラマを見たり。その合間合間に足湯も。ぐほんっ。今度の日曜は法事なので、本日、姉と母が家の掃除をしておった。我は今日さぼってしまったので、明日は気合を入れねば。なんだか気持ちが忙しい。今日も雨降りだった。

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思うこと

最近のおさわがせ事件を起こした犯人、「小さい頃に飼っていたネコを保健所に殺された恨みがあり、その仇打ちだ」と動機を明かしているらしいが、んなこと、ないだろう。んなことも、もしかしたらあるかもしれないが、それだけではないだろう。どう考えても、犯行動機を記した手紙を送った相手=父親に対する積年の感情が働いている気がしてならない。ところで、何ヶ月か前に、このブログで「世間で起こっていること(良いこと悪いことの区別なく)は、自分の内面とつながっている気がする」という意味のことを書いたけれど、確かにそういう考え方は仏教でもあるらしい。えーっと、四文字熟語。(←忘れた。ちなみに、それを知ったとき、背筋にぞくっとするものを感じた)。世の中ではおさわがせ事件がやっぱり増えているの? それは、犯罪に手を染める本人だけでなく、傍観者である我々の無意識もが導いているように思える。

↑ 途中、「おさわがせ」じゃあ、被害者やその身内に失礼な書き方か?と思い、「おさわがせ」をブナンな言葉「卑劣」と書き換えたりしたけれど、それじゃ、この文章の全体のニュアンスがずれると思い直し、また元に戻した。

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ラーメン

◎およそ半月ぶりのまるまる晴れ日。冬の太陽は北陸生活では本当に大切だ。頑張って午前中から行動開始。いろいろ用事を済ませる。途中、前から気になっていたラーメン屋の近くを通ったので、思いきって(ラーメン外食出費にはやや気合が要る)暖簾をくぐる。繁盛しとるよう。しばし席の空くのを待つ。店の一番オーソドックスなラーメンを注文したら、「煮干し&とんこつ」スープであった。とても懐かしい味。あれは・・・? 昔、母の友人シンボさん宅でときどきご馳走になったラーメンを思い出した。
◎きのうと、おととい、朝のD寺へ。これまで金沢では不動産屋と町会の班長と歯医者しか顔を知る人のいなかった我であるが、初めてそれ以外の顔見知りといっても間違いではなかろう程度の知り合いがお寺の縁で出来つつある(←長ったらしい書き方だ!)。正直、うれしい気持ちもある。
◎親の家に、夕食の前に戻る。

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謎の物体

中沢新一の『三万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』を読み終える。著者や本書について好ましい評価をされない人もいるようだが、わたしは素直に著者を尊敬するし、大きな流れでここに書かれていることを支持したいと思う。ところで、アボリジニ(オーストラリア原住民)の老人のように、世俗を離れ、一人青空を眺めながら死の世界への移行の準備をする生き方は、本来、多くの場所で見られたのかもしれない。▲おととい一目惚れしたスニーカーを、きょうの午後「えいっ」と購入。眺めているだけで嬉しくなるデザインである。大事に履こう。あと、タイツと、母への早いクリスマスプレゼント(ワコールの寝るときに肩を温めるグッズ)も購入。ほんとは防寒長靴を買いに来たのだけれど、あれこれ迷った挙句、他の買い物で懐も寂しくなっていたためもあり、「今日は止~めた」とした。▲長いあいだ使ってなかった料理酒。にゅうめんを食べるのに、開封済みのビンを手にしたら、水面に何やら厚みある物体が浮いている。えっ、ええ? 緑色のビンから透けて見えるそれは、ビンを揺らすと一緒になって、ゆらゆら、ゆらゆら。しばし悪戦苦闘の末に取り出したゆらゆら物体は、キノコに見まごう色&柔らかさであった。あれは何? 料理酒は、お酒のほかに水飴とか色々入っているらしいので、それらが何らかの化学反応を起こしたのだとは思うけれど。

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土いじり

世間は連休らしい。ふぅん。大きな音をたて、雨が降ってるよぉ。日中は一歩も外へ出ず。「あすの沖縄は最高気温が22度、やっと夏日から解放されるでしょう」とラジオの人が言っていたけれど、こちらの気温はその半分もない。▼きのう、イチゴ畑の畝に「粉々の葉っぱ」が所在ない顔で落ちていた。先日の氷にやられたのだ。そしてそこには、しゃがみこみ黙々と何かを埋めている母の姿も。「ご飯(=肥料)あげてるのかな?」と思ったが、違った。「畑のなかにニンニクを埋めておいたら、虫やネズミよけになる」と言ってわざわざTさんが持ってきてくれたニンニクであった。▼「家族の愛情でさみしさを埋める」という現象は確かにあるだろうが、結局それは部分的なフォローに過ぎない。行きつく先は、「自分で自分を埋めるもの」を見つけるしかない。誰だって。年齢は関係なく。黙々と土いじりをする母を見ていると、「これが彼女の救い」なのだと、おのずと思えてくる。彼女にその自覚がどれだけあるかは知らないが。

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雨のD寺

午前の電車で金沢へ。親の家辺りでは、スズメがちゅんちゅん、久々の青空を喜ぶような声で鳴いていたので、まさか天気が崩れるとは思わずにいたが、金沢駅を出たところで待っていたのは冷たい雨だった。濡れながらアパートへ。荷物を置いて、すぐに傘さしの自転車運転(←違法)でD寺へ向う。▼着いたなりは体が発熱しており(道中ほぼ上り坂)暑かったが、次第に雨に濡れた体が冷えて(傘は十分な雨避けにならず)、「寒いヨ、寒いヨ」と思いながら坐る。▼坐禅のあとの茶話会では、キクチ兄様が「今春行ったインド旅行の思い出」を、PC写真を見せながらお話されたが、そのなかで、こんなことがあった。「禅宗では霊魂の存在を認めていないけれど・・・、ワタクシはそれは違うんじゃないかと思います」の前起きのあと、これは心霊写真に見えますなぁ的な写真を見せて下さったのだ。ううむ。ううむ。▼修行の場において、この兄様のような自由さは稀少だと想像される。初めてお話を伺った先月からの印象なのだけど、彼はおもしろい坊さんになる気がする。

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お披露目

親戚宅の新築お披露目会に招待されており、母と一緒に出かける。「午後3時集合。お茶でも飲みにきて」と聞いていたので、てっきりティーパーティ、もしかして仕出しの料理でもとって早い夕食かしら、と思っていたが、なんのなんの、ひじょうに長い時間の会合であった。一次会がコーヒータイム、二次会は部屋を移してのお茶会(二階に水屋をこしらえてあった)、三次会は近所の料亭にて豪華な日本料理、四次会にまた新築家に戻り、食後のお茶を。そして大そうなお土産をもらっておいとましたのは、普段母が床に入っている時間であった。▲さて、新築の感想であるが――。正直、「いいなぁ」とはあまり思わなかった。間接照明には「なんか違う」と感じ、家のなかにも「石庭もどき」のスポットが何箇所かあったが、「??」。台所にはプロも驚く最高級のシンクがあったけれど、これも「そうかなぁ」の印象。また近所に住む息子夫婦からの贈り物として、超デカイ、最新のテレビジョンが4台も買いそろえられていたが、はたして、老夫婦二人の家にテレビが4台も必要なのかと疑問である。まあ一言でいえば、「これが田舎の趣味」なのだろう。なんか悪口っぽい語りになってしまったが、さにあらず。純粋な感想である。▲全体として「見せる」在り方がカタログから抜け出したようなんだな。あちらこちらに高級っぽいお花が活けられていたが、普段から野の花を見慣れている我には、なんだか「とてもウソっぽく」も感じられた。また掛け軸や絵なども、まだ部屋に馴染んでないようで、要は、そういったモノたちが時間をかけて、あの家に馴染み、モノの心を感じられるようになったら、全体としての味わいが醸し出されるのだろう。なお、気になったことがひとつ。仏壇の隣に、とても古そうな観音様が。あれはどこからやってきたのだろう。

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「僕、普通のひと~」

夜は、おでん。今季初めての、おでん。小さな蕪があったので皮のまま、まるごと投入。じゃが芋も芽の穴をとっただけで皮をむかず、畑からやってきたばかりの人参もごしごし洗い皮のまま適当な大きさに切っただけ。その他いろいろな野菜や大豆製品などなどを鍋でコトコト一時間余おどらせる。あとは段ボールのなかに新聞で包んだ鍋を入れ、コタツで休ませるという、エコ好き人間の喜びそうな保温方法をとってみたが(食べる前にもう一度台所で温めて味を最終調整)、考えてみると、これでは「一度も冷める時間がない」ため、よく煮えてはいるけれど、味のしみ方はいま一歩。ぐふんっ。(翌日温め直したおでんは味がふかくしみこみ、特に大根なんて舌と上あごの間においただけで形が消えるほどの柔らかさ!)。ひとつグチるなら、在庫が少ない&面倒くさいの理由で「たまごを入れなかった」のが心残りだ。次回のおでんには、たまごを入れよう。▲運動も芸術も書きもの、わりとちょくちょく大きな賞をもらってくるコウちゃん。先日、新聞社の人間がコウちゃんの入賞祝いをもって自宅に来た際、「わーん、コウちゃん、ばっかり~。コウちゃん、スゴイひと~。なのに、僕、普通のひと~。わーん、わーん」と、ケイちゃんは泣き出してしまったそうな。ぐふふ。このケイちゃんは前から「負けず嫌い」な面が強いと思っていたが、「僕、普通のひと~」と泣いて悔しがるとは・・・。おそらく兄(コウちゃん)への尊敬と自慢にまじり、九歳ながらの悔しさをいつも感じているのだろう。あと十年、二十年、この悔しさがどう変化していくのか(あるいはしないのか)楽しみでもある。ところで、この一件のあったあと、コウちゃんは「・・・・賞をもらうのは嬉しいけれど、あまり喜ぶと弟が悔しがるので、コッソリと喜ぼうと思います」と学校の日記だか作文だかに書いたらしい。

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11月の雪

◎きのうの夜、ドサッ、ドサッという音がときどき聞こえた。なんだろなぁ。まさか雪のわけないし。と思いつつ、寝床に入ってからも、ドサッ、ドサッは続く。どう考えても屋根から雪の落ちる音。まさかのまさか? やっと温まった布団を抜け出し、廊下のカーテンをあけると、い、い、一面、庭が白くなってる。ひぇ。まだ11月だぞ。それもやっと下旬になったばかりの。(テレビのお天気兄さんが云っていたが、平年より早い初雪らしい)。どおりで寒かったわけだ。
◎午後から単身生活。姉の用事を頼まれ、母が姉宅にお泊まりに行ったのだ。ちょっとウキウキするような、特別の日って感じ。姉の車で母が出かけたあと、なんとなくの「かいほうか~ん」を感じつつ、しかし結局はいつもどおりの静かな日を過ごす。うとうと炬燵で昼寝したり、祖母の顔を見に行ったり、夕ごはんを食べたり、テレビ『七瀬ふたたび』を見たり、ぼやぼやしてるうちに夜中になって・・・。ただ最近にしては夜更かしをしたかなー。

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ぶひっ

上記、母に失礼なことを書いているとも読めるだろうが、そうではない。お互いに、誰だって、非日常は大切なのである。

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難しいけれど

一般に人が人を好きになるのは、大きく分けて二つあるように思う。「好意をもってくれている」という人間関係の感触が、自分の気持ちに火を付ける道と、相手の気持ちには関係なく、ただ相手の外見や人格やふるまいなどを見て好きになる道。そして、ふと思ったのだけど、人が人を嫌いになるのにも、大きく分けて二つあるのかなー。相手の外見や人格やふるまいなどを見て嫌いになる道のほか、「嫌われているらしい」という人間関係の感触が、おのずと自分を守る無意識を働かせ、いつのまにか自分も相手を嫌いになっている道。まっ、そんなことはどうでもよい。大事なのは「人を好きになる」そして「人から嫌われる」このいずれをも恐れないことなんだろう。とっても難しいけれど。

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縦じまの雲

祖母のところ(4階)で海を見ていたら、海面から縦じま模様の雲が立ち上がる景色に出くわした。これ、冷えた空気によって海水から水蒸気の昇る「気嵐(けあらし)」という現象らしい。▼今週は、気温が先週の半分しかない。ひぇ、ひぇ。早朝地面を強く打つヒョウの音を子守唄に眠り、昼に起きたら「直径1センチあるヒョウが降ってたの。隣の畑が真白だった」と母に聞かされた。ひぇひぇ。昼から夜にかけても、ヒョウが降ったり、雨が降ったりの繰り返しで、先日から雷の鳴る日が多かったけれど、いよいよ本格的な冬が近づいているらしい。▼河合隼雄さんの『ココロの止まり木』をやっと読み終える。こういう温かで教養ある、しかも人の痛みを知りつくした方のエッセイは貴重だなぁ。ところで本書を読み始めたころ、「前にも読んだことある?」と思ったが、よくよく考えてみると、昨年の夏だったと思う、このなかのいくつかの文章がラジオで朗読されていたのである。(それを聞いたときの場所をはっきりと、それを聞いたときの自分の様子をなんとなく、覚えている)。▼いい歳のとり方とは人それぞれ違う価値観をもっているだろうが、わたしの思うそれは少なくとも「肉体的なアンチ・エイジング」ではない。一言でいうと、「旅立ちの心構えを知らず知らずのうちに覚えていく」という感じかな。河合隼雄さんのエッセイを読んでいると、まさにそれをなさって河合さんは旅立たれたのだろうなという想像が生まれる。

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「足りる」

ひとことで言うと、「足りているヒトを見ると、ヘドが出そう」。というのは常にある。「どーして、それで満足しちゃうの?」と。とくに、与えられるままの狭い世界に満たされ、それに疑問をもたずに生きている人をみると、自分とのあいだの“絶対に分かり合えないもの”を感じてしまう。特に同年代以下でそういうヒトと会うと、なんだかとても寂しくなってしまう。一方で、餓えの大地をただよい歩いた挙句、「足りる」を見つけたヒトには、尊敬の念を抱いてしまうことも。▼狭い世界がいけないのではない。上記は言葉足らずだったので補足しておこう。うーん、なんといおうかな。「暮らしが安定しているから」とか「人並みでいられるから」とか、そういう価値観にあぐらをかいた上の狭い世界のことをいいたかったのだ。ありていにいえば「レールに乗った人生に満足している」人や、「与えられるもの(例えば故郷)を盲目的に認められる」素直さにも、わたしは自身との隔たりを感じてしまう。ここには、わたしの人間的欠落が影響しているんだろう。▼ここまで書いてきたなかに大きなモンダイが。「狭い世界」だと? どんな環境だって「限られた狭い世界」であるし(たとえ宇宙に飛び出しても)、どんなヒトだって「限られた狭い世界」に生きている。同時に、どんな環境だって「無限とつながっている」し、どんなヒトだって「無限のなかにいる」のでしょ。しかしそれを言いだすと話がこんがらがっちゃうので、ここでは便宜上「狭い世界」としたのだ。また「レールに乗った人生に満足している」とハタから見るのも、ほんとうは違うんだろうなぁ。

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