ともみ@ピクニック

「苦しみを悩みにしない」

●小さなことから大きなこと、何も決められない。ちょっと健常者ではわからない感覚だろう。たとえば、すごく喉が渇いて、なにか水分をとりたくても、そのとき、目の前にある炭酸水を飲めばいいのか、ひとつ隣の角にあるノンガスのお水を飲めばいいのか、わからず、「喉がからからだ」と心のなかで呟きながら、「ここ」と「ひとつ隣の角」を、行ったり来たり、行ったり来たりの、繰り返し。このままでは脱水症状になってしまうとわかっていても、「とりあえず」の水分補給さえも、ままならない。(この精神状態が長く続くと、「餓死」に至るのだろう。餓死に至る道は無数にあろうが、これも餓死への一歩だと思う)。もちろん、上の話は「たとえ」話であり、実際に「水を飲む、飲まない」の話ではない。
●昨年辺りまでは、しんどい精神状態であっても、日記を書く気力だけはあったように思う。しかし、このごろは、日記どころか、パソコンに近づく気力さえもない。(日記を書くのは、わたしにとって精神の自慰であり、このごろは、それをすることすら、億劫なのである。自慰をするには、自慰の対象を眺めなければならず(眺めたふり)、今のわたしには自慰の対象を眺めることすら(眺めるふりすら)億劫、ということなのだろう)。


20080805020813 

 苦しみを悩みにしない
              とは板橋興宗さんの言葉


「森田療法の効用」と題した記事のなかで、宇佐晋一という方(三聖病院院長)がこんな話を書かれている。*****悩みや神経症性障害は、その渦中にあって本来の生活よりも自分の心の問題を優先的課題として取り組んだ人びとが、概念化した自己像の破綻を、さらに別の概念によって解決しようとする回復への努力を熱心に続ける姿であるともいえる。この熱意は完全主義的傾向で、これがなくては悩みも神経症性障害も生じないのである。したがって、どう解決したらよいかという問いかけに対する答えからは回復はもたらされないばかりでなく、そのことごとくが概念と概念の対立を生じて、役立ちそうな意見も理論もすべて自家撞着なのである。(雑誌『大法輪』8月号より)*****うーむ。ならば、どうすればいいのか? の答えだが、「苦しみを悩みにしない」ということなんだろう。

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あわてて死ぬことはない

こんな客観的な(?)観察ができるのだから、まだまだ狂気の域からはほど遠いと安堵していいのであろうが、「かなり厄介な心身の状態」にある、と、臥したままの頭で思う。◆久しく遠ざかっていた、うつうつの大波が押し寄せているようだ。かなり、ヤバイ。意識を覚える状態になると、とにかく、とにかく、辛くて、苦しい(もうちょっとマシな形容はないか?とも思うが、ひとことでいうと、ここに行きつくのである)ので、覚醒しては睡眠界へゆき、覚醒してはまた睡眠界へゆき、の繰り返し。室温35度は超えているであろうなか、体は鉛のごとく重く、隣の部屋の(去年から出しっぱなしの)扇風機のスイッチを押すことすら、できない。喉が渇く感覚さえもてず、水分補給なしに、ひたすら睡眠界を泳ぐ。えっと、この半月余りを思い返せば、「軽~中ほどのウツウツの波をかぶったり、逃れたり」をずっと繰り返し、ときには「今の状態は単なる『怠け病』なのでは?」の余裕が生まれる瞬間もあったけれど、あれは(軽いウツウツの波が引いたり寄せたりしていた日々)この大波の前兆であったのか。◆ずうっと前に、ニュースで知った「餓死した人」のことを、「お金がなけりゃ、泥棒でもなんでもして、生き延びればいいのに。なぜ、餓死などする?」と、お気楽な日記を書いた記憶があるけれど、今なら、わかる。餓死をする(*)人の気持ちが。でも、わたしは餓死など、しないが。

(*)餓死は、なにも「餓死するゾ」と積極的に選んだ末の結果ではなく、無作為の作為が大方であろうと思う。

親鸞の生きた時代、「今の苦しみを早く逃れ、あの世に行って極楽に暮らしたい」と、自死に憧れるお坊さんがあとをたたなかったという。彼らは山に入り、ものを食べず、肉体が枯れゆくのを願ったのである。そんななか、唯円が親鸞に問うた。「他の坊主たちは、早くあの世に行きたいと、死を急ぐのに、わたしはちっとも死にたくはありません。どうしたことでしょう」。親鸞はこう答えたそうだ。「それは煩悩があるからだ」。ふむ、この煩悩とは、現世への執着と言い換えてもよかろう。しかし、親鸞にかかると、煩悩は決して嫌うべきことではなくなる。「煩悩をもった者こそを、仏さまはあわれに思い、浄土に導いてくれるのだ」と。そして「往くべきときがきたら、おのずと往くのだから、なにもあわてて死ぬことはない」そんな意味のことも教えたそうな。

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歯医者卒業

やっとこさ、昼に体を起こし、午後から金沢へ。先週の歯医者をキャンセルしたので、「今日こそは行かねば」、人間界のお約束を最低限には守ろうとの努力である。歯医者では「総合点検」をしてもらう。これで2千余円。よい歯医者であるとは思うが、わたしにとっては、お金のかかる歯医者であった。これまで、ずいぶんの大金を払ったと、今さらながら顧みる。もう当分、歯医者には行かんゾ。●前回の金沢滞在時から、「あれれ?」と思っていたのだけれど、階下(真下ではなく、真下の隣)の部屋が、外に、ブルーテントを大々的に張っている。(アパートの部屋から続く幅広の庇のように)。そこの住人は年配のご婦人だと、あらかじめ不動産屋から聞いていたのだが、いつしか、中年の息子も一緒に住みついている模様。で、この息子、アパートの猫の額ほどの庭、よその部屋の敷地にも(たぶん無断で)野菜を植えていたのは、去年の夏か・・・・。今年はブルーテントを張り、夜になるとそこに「赤い照明」が灯るのだ。どう見ても、屋台の色彩。あるいは、ちょっと派手な路上生活者の居。という感じ。まったくやりたい放題の無法地帯なのだ。●アパートのすぐ近くの大野庄用水、お水がカラカラ、引き上がり、用水路の石底が見えていた。きのうの朝、あんなに雨が降ったのに? (この2日ほどあとに見たら、たんまりの水が悠々と流れていた。どういう仕組みなんだろ? この用水路は)

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チェ。

まだ夜が明けぬ時間帯だと思う。4時前頃か? カーンと、遠くで鐘が鳴った。(まだ起きていた。寝ぼけながら聞いたのではない)。「あれー? こんな時間に?」と不思議に思っていたら、その後も、しばらくのあいだ、間を置きつつも、カーンという鐘の音がいくどか聞こえた。実はこれまでの日々にも(こんな早朝ではない)真夜中の時間帯、遠くから鐘の音が聞こえることがあり、「こんな夜遅くになぁ」と思いつつ、さして気にせずにいたのだ。しかし、しかし。今朝の鐘の音は、どう考えてもヘン。寺の朝は早いといっても、こんな時間に鐘を鳴らすことなど、あろうか?(振鈴はあっても、鐘は鳴らさんと思う)。 ●そのうち、バリバリと天地の割れるような音が。雷だ。やがて、豪雨。布団のなかに入りながら、わたしはその自然のかなでる音を、気持ちよく、聞いていた。あとで知ったところによると、この低気圧のため、金沢の浅野川は氾濫し、親の家のある市でも「観測史上最多の降水量」を記録したらしい。北陸内外、相当の被害が出たそうな。しかし、しかし。雨水が不足している今夏、この降水は、恵みの雨であった点も否めない。●夜、鶴瓶のテレビ番組で、ホイアン(ベトナム)が舞台となっていた。久し振りに聞く、鳥が忙しくさえずるようなベトナム語。耳に心地よかった。(ベトナム語、理解できんが)。チェ(あんみつ)を見ていたら、むしょ~に、食べたくなった。

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ピンク色の雲

この2~3日、ずうっと頭にモヤがかかった感じだった。軽いウツ状態だと思う。まったく日常生活を行えないというのではなく、ガンバルエキスを出して、あれやこれ、必要最低限なことのうちのいくつかはできる。はたから見たら「怠け者」が入っている程度であろう。◆おおざっぱな分類をすると、「どうにもこうにもならない」重いウツ状態と、それより少しマシな、中くらいのウツ状態と、さらにはこの数日のような軽いウツ状態と、あと、殊更強くウツを意識しないでいられる状態(このときも、ウツ的なものは有るには有るのである。しかし、慢性的なウツを抱えている身としては、薄皮のようなウツがあるのは、空気同様、当たり前なのである)(=これがわたしの平常ともいえる)に、分けられるか。あと、人生のなかで指を折り数ほどの頻度であるが、ウツが消え去ったかのような時間もある。◆ウツウツ船に乗り、ウツウツの大航海に気づいたら出航している。そしてそれを耐えていたら、いつの間にか、もう一段軽いところに漂着している。の、繰り返しか。◆今日の夕方、雨が降り、一人留守番をしながら雨の音を聞いていたら、それだけで、気持ちが落ち着いた。「いつぶりかわからないくらいの安心した気持ち」を自覚した。そして、雨が止んだ、夕のひときは、ピンク色の雲が浮かび、空気の粒が見えるかのような外界を近くに感じ、ウツの大航海から、ひとまず帰ってきたナと、わかった。(と、調子に乗っていたら、翌日からまた調子が下降した)。

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西瓜Day

●「西瓜、食べた~い。誰かもってきてくれないかな~」と、昼に声に出して言っていたら、それからほどなく、お祖母ちゃんから電話があった。「西瓜もらったから、食べにおいで」と。そしてその晩、家の横に車が止まったなと思ったら、身長140センチほどの老婦人(母の知り合い)が、顔の5倍はありそうな大きな西瓜を抱え、「これ、食べられ」と玄関に現れた。ありがたい。
●未明、「ちょっとだけ」と思い、小説『中陰の花』を読み始めたら、止まらなくなり、夜が明けるのも気にせずに読み終えてしまった。これは方々で言われていることでもあろうが、仏教関係者(作者の玄侑宗久さんは臨済宗のお坊さん)がこのような作品を生み出すのはスゴイことだと思う。特に、禅の立場の人が「中陰」の話に触れるのは、とても思いきった、坊さんとしての縛りを解くようなものではないか。この玄侑さんはエッセイなどを読んでいると、とても科学的な頭の持ち主だと感じるが、親鸞が思想家ならば、玄侑さんは科学的な頭で仏教を斬る、とても現代人らしい文筆家とも言えそうだ。そしてそういう人が、中陰(あの世でもこの世でもないところ)の世界を描くのだから、そこにはただならぬ意味がある。
●余談だが、玄侑さんは、市川海老蔵に似ていなくもない、美男子だ。わたしはこの手の顔が苦手である。なんか正当派過ぎて。その奥には、わたしの遺伝子レベルの苦手をくすぐる秘密がありそうで。また、彼の知識の豊富さ、精力的な執筆活動ぶり、理路整然としたところが、コワくもある。その裏には「人に見せぬ野心」が潜んでおりそうで。(しかし、彼がもう20歳ほど老いていたならば、安心して彼の魅力を堪能できそうでもある。ヘンなわたし)。ところが、玄侑さんのある語りを読んでから、わたしのなかの苦手意識が減ったように思う。その語りとは、うろ覚えをまとめると、「私の寺に、たまに仕事を乞いにやってくる男がいる。他の者よりも仕事は早く、優秀なので、もうちょっと多くの日数を働いてもらいたいと思い頼んだが、彼は『また来月に来ますから』といって、それ以上働いてより多くの金銭を得ようとはしないのです。わたしは彼のことを今ではとても尊敬しています」というような話。男は普段、バス停で寝起きをしている、いわば浮浪者で、他の人が「あなた(玄侑さん)がその男を導いてあげなさい」と言っても、玄侑さんは「彼の今の生き方を変えるのがいいことなのかどうか、私にはわからない」と答えるのだ。ぐふんっ。浮浪者の男を尊敬していると言い切ってしまうところ、そして普通ならば「浮浪者を厚生させる」ことをよしとする考えに疑いなく陥りそうななか、玄侑さんは立ち止まるのである。ここに「人として信じられるもの」を、わたしは感じる。思い出したので、ついでに書くが、生家がお寺だった彼は、思春期の頃、「お布施」をもらい生活する生き方に、なみなみならぬ反発というか悩みをもったそうである。たぶん、「現金」をもらうことに汚らわしさを感じたのだろう。たしか、「お布施など貰わず、もしもキュウリが必要ならば、寺の門の前に“キュウリ”と書いておけばいいじゃないか」と父親に訴え喧嘩したとも。そして幾度も家出を繰り返し、仏道に入るまでには様々な職種を経験したらしい。ふううむっ。たぶん、わたしは「できる男に特有の胡散臭さ」を、玄侑さんに感じているのだろが、いつまでもそれにとらわれるのは、わたしにとって愚かなことじゃろうなあ。

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カモメの集会

●カモメの集会を、最近よく目にする。波打ち際の一角に、カモメが何十羽とたむろしているのだ。小魚が打ち上げられるのか、それとも、なにか大事な相談をしているのか。今日も祖母のところから見る海辺には、羽を休め、集うカモメたちがいた。
●午後、外科へ。順調に回復しているとの診断。しかし、ここまでくると「過保護」(自分が自分の体に対し過保護)な感じも、するなー。病院に行くこと自体、「健康を損ねているヒト」という甘え気分が生じるし、まったくもって指は普通に動くのだけど、箸以上の重いものは持たない、お姫様生活である。
●つい先ごろ「半月に向かって庭木に水やりしていた」と思ったら、いつの間にか満月を過ぎ、また半月にならんとする日々である。あっという間の人生、あせってもしょうがない。

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今の世を親鸞は何と言うか、知りたいものだ

カレーを仲良く一緒に作ったその晩、十代の娘が父親を刺殺したり、八王子の書店で無差別殺人が起きたりと、あいかわらずの世の中である。もう、団欒という幻を過信したり、格差や落ちこぼれといった分かりやすいことがらにだけ原因を求め、安易に安心したがる風潮は止めようヨという気持ちになってくる。◆話は飛ぶが、吉本隆明の『今に生きる親鸞』を読み終えた。わたしは今に伝わる浄土真宗というものを馴染みよくは感じられないし、また親鸞のいう「弥陀の本願」をまったく理解できていないが、親鸞の教えには(彼は宗教家というよりも思想家と呼んだほうが相応しい)心つかまれるものがある。◆以下、同書より抜粋。*****あるとき、親鸞が唯円に、「おれの言うことを何でも聞くか」と、質しました。唯円が、「祖師のおっしゃることなら何でも聞きます」と、答えると、「それなら人を千人殺してみろ。そうすれば往生は疑いないだろう」と、言うのです。(中略)。唯円が、「おおせではありますが、一人でさえも私の持っている器量では、人を殺せるとも思われません」と答えると、親鸞は、「それならば、どうして親鸞の云うことに背かないなどと云ったのだ」と、言って、「これでもわかるだろう。何ごとでも心に納得することであったら、往生のために千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき業縁がないからこそ、殺すことをしないのだ。これは自分の心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺害などすまいと思っても、百人千人殺すこともありうるはずだ」と、説いたのです。(中略)。すると親鸞は、「そうだろう。そうなんだ。人間というのは、何か業縁、因縁、あるいは動機があれば、人を殺したいと思わなくとも、百人、千人殺すこともある。しかし動機がなければ、人間というのは、一人の人間さえ殺すことはできないものなんだよ」と、答えたのです。(中略)。自分だけは特別だなんて考えるのは大間違いだ。かといって、業縁がなければ一人だって殺せない。そして、その人間は、別の人間ではない。つまり同じだ。そこの問題が解けなければ、善と悪の問題も、第一義の問題としては解けませんよということを、親鸞は徹底して言っているのです。(中略)。「業縁があれば倫理的に絶対に悪であることも、人間というのはふっとやってしまうことがありうる存在なのだ」という言い方で、親鸞は唯円の弁明をどんどん引き延ばしているのですが、その引き延ばされた範囲に、浄土という概念が含まれていると思います。人間の世界だけの判断でいえば、親鸞の言っていることは、とんでもないことになりそうですが、浄土という概念を自然に含ませてしまえば、もっと大きな意味で、そのことがありえるということがいわれているのです。そこまで人間の善悪は引き伸ばされていくということです。****(113頁~119頁)。◆また話は飛ぶ。八王子の書店の被害者が、もしも「ゼミのリーダー的存在で、未来明るい女子学生ではなく、たまたま書店に迷い込んだ身だしなみの汚らしい、世間の嫌われ者」だったなら、ここまで同情を煽るような報道がなされただろうか。わたしの頭のなかには被害者を悼む気持ちに負けずに(正直言えば「悼む気持ちを超えて」となろう)、そんな疑問が生じてしまう。また、カレーを一緒に作った晩に父親を殺した十代の娘よりも、たとえば過月の秋葉原事件の加害者男性に、非難の念が集まりやすいのは、前者の娘のほうが「人間的に下等な部分」が見出しにくく、清らかさが多そうだ、との、人々(外野)の直観からか。人の命は均しくて、誰でも平等・・・・、とは頭でわかってはいても、エゴに引っ張られ、知らずしらず、人は人を差別し、裁きのような感情を抱いてしまう。(殺人が罪ならば、何人殺したとか、殺した方法とか、殺した動機とか、尊属殺人か否かとか・・・そんなことは本来、問題にはならないはずだ。なのに、「これは同情の余地がある」とか「これは酷さ極まる」なんてのは、そこに(裁く側の)人間のエゴが挟まったゆえの意見である)。

*おまけ* 「エゴに引っ張られ、人を差別したり、裁きのような感情をもってしまう」のは、煩悩をもった人間の宿命なのだろう。エゴを人間から除いてしまったら、この世は「涅槃」になってしまうかも。どんな立派な論も批判も、エゴを下地にせずには成り立たない(のでは?)。仮に成り立つとしたら、それはもはや人間の産物ではあるまい。(当然、このブログだって、エゴのカタマリである)。

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『西の魔女が死んだ』

●あれはたしか、詩人の早坂類さんが映画の試写を見た感想としておススメしていたのだと記憶するが、『西の魔女が死んだ』は、ほおっておけない、すばらしい作品らしいゾと、わたしのなかにインプットされ、その翌日、書店に出向いた折、探すともなく、すぐに目に飛び込んできた原作本(映画と同じタイトル。梨木香歩・著)を、迷うことなくレジに運んだ。あれから数ケ月、頁をめくることなく枕元に置きっぱなしになっていたその本を、ふと「読んでみよう」と思い立ち、手にとると、ぐんぐんと物語の世界にひきこまれた。ふふふ。これを読むと、自分が永遠の少女になり、手放しようのない永遠の宝物に出会った気持ちになる。一級の哲学書であり、一級の実用書でもある。そして、魂を扱った、その文章はとてもいとおしい、かけがえのない小説である。
●今日も、外科へ。病院の決まりなのだろう、診察の前に「熱」と「血圧」の測定あり。あ~、「年寄りが病院好き」なのも、わかる気がする。と、わたしは思った。患者をいたわる優しい声と、かゆい所に手が届かんばかりの気配りで、あれこれ世話してくれる。年寄りでなくとも、こんな人々(看護師さん)のいる空間は、にわかな癒しを与えてくれそうだ。ごほんっ。年寄りは、人から関心をもたれる機会が少ない。順番がくれば「自分が主役になれる」病院は天国だろう。年寄りは、喋り相手が少ない。待合室でも診察室でも「喋り相手のこと欠かない」病院はサロンである。年寄りは、スキンシップに飢えている。看護師や医師から自然なボディタッチをしてもらえるのが病院。「病院好き」な年寄りが多いのは、ちゃんと理由があるのである。話は変わって、肝心の、わたしの指であるが、順調に回復しているらしい。筋肉注射をしてもらい、帰宅。

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だらだら記(珍しい体験なのでだらだら書いた)

先週の土曜、親戚たちと飲んでいた折、「冷蔵庫にアジ(開いてある)が残ってた。アジのナメロウを作ろう」との叔母の掛け声で、わたしも台所に立ち、調子にのって包丁をトントンしていたら、ザクッと、左手の人差し指を切った。とくとくとく、たら~っ。相当酔っていたわたしは、「はははは~、血が出た♪」と、おそらく大量の出血だったにもかかわらず、あまり気にもせず、叔父や叔母のいたれりつくせりの看護を受けたのち、(酔っ払っているから、痛さもあまり感じませんの)、またまた焼酎をたらふく飲み続けたのであった。・・・・・そして、その翌日、絆創膏を貼り替える際、なにがどうなっているのかわからないが、患部から絆創膏をはずそうとすると、体じゅうに激しい痛みが走る、たいへんな騒動となった。結局、長い時間、氷水のなかに指をひたし、なんとか絆創膏をはずしたのだけど。・・・・・当日もこの日も、叔父や叔母からは、もったいないほどの手厚い処置を施してもらった。これまでの約20年の一人暮らし、「40度の熱が出ても、自分で水枕を交換し、はいつくばって買い出しに行き、自分でお粥を作る」ばかりだったわたしには、まるでお姫様にでもなったような、いたわりのひととき。「くすぐったいまでに人に優しくされる感覚は新鮮だなー」と思った次第である。■ここまでは、前置きダ。昨日の夜(ケガをして3日目)、絆創膏を外したら、指がおかしい。ケガしてるから「おかしい」のは当たり前なのだけど、どうも軽いしびれを感じるのだ。しかも、そのしびれがある部分だけ、うっすらとした赤見がある。えええ? そして、正に包丁でザクとやってしまった部分であるが、はて、肉が盛り上がっているのか、爪が薄く残っているのか、いや爪の食い込んだところに肉が再生しつつあるのか・・・・・見た目ようわからん状態になっているのだ。(正直言って、見るのもコワイ)。これはイカンと思い、今日の午後、病院に行ったのでありました。(普通は朝から病院に行くのであろうが、起きたら昼だったのさー、ははは)。(病院を決めるまでも、ひと騒ぎ。「これは何科に行くべき?」から、午後も診察をしてくれる病院を探し・・・)。■結局、隣の市の外科に行ったのだけど、指を見るなり、医師「死んではないね」だと。うきぁ~。しびれている旨を伝えると、「神経、死んだんだね」だと。うぎゃ~。そのあと、「ま、再生する可能性は高いですけど」のフォローがあったから救われたが。(血が止まらないからといって、長い間、輪ゴムなどで止血してはいかんそうだ。30分も止血したら、神経が死んじゃうんだって。ま、過日も皆からそう言われつつ、酔いが勝り、時間感覚を忘れて止血していたようだ)。とにかく、とにかく、とにかく、「包丁で指を切る」のは日常茶飯事なのだけど、こんなことで病院に来たのは生まれて初めてで、しかも、しかも、しかも、「指」を看てもらうだけのために、診察台に寝かされて、拡大鏡の写真をばんばん撮られ(ケガの大小に関係なく、治療の前後には必ず写真を撮るようだ)、医師からは思いもかけない言葉(「神経、死んだ」とか)を聞かされ、なんか、急に重病人になったような気持ちだ。(処置をしてもらうあいだ、「心臓がドキドキする」と訴えて、看護師さんに手を握ってもらったほど!)。ふうっ。医師の診察&処置を終えたあとは、筋肉注射(ビタミン12)を打ってもらい、病院をあとにする。■処方箋をもらったので、帰り、薬剤師の叔母のところに寄り、薬をもらう。(薬は、化膿止めが2日分と、痺れ止め(ビタミン12)が7日分)。ちなみに、叔母は「△△(叔父の名前)にメールしちゃお~」と、白いテープぐるぐる巻きになったわたしの指を、ケイタイ写真におさめたのであった。案の定、その夜、叔父からは、「しばらく禁酒だな。うひひひひ」と、電話がかかってきたのであった。■以上、わたしにとっては珍しい出来事なので、つい、だらだら書きになった。■おまけ。わたしのかかった医師は、偶然にも「傷のケア」の専門家であった。病院の待合室の壁などに、取材を受けた新聞記事などが貼ってあり、拾い読みしたのだけれど、目からウロコ!な話ばかりであった。まず、ケガをしても消毒はいかんのだと。消毒しても、殺せるバイ菌はほんの一握りで、かえって本来の治癒力を奪うことになるらしい。また、瘡蓋(かさぶた)は「死んだ細胞」であり、治療のためにわざわざ瘡蓋をはがすこともあるという。そして、この医師が推奨するのは、おふろに入って、傷口をゆっくりしめらせる(?)こと。(傷に乾燥は大敵らしい)。なお、消毒はいかんといっても、患部は清潔にしとかにゃ、ならんよ。事実、わたしも診察室で、石鹸を泡立ててゴシゴシと患部を洗わされたのである。ううむ。荒行のように感じる面もあるけれど、結局は、細胞の再生能力を一番に生かし、それを邪魔する行為はやめましょう、ということなんだろう。

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塩大福

えっと、先週の終わりに梅雨が明けたらしい。じりじり真夏である。午前中、お祖母ちゃんがいつもの所(老人マンションのような施設)に戻り、叔父夫婦も関東の自宅に帰り、わたしも普段の生活に戻る。(普通の生活といっても、ウツの波から、ひとまず降りて、小康を保てるようになった、輝きの時間である。また、今日からは家に爺さんの遺骨のない朝を迎え、なにかひとつ人生のコマが進んだような気持ち)。余談だが、先週、玄関の前で、セミの抜け殻を見つけたっけ。◆お掃除してくれるヘルパーさん、入浴の見守りしてくれるヘルパーさんなどを、お祖母ちゃんは頼んでいるのだが、昔のヒトというかなんというか、彼女はヘルパーさんたちと「お金で割り切る」付き合いができない。自分の年金で費用を払っているにもかかわらず、とにかく、何事にも、「申し訳ない」の思いがついてまわるようで、それこそ、「自分のために一歩歩いてもらうだけでも、申し訳ない」と考えているフシがある。だから、お仕事を頼んでいる契約時間内であっても、できるだけヘルパーさんに休憩してもらうことを求め、「あれ食べて、これ飲んで」と、分け与えるのである。あるとき、わたしがそのことを叔母に告げ口(?)したら、「ヘルパーさんには接待しなくていいのよ」と諭された、お祖母ちゃん。しかし、今日も、お祖母ちゃんは、叔父がもってきた土産(老舗の漬物が何袋も)をヘルパーさんに配るべく、算段していたのであった。こうなると、「も~、しょーがない、これがお祖母ちゃんなんだから」と、黙って見ているしかないのである。◆昼に、「塩大福もらったから」と、お祖母ちゃんから呼び出し電話がかかり、午後再び、お祖母ちゃんのところに顔を出す。んで、塩大福って、初めて食べたのだけど、名前のとおり、しょっぱいのね。

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旧「海の日」か

きのうの夜中、爺さんの骨壺の前に、じ~っと座り、「この骨を齧り、腹におさめてしまえば、(これまでのように、そしてこれからもそうであるだろうように)意識を駆使して自分の心を慰めるばかりではなく、まっすぐに『爺さんの骨を摂取した、自分の体』という記憶が、自分を慰めてくれるのではないか?」と、これまでも何度か思ったことを、思ったり。そして骨壺を抱きしめてみたり。◆爺さんの魂は、こんな骨壺のなかにはいないのだ、もっと自由に存在しているのだと、頭ではわかっていても、それでも、明日には、この遺骨がお墓のなかに納められるのかと思うと、寂しい以外のなにものでもない。◆ほとんど眠れずに、(きのうの宴会中は相当酔っぱらっていたにもかかわらず)、朝を迎える。ご飯を食べ、掃除の続きをしていたら、あっという間に客人の到着する時間。そうこうしているうちに坊さんもやってきて、あれよあれよとコトは進む。朝、にわかな雨も降ったが、いつしか雨雲は消え、じりじりと照りつく夏の時間となる。家でのお経のあと、墓場に移り、納骨。ただただ人間界の儀式のみ。爺さんは、どこかでこれを見ているのだろうか?◆夜はまた叔父たちとご飯。蟹をゆで、たらふく、食べる。今年の正月2日も、同じメンバーで蟹を食べたが、「あのときも生の蟹を買ってきたのに、あれはホントーにまずかったね~。なんでかね~。でも、これはおいしいね~」と、言い合いながら、人生でこんなに大量の蟹を目にしたことがないほどの蟹を前に、ひたすら、むさぼる。ところで、このメンバーのなかには、蟹名人がおり、足のゆで方はこう(蒸らし時間がコツらしい)、甲羅のゆで方はこう(ゆでるというより、酒蒸し)と、いい塩梅で調理してくれる者がおったことを、付け加えておこう。◆きのうから、今年初のトウモロコシを食べたり(ヤングコーンはすべに食べていた)、おいしい桃を食べたり(葉っぱつきの、産地直送の桃)、幸せいっぱいの充実の食生活である。(今この日記を書いているのは、7月31日の深夜であり、日記の日付からは十日以上も経っているが、食の充実記憶はいまだ冴えている!)。爺さんの納骨の儀式と、この食の記憶のどちらが鮮やかか?と問われれば、答えに窮するほどである。

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花を生けたり、ウーロン茶を作ったり

心の準備が効いたのだろう、やっと体を起こせるようになった。(いつぶりだ?)。午前のうちに、祖母のところへ行き、シーツ交換などをしたり(下着などの細かいものはお祖母ちゃんが手洗いしている。わたしが洗濯物を預かるのは大きいもののみ)、畑で摘んできた花々を手に、祖母の自宅(普段は無人)へ行って、花を生けたり、除湿器をかけたり、ウーロン茶を作ったり。あすの納骨に備え、叔父夫婦が今日の午後に帰省するため、その準備である。■午後はひたすら、親の家の準備。ほんとは墓場のまわりの草むしりもしておきたかったが、この数日のウツの波のため、それまでは手がまわらず。(ところで、49日のときも、ほぼ直前まで寝込んでいたのである。今回の納骨も、ほとんど直前まで寝込んでしまった)。とにかく家の掃除を。ま、仏壇を乾拭きしたり、ちょこちょこと(普通の人なら30分もかからんような程度の)掃除をえんえんとしただけなのだけど。■夜は、お祖母ちゃんの、ちょっと早めの誕生日会。(お祖母ちゃんの自宅にて)。二人の叔母もお泊まりでやってきて、宴は盛り上がる(・・・は、いいが、わたしが左手の人差し指を包丁で切ったのは、この宴の最中である。詳しくは、後日の日記にて)。この夜、お祖母ちゃんは、ズボン(先日、叔母たちがブラウスを買ってきたので、それに合うようにコーディネートされたズボンであった)やら、下着やら、手作りクッキーやらを、お嫁さんからプレゼントされていた。うまく言えないが、お祖母ちゃんにとっては、こうやって人から大切にされる体験は、けっこう、しばしばある。わかりやすい分野においての、平均という言葉を使うならば、お祖母ちゃんは、現代日本の平均からはぐ~んと飛びぬけて幸せな人生であろう。けど、それはあくまでも、人との比較。お祖母ちゃんとしては、お祖母ちゃんとしての人生しか体験のしようがなく、普段は自宅で暮らせないという「くやしさ」(=あいまい表現)を抱えているのだ。冷徹な考え方とも思えるが、「このような悔しさ(=かなりあいまい表現)を体験する」ことが、お祖母ちゃんの晩年の課題(長生きしている理由)なのだろうか?と、とらえてしまうことが、わたしにはある。(言葉にすると、とても冷徹な話だ)。■「お祖母ちゃんと一緒に暮らす」という、わたしの願いを、わたしは忘れてはいないけれど、いまのところ、前進の0.01歩くらいしか運んでいない。

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懺悔の淵に辿り着きようもない、こちらの岸辺から

これを書いているのは7月31日の深夜であり、そもそも、このころ(日記の日付に該当する当時)は、いくらかのウツウツ状態であったので、いつのことかの定かな記憶はないのだけれど、たぶん、このころのことであろうとの回想のもと、以下を記す。◆わたしの日記のなかの爺さん(父)は、生前とその後を問わず、ファザコンの対象のような描き方であろう。ま、それはいいとして、彼の死にまつわることは、これまで、そしてこれからも、「わたし自身をなぐさめる」文章しか、書きようがないと思う。よって、読んでいる人には、(ファザコンを疑似体験してかまわぬ人以外には)、息の詰まる話であろうなーと思う。◆爺さんの生前のことを思うと、思い出すことがすべて後悔につながる。そう、すべてが、である。日記には「都合のいい」ことしか書いていないけれど、わたしの爺さんにつながる記憶は、実は、すべて後悔なのである。(特に、爺さんの亡くなる前の20時間ほどは、はっきりって「自分が疲れていること」にかまけ、・・・もちろん爺さんが死んじゃうなんて思っていなかったからということもあるが・・・・、爺さんのことを、ちゃんと見てはいなかったのである。・・・・客観的には「臨終間近」の判断が下されるような状態であっても、医師もそのようなことを告げてくれたのだろうが、わたしにはその判断(理解)ができなかった。・・・・それ以前の入院している期間も、ほぼ毎日、爺さんに付き添っているとはいっても、いつもいつも「自分」を主に置いていた。付添しているフリをして、いつもいつも「自分」中心から離れることがなかった。そしてわたしは、それら(爺さんが入院してから、特に命ある最後の時間)を思い出しては、懺悔の淵に辿り着きようのない後悔と、そんななかでも「あの時間はまだ爺さんが生きていたのだ」という、まことヒトには説明しかねる甘美な記憶のなかにたゆたっている。◆ここ最近、いくらかのウツウツ状態にあるが、ほとんど横になっている時間のなか、ふと、思ったのだ。爺さんのこと、後悔の念にとらわれる「やり方」が違うのではないか?と。つい、習慣として、「もしも爺さんが死んじゃうとわかっていたら、もっと真剣に、わたしはわたしを脇に置いといて、(また他の都合などにもとらわれず)、爺さんのことを見ていたのに」と思うこと、たびたびだけれど、それって、違うのではないか? 仮に、時間の神様が奇跡を起こしてくれて、「爺さんがいついつ死ぬのだ」と教えてくれたとしても、(たとえ、それによって、その後のわたしの行動が変わったとしても)、今、ここにある現実(奇跡がない世界)で、わたしはわたしのことにかまけて、爺さんのことを見送ってしまったのだから、もうわたしは、奇跡の時間に夢を見るのではなく、現実の「自分にかまけたまま、爺さんを見送った」ことを、受け取るしか、わたしの人生にはありえないのではないか?◆これまでの人生のなかで一番の後悔は、やはり爺さんのことだけれども、その現実を塗り替える手立てはないのだ。

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ウツつれづれ

ウツというのは、「怠け病」とどこが違うのか? わたしは現代病なる地位を授けられたウツを隠れ蓑にした、ただの怠け者なのでは? の思いをずっと抱いてきた。◆体を起こせない。ひたすら、だるい。ひたすら、眠い。とはいえ、日に一度くらいはご飯を食べられる。天地異変が起きそうなときには「ダッシュして逃げ出す体力」がウツの皮膚を割いて生まれそうでもある。はて、こんな奴は、ウツの仮面を被った、ダメ人間に過ぎないのでは?◆しかし、あれは今となって思えば、環境の変化による自己催眠もあったのだろうが、今年の5月に摂心(朝から晩まで連日の座禅)を体験して、「今までにない自分」を、この目でみた。ウツというものが1本道の先にあるとすれば、そのウツを背に向けて歩き出す、歩き出している、歩いている自分を、みた。だからこそ、「今までの、だるくて何もやる気の起きない、これは怠け病?」と疑っていたものは、いやいや、しかるべき病だったのだと、わかったのだ。(渦中にいる者には「本質」が見えない。ウツの渦から出て初めて、「ああ、あれはウツだったのだ」と本当の意味で理解できる)。◆摂心から帰った日、心療内科のクリニックに電話をし、次回の予約をキャンセルした。以降、一度もクリニックには行っていないし、薬も飲んでいなかった。「お薬では治らない」との以前からの考えが、摂心の体験で、より一層強まったからだ。しかし、このたびのウツウツ波で、どーにも、こーにも困り、また5月の体験(ウツの霧が晴れたような、晴れつつあるような、これまでの人生にない心の軽やかな体験)がある分、この度のウツウツ波はショックであり、精神的な負担も大きいような。そして、「藁にもすがる」思いで、数ケ月ぶりに抗ウツ薬を飲んだ。(服用は2~3日間で、まさに藁を手にしただけ、なのだけど)。◆なぜ、ウツというものがあるのだろう。唯識ふうにいえば、なぜ、ウツという幻覚に、人間は苦しまなければいけないのだろう。(苦しい、の感覚もまぼろし?)。

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