ともみ@ピクニック

消えてしまったことは、「悲しい」を超えた出来事

爺さんが亡くなって、まる3週間が経った。おそろしいことに、というべきか、そのこと(死)自体の悲しみはほとんど、自覚できない。◆(そもそも、爺さんが亡くなって、「ぼうぜん」とした日々が続いてはいたが、しかし、その間のわたしに、「悲しみ」など、あったろうか。亡くなって数日間、いろいろ思い出しては涙を流していたが、そこに「悲しみ」があったろうかと、今、ふりかえって自問すれば、「あった」と明確な答えをわたしは出せないのだ。なにより、「悲しい」とはどんな感情なのか、わたしは知っているのか?)。もしかしたら、爺さんの存在がわたしの「現実」から消えてしまったことは、「悲しい」を超えた出来事なのかもしれない。◆爺さんが亡くなってからの日々、心は現実を受け入れられないまま、葬儀やら、客の応対など、体だけが現実的な用事に追われていた。それもひと段落して、ぽつりぽつり、心が現実に近づいてきたのだろうと思う。そして今や、「この世に爺さんがいない」という現実を、ほぼ、わたしは受け入れている。

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み七日

み七日の法事。坊さんの帰ったあと、前回法事と同じメンバーは薄茶をいただきながら、にぎやかに過ごす。ただ一人、男性であるおじが、別室にいたので、ときおり我は、そっちにも顔を出す。このおじは仏事のしきたりなどに詳しいので、「お香の灰はどこに片付ければいいのか?」や、「仏前のローソクは家の者がつけておいてもいいのか?」など、質問。その流れもあって、わたしは何年も前から抱いている、「坊さん」という職業人への漠然とした不信をもらすと、おじはこう言った。「たしかに、鐘をたたいている傍らでお布施を懐に入れ、さっさと帰ろうとするのもいる。しかし、坊さんは、我々のできない、“あの世とこの世のあいだの仕事”をしてくれる存在だ。ある意味で、我々は坊さんにいろんなことを押し付けているともいえる」。ちょっと、目からウロコである。人間として個々の坊さんを見れば、「あきれてしまう」坊さんも確実にいるが、一方で、「仏教の世界」を全面的に信じるとするならば、坊さんは「有り難い」存在に他ならないのだなー。

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自己診断日記

まず、最初に思ったのは、「これまでの疲れ」だ。ということ。爺さんの入院以来、ゆっくり休む間もなくやってきた。(ただし、今月上旬の体調を崩して「2日と半日、静養した」を除く)。だから理屈抜きで体が休息を欲しがっているのだと思った。けれど、もちろんそれは根底にあるのだろうけれど、「一人になりたいときに、一人になれない」苛立ち、や、客人はともかく家族が元気そうに喋っていることへの強烈な苛立ち、その他ちょっとしたことのストレス(テレビの賑やかな音が耳に入るだけで苦痛)、そういうものが今の主流なんだろう。と、昨日あたりは思った。しかし、だんだん分かってきたのだ。以上のいずれもが原因だろうが、もっとも根っこが深いのは、爺さんが入院していたときからの(もっといえば、それ以前の関係にもつながるか)、わたしが一方的に抱いてきた姉や母とのわだかまり、わたしが溜めてきた苛立ちや孤独感などなのだろう。

たぶん、軽いウツ状態に入ってしまった。だから、昼間、起きていられない。(今日も、午後まで寝てしまった)。母と顔を合わせるのも、とても億劫。これまでの反動もあろう、しばしば、母に冷たい態度をとってしまう。(「夕飯、何時にする?」と尋ねる彼女に、「食事くらい、一人ですれば」と言い放つなど。結局は一緒に食べたのだけど)。

最上段は、「なぜ、こんな(軽いウツ)状態に入ってしまったか?」の、自分なりの診断である。ここには、きのうの日記に書いたように「緊張感の薄れ」も加わるだろうし、また、母の様子が見た目回復しつつあること(おとといより食事の支度をしている、きのうは畑をのぞいてきたらしい、など)への安心感も加わることを、補足しておく。

◇いろんな野菜の天麩羅。(←もちろん、フキノトウも)。・・・夕食
◇「四十九日の案内状」。きのう、本家の方の(文章のチェック)OKも出たので、今夜より印刷にとりかかる。はじめて往復ハガキを印刷するため、いろいろ戸惑うが、とにかく先に進ませねば。


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ふきのとう

朝方、いったん寝床に入ったものの、「お母さん、ゴミ捨て、できるかな~」と心配で、じきに起床(量があるという心配だけでなく、ゴミ捨て場には当番の村人が立っているので、母様が精神的に大丈夫だろうかと案じて)。■結局、ゴミ捨てには母様が行き、その後、わたしは朝ご飯も食べずにコタツでうだうだしたのち、寝床に入ったのだけれど、今度は電話がかかり、また起床。その後、姉がやってきて、母と姉が役所へ行ったのち、やっと、入眠。夕方早めの時間まで寝る。■夜ご飯。叔母にもらった美味しい豆腐を、母様が「酒かすのお汁」にした。ふきのとうを散りばめて。体があたたまる。■いよいよ本日より、わたしの生活態度が大きく崩れてきた。正確にいえば、昼間、起きていられないのですね。(これまでは朝に寝ても、ちょこっとの仮眠をとったのち、遅めであろうと午前のうちに起床していたのに)。これ、「爺さんが死んだ」緊張感の薄れでも、あろう。

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少しずつ変化

午後、叔母たちの車に便乗して、お祖母ちゃんのところへ。毎日、「どうしてる? お母さん、どおしてる? ちゃんと食べてる?」と、電話をくれる、お祖母ちゃん。気にはなりつつも、このところの雪のせいにもして、なかなか、お祖母ちゃんの様子を見に行けずにいたが、今日は久しぶりに、ゆっくり対面。

前夜、「朝の支度と、ああ、それから昼の支度も頼む」と、姉に食事の支度を託しており、今日はひさびさに寝坊。で、我は昼近くに起きたわけだが、姉も朝早くは起きれなかったようで、なななんと、結局は母様が朝ご飯を作ったのだという。(毎日、「おぼくさん」(=仏壇に供えるご飯)のために、彼女は白ご飯を炊いている。が、それ以外の食事の支度はほとんどできないでいた)。おそらく、姉夫もいたので、食事の時間を遅くしてはいけないと、母様のなかによい意味での緊張があったのだろう。無理はいけないが、こうやって、一歩一歩、母様も復活してゆくのだろう。夜は、そうめん(あったかいお汁の)などを食べる。

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チャーハンが美味しかった

「こーんな早く死ぬとは、ワシ、思わんだ」と思っているだろうなー。「ダイジョウブだよ、ダイジョウブだよ」と見送るかたちになってしまったけれど、はたして、それで良かったのだろうか。なんてことを、ゆうべ、ぼんやり思っていたら、自分が「余命1ケ月」という夢を見た。

朝方、震度3の地震。震源は能登地方。

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朝 白ご飯、おつゆ(大根、油揚げ、青梗菜。赤味噌)、炒め物(南瓜、じゃが芋、ひじき)、ゴマ豆腐(市販品)、きんぴら(残りもの)
昼 トマトおじや(先日のスープを使って)、バナナのてんぷら、大根即せき漬(ゆうべの残り)
夜 チャーハン(しめじ、舞茸、えのき、人参、油揚げ、グリンピース、コーン、市販の大根味噌漬、穂紫蘇の醤油漬)、蓮根にオカラを挟んだ天麩羅(オカラは先日の残り)、キャベツのゴマ和え、おつゆ(もずく、椎茸、豆腐)、大根古漬

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叶わぬことを思う

朝3時半頃、居間にいると、玄関のほうでコトッと音がした。新聞配達の人だ。昨夏までの爺さんは早起きで、まだ暗い今ごろ、玄関前に椅子を出し、「おはよー」と新聞配達の人に挨拶してたのになぁー。と思い出す。昼にテレビをつけたら、爺さんの好きだったテレビ番組「たべもの一直線」をやっていて、見せてあげたいなぁー。叶わぬことを思う。居間のいつも爺さんの座っていた場所、さいごはよく横になっていた場所、今、母と我のふたりのときは空いてるコタツの席だけど、あまりそこを歩きたくない。だって、横になっている爺さんを踏んづけてしまうような気になるもの。

朝、起きたら、母が箒をもって庭木の雪を落としていた。ふた七日の夜、「(そろそろ)一人で寝れる?」と聞いたら、「寝れない」と答えた彼女。寝るのが修行なら、起きるのも修行、ご飯を食べるのも修行。そんな毎日のなか、爺さんの大事にしてきた庭を守らねばと、雪景色の庭に出たようだ。

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朝 白ご飯、おつゆ(椎茸、湯葉、青梗菜)、納豆(薬味のかわりに梅紫蘇と擂り胡麻)など
昼 パン、紅茶、サツマイモとリンゴのレモン蜂蜜煮、もやしサラダ(もやし、サニーレタス、油揚)
夜 白ご飯、おつゆ(朝の残りにキャベツを追加)、きんぴら(牛蒡、人参、グリンピース)、椎茸とおからのホイル焼き(おからは先日の残り)、大根即席漬(ソフト昆布&味噌&みりん&米酢味)


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思い出の共有

ゆうべ、爺さんの夢を見た。このところ、爺さんの骨の隣の部屋で、母様とわたしは寝ているのだけれど、――たしか遺骨の部屋に最初、爺さんがいて、次の瞬間には、わたしたちが寝ているのとはまた違う部屋に爺さんはいて、なにかを整理しようとしているんだ。なぜだか、わたしのなかでは、「爺さんが医療費など確定申告に使う諸々の書類を整理している」ことになっていて、「わたしが計算するから、要るのと要らないの仕分けだけして」と夢のなかで爺さんに話かけ、爺さんは「うん」と、素直に頷いたんだ。そして、その次の瞬間には目が覚めた。真夜中だったろうに、そのときわたしは隣の母様が起きているつもりになっており、「今、こんな夢を見た」とひとり喋って、また眠りに入った。

朝起きたら、雪景色。朝といっても、9時半くらいだったか。だんだん体が寝坊体になる。「なにもかもがダルイ」と言ってしまいたいところだが、わたしよりはるかに弱っている母様がいるので、とりあえず、朝ご飯を(といっても、ご覧の通り)一緒に食べる。食後、お皿を流しに運ぶと、もー、だめ。姉が来るのがわかっていたので(ほぼ毎日来ている)、「あとは任せるわ」という気になって、再びの就寝。午後2時前、「お客さん、来るよ~」の声で本格起床。

お客さんは、爺さんの友人(故人)の奥さん。遠方のところ、日を見て自宅に尋ねてくれる心遣いが嬉しい。なにより、母にとっては、「夫の友人の奥さん」であり、夫婦単位で一緒に遊んだ思い出を共有できる人。「あのとき、△△で○○○だったわねぇ」「筍堀りにも行ったわねぇ」などと、客に話しかけるときの母の目は、時計の針がさかのぼった世界にいた。

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朝 白ご飯、白菜漬(きのうの残り)、黒豆煮(きのうの残り)、緑茶
昼 芋助(頂きもののお菓子)
夜 白ご飯、トマトと根菜と雑穀のスープ(じゃが芋、人参、南瓜、昆布、トマト、キャベツ、雑穀ミックス・・・もちきび、もちあわ、玄ソバ、胚芽押し麦、とうもろこし、赤米、大豆、ハト麦)、椎茸と青梗菜のソテー、豆腐のテリヤキ味葛とじ(絹ごし豆腐、椎茸、エノキ) 


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ふた七日

ふた七日の法要を営む。坊さんの都合で、朝は9時前より。仕事をもっている人を招くのもなんなので、ほんの数人の来客のみ。お茶を出すとき、坊さんに「成仏って、いつの段階でするんですか?」と聞いてみた。すると「肉体が死んだと同時に・・・・、また、49日かかってという考え方もある」との答えであった。(あるところには「7日ごとにお裁きがあり、49日で最終的な行き先が決まる」と書いてあるのを読んだ)。来客はみな、大昔からの知り合い同士で、法要後は「花が咲く」ほど、茶のみ話に盛り上がった。

一日ぶりにやってきた姉に、「ちょっと元気になったみたいで、よかった」と言われた。そのとき、わたしが返した言葉は、次の通り。「元気になることが哀しいよ。哀しみを忘れることが哀しい。これ以上、(お父さんの)記憶は増えないんだよ。これからは、(お父さんとの)思い出が「減る」か、「変形して留まってゆく」か、それしかないんだから」。姉は黙って聞いていた。別れにおける哀しみの在り方は人それぞれだろうから、哀しみと「じわじわ」対面する人もいるだろうけれど、わたしの場合は、この先、哀しみ曲線は下がる一方なのではないかと思う。わたしはもっと哀しみたいよ。元気になる自分が哀しい。

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朝 ご飯、おつゆ(豆腐と白菜)、昨日の残りのおかず色々
昼 にゅうめん(長芋、納豆、とろろ昆布、水菜)、ご飯、煮物の残り
夜 ご飯、おつゆ(朝の残り)、おからバーグ(卯の花、人参、ブロッコリー、しめじ、蒟蒻、ひじき)、南瓜の素焼き、黒豆煮(お隣さんの差し入れ)、白菜の即席漬(味噌&ゴマ油&みりん味)

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手紙が届く

爺さんが公務員を退職し、20年近く経つ。転勤を伴う国家公務員だった彼の元同僚は主に東海北陸地方にいるのだが、お別れの式に足を運んで下さった方、弔意電報や香典などを送って下さった方、公務員時代の先輩同僚後輩には、思いがけず、この度、お世話になった。数は沢山とはいえないかもしれないが、現職を離れてからの月日などを思うと、これはとても有り難いことだと感じる。さて、本日の夕方、母も知らぬ名前の方から、書留が届いた。調べてみると、過日、よくある電報例文とは違う、オリジナルの弔電を下さった方。でも、「誰だかわからないし」と、母は封を切ろうともせず、父の元同僚で昔から家族ぐるみの付き合いをしている人に電話で尋ねてみようとしている。「ちょっと待ってよ」と母を止め、わたしが封を切ってみると、なかには手紙も同封されていた。そしてそこには、昭和五十年代から、都合三度にわたり、父のもとで仕事をしたことなどが書かれていた。亡くなった人間を悪くいう人はめったにいないし、という常識を差し引いても、やはり、遺族にとって、故人を敬うような手紙をもらうのは、嬉しいものだ。早速、父の属していたOB会名簿を調べて見ると、彼はまだ現職で勤めている、しかも、偉い肩書きのついた人であった。
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朝 胡麻団子(頂戴もの)、リンゴ、緑茶
昼 ご飯、おつゆ(夕べの残りに餅を追加)、豆腐とブロッコリーの炒めもの、切干大根醤油漬け、花豆煮(頂戴もの)
夜 ご飯、ほうじ茶、煮物(大根、人参、がんもどき、蒟蒻、昆布、しめじ、青梗菜)、えのきの湯葉巻きフライ
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昨日から、朝、起きれなくなってしまった。本日も10時をまわっての起床。朝食後、そのままコタツで居眠り。のち、1階の布団は畳んであったので、2階の万年布団で就寝。午後2時半頃か、本格起床。
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自分が恐ろしい。かすかに、苛立っているのである。もはや、肉親を亡くした悲しみなど、心の表面には小さくしかないのでは?と思われるほど、「平生」が生まれようとしているのである。こわいよ。こんな(立ち直りの早い)自分が。さて、なにに苛立っているのかといえば、「ひとりになる時間」がない、ってことに対してなんだろうと思う。違うかな。


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入院前日の思い出

思いがけない来客。S先生と看護師さんが線香をあげに来てくれる。▼入院の前日、S先生のクリニックに栄養剤の点滴に行ったときの様子を、看護師さんが覚えていてくれ、「あのとき(体の負担にならぬよう、もっと点滴の速度を遅くしてくれと、我が看護師さんに依頼したことに対し、爺さんは)、自分の体のことは自分が一番良く知っている!(だからクリニックの人に文句のようなことを、お前が言うな!そんなニュアンス)」とおっしゃっていたんですよねぇ」と。▼往診の合間をぬって訪問下さったことを知りつつも、S先生に聞いてもらいたいことがいっぱいあるような気持ちに、わたしはにわかになって、早口で喋り立ててしまった。過日の入院の際、「退院したあと、自宅療養するならば、そのお手伝いをしますよ」と紹介状に添えてもらっていたことを、入院先の医師より聞いていたので、そのお礼も、もちろん。▼ところで。思い出のついでに書くが、入院前日のS先生のクリニックにて、栄養剤の点滴の途中、ほんの短い距離だけど、わたしはトイレに立つ爺さんの手を引いた。たぶん、一緒に手をつないだのは、わたしが大人になって初めてのこと。わたしの出した右手に、すんなり手を添えた爺さんが、少し意外でもあった。そしてトイレの帰りは、手をつなぐことなく、点滴の下がった棒を、わたしは引っ張らされたのだが、爺さんを気遣ってゆっくり歩くわたしに、「もっと早く歩け!」と爺さんは言ったのだった。そんな爺さんも、翌日、入院してからは、自分の足で歩くことが(風呂場での数歩をのぞいて)まったくなかった。▼大寒。ちらちら雪が降っているようだ。

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朝 白ご飯、おつゆ(白菜、豆腐、水菜)、納豆、大根の梅肉和え、薩摩芋の細切りテンプラ
昼 チャーハン(舞茸、エリンギ、「たむらや」の漬物(大根)、水菜)、もやしの穂紫蘇和え、雑煮(昨日の残り)
夜 白ご飯、野菜炒め(白菜、青梗菜、エリンギ)、胡麻豆腐(市販品)、おつゆ(牛蒡、人参、豆腐)


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悲しみたいときに悲しまなくて、どうする。

消える。消える。■たとえば「死のまぎわ」爺さんの様子はどんなだったっけ、と懸命に思い出そうとする時間、個室に移った日のこと、移った翌日つまり亡くなった日のことを回想する時間、身近な者が亡くなったことへの精神的動揺と呼んだらよいのだろうか、そういう時間が、急速に減ってきた自分に、今夜、気がついた。(愕然)。■午前は子守りをし(甥とテトリス系のボードゲームや、ジャンケンで豆を食べる大会などで遊ぶ)、午後からは叔母夫婦が2組来て、あっという間に夕方になる。■叔母たちの訪問は有り難い。なにより母にとっては心強いだろうし、わたしも彼女たち夫婦にはお喋りしたいことがある。一方、子守りは最初、「にぎやかだし、別にいいか」と思っていたけれど、あとになってみれば、「勘弁してくれ」であった。無邪気は子供の仕事ともいえるけれど……。いや、ちょっとの間なら、甥たちの相手もよかろうが、どっぷりと、常に相手をしなければならぬ状況は、普段以上にしんどい。■身近な者を亡くした相手に、「元気になって」という慰め方がある。でも、わたしは、それは相当の時間を経たあとの慰め方であればいいと思う。悲しみたいときに悲しまなくて、どうする。人間は嫌でも悲しみを忘れていってしまうのだ。仮にずっと「悲しみ」を抱える人生が続いたとしても、亡くした直後の悲しみとは、少しずつ形を変えてゆくだろう。だから、悲しめる時に、存分に悲しみに浸るのは大切だし、スピーディーを要求される現代では、それは、とても貴重な行為だと思う。また、記憶は消えるのだよ。実際、わたしが、この世に爺さんの生命のあった最期の時間を思いだそうとしても、だんだんとあやふやになってゆく。死から数日は呆然とした頭で記憶を追っていたけれど、今では「それ」をしようとする自分自体が日ごと弱まっている。■わたしのなかから爺さんの存在が消えることは、たぶん、わたしが痴呆症にでもならない限り、ないけれど、それでも確かに、わたしのなかにある「爺さんを包んでいた時間」の記憶は少しずつ消えようとしている。忘れたくないのに、忘れてしまう。残酷だ。(←わたし自身にとって、「消える」「忘れる」行為は、残酷だ。の意味)。

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すべては関係性(と、スリコミ)

姉一家が泊まりにきたので、賑やかな夕食。◆「身近な者を亡くしても、幼い子供には『人が死ぬ』とはどんなことなのか、わからないのだ」と、一般的にはいわれる。わたしも漠然とそうなのだろうと思っていたし、祖父が亡くなっても日の経過を待たずして元気な甥たちを見て、それを確信していた。しかし、待てよ。これがもし、甥たちにとって「祖父」の死ではなく、「母親」の死であったなら、彼らはこんなに元気でいられるであろうか? 甥たちにとって、爺さんは「大好きで、身近な」存在ではあったけれど、彼らと彼らの母親ほどの関係ではない。おおざっぱな見方をすれば、爺さんが死んだからといって、彼らの日々が劇的に変わるわけではない。だから、彼らの心のなかにも動揺はあろうが、極めて明るくいられるのだろう。すべては関係性(と、スリコミ)。この世は理屈でなくて、関係からくる「心の置き位置」が、ほとんどすべてなのだ。これは子供だから、大人だから、といった区別はなくて。◆翌朝、小学2年の甥っこが「ゆうべ、爺ちゃんの夢を見た」と教えてくれた。知る限り、爺さんの夢を見たのは、この甥っこが一番最初。

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無が遠ざかる

色が戻る。音が戻る。寒さ暑さが戻る。例えば、大きなショックを受けたとき、自分をとりまく世界は「無」に近い状態になるのかもしれない。実際には見たり聞いたり感じたりしているのに、それが(意識の通じる)体にまでは届かないという。でも、時間の経過とともに、「無」に近い状態は離れていってしまうのね。昨晩、「テレビ」を眺められる自分に気がついた。突然の爺さんの「かくれ」以来、そんなこととても出来なかったのに、気がつくと、ぼんやり、わたしはテレビの画面を見つめているのだ。まだまだ目のやれる番組は限られるけど、少しずつ、わたしのなかが「俗」に埋まっていくのを、このことにより予感。そして、本日は、「食べる」ことに気持ちの行く自分に気がついた。調味料から使用する野菜までも限定する精進料理を摂っているのだが、これまで旨い不味いの味覚なんてなく、ただ修行のように口にしていた食事を、本日は、「欲」の目でとらえる自分がいた。そして作った夕食のメインディシュは、「キノコ類と厚揚げの豆乳煮」。こってりした料理を、わたしの体が欲していたのである。

2009年1月下旬のアップ(↑読み返してみると、「ある一面」にせよ、なんと早い回復力よ。と、驚く。書いたのはたぶん2008月の1月か2月と思う)

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畑を巡回

午後、日が射してきたので、「爺さんの供養」といったらクサイ言い方になってしまうけれど、その思いもあって、畑へ。彼が見たら、いろいろ文句もいいたくなるだろう、手入れの充分ではない冬の耕地。蕪、青梗菜、法蓮草、ブロッコリーなどを収穫がてら、ふたつの畑を、爺さんに見せてあげるつもりで回る。気がつけば、ちょうど一週間前、彼が息をひきとった時間であった。晴れ間も束の間、また北陸の冬の空になる。


2009年1月下旬のアップ(書いたのはおそらく2008年2月ころ)

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