ともみ@ピクニック

ウソのきしみ

前日の日記に「ウソ」観を少しつづったが、その続き 

ウソが嫌い。なんて、いい年した大人の吐く言葉としては、ひじょーに恥ずかしいものがあると思う。その言葉の向こうには、「自分中心」から抜けられない幼さ、を客観的には感じるし、第一、ウソなしにはこの世は成り立たない面があることもさすがに知っているから、「ウソが嫌い」な、わたしの気持ちは、世の常識にとうてい敵いっこない、という全面降伏的な弱々しさを認めざるを得ない。■ところで。たとえば、人にわからなければ、いくらウソをついてもかまわない、という思想(思考の方式)がある。「心のなか」とか「本音」なんて、どうでもいいのだ、と。「行動がすべて」だ、と。たぶん、リーダーを志す人に、この手の考えをもっている人は少なくないと思う。だから、目につくところでは、懸命に、おこたりなく、「能力のある姿」はもちろん、「人格の立派さ」も、人々の印象に残るよう、行動をする。■それを仮に「表の顔」と名づけるならば、その「表の顔」だけを見ていられる人は、幸せだ。リーダー(リーダーを志す人)の、その「表の顔」だけで、自分の認識を独占できるのだから。(まぼろしや理想の成立)。■この2年、ノイローゼといっても過言ではないだろう状態にわたしがなったのは、(この日記だけではそのノイローゼ具合はまずわからない。核心はなにひとつ書いていないから)、ある人の、「表の顔」と同時に、「それとはまったく違う顔」をイヤというほど見てしまったからだ。ただ見ただけではそうはならなかったかもしれないが(たぶん、ならなかっただろう)、そこには運悪くというか、他にもいろんな要素が絡んでしまい、わたしにとっては未踏の精神状態に陥ってしまったわけだ。最終的には「どうして、わたしだけが、そのことを知らなければならないのか」の渦から抜けられなくなってしまい(はい、被害妄想的な発想)、これを誰かに告げたくて告げたくて仕方ない衝動に駆られている。そしてそれは現在進行形。この衝動を抑える「良心」との戦いが、あるいは、この2年間の苦しみのすべて、といっていいかもしれない。

追記 1
正確に言えば、「ウソが嫌い」というのとは違うんだろうな。「ウソ」の存在により、本人も周りも、より望ましい状態になることが、ウソのふりかけられた世界には多いけれど、――その点だけを見れば、ウソとはなんと素晴らしい効能をもっているのか!――、そこからなんのイタズラか、一滴、ぽとんと、「苦い(にがい)」汁が落ちることもある。ウソが存在することで、本人もみんなも幸せになっているのに、ウソのきしみともいえるその汁を、ぽとん、ぽとん、ぽとん、と、落ちてくるがまま、飲み続けたゆえに、わたしは、「ウソが嫌い」なんて、ひじょーに幼い言葉を吐くようになってしまったのだ。

追記 2
そう、〝「心のなか」とか「本音」なんて、どうでもいい。「行動がすべて」だ〟という世界観の弱点(=どこかで、その相違のモレがまわってくる。それを、ヒズミ、あるいはウソのきしみ。と名づけよう)に、わたしの精神がノックアウトされたのだろう。わたしは、ウソそのものを、嫌っているわけでは決してない(と、今、これを書きながら、気づいた)。


10月21日の深夜の記

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宛て先

哲学者である鷲田清一さんの言葉。

恋愛がわたしが編む幻想の総体にすぎぬものではありえないのは、恋愛の糧が、じぶんがある他者の意識の「宛て先」になっているという事態だからである。わたしが「他者の他者」でありえているということが「わたし」がたしかな存在として存在するための条件になっているからである。――web文章「可逆的?」より

この言葉をかみ締めると、“恋愛はまぼろしで、ひとりよがりな精神状態”という俗説がかすんでみえる。そしてまた、恋愛にかぎらず、人と人とのかかわり合いって、つきつめればこういうことなんだな。とも、思う。

* ここで「恋愛の糧」自体がまぼろしだろ、な論理をもってくると
  脳をもった人間の行いや感情はすべてがまぼろしになってしまう
  と、わたしは考える。


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情がうつる

情がうつる。という現象がある。情がうつる、とは、人と人の関係の、もっとも主流なる「根底」ではないかと思うのだが、はて、この情がうつるを作るものはなんだろうと考えると、決して、相手の性格や人となり、主体者の嗜好、おかれた立ち位置が、最たる要因とは思えず、時間、あるいは、時間×神様の作った種々要素(つまり、相手の性格、主体者の立ち位置など、および(かつ必然として)、それらをミックスさせる「偶然」とも言い換えられる種々要素)が、その答えとなるのではないか。つまり、「こうこうこういう相手だったから情がうつった」というのではなく、そこにはそれらをはるかに超えるいろんな要因がからまっていて、でも、それを一言でいってしまえば、単に「流れた時間」が「情がうつる」を作った、ともなるのではないか。乱暴にいってしまえば、時間を共有さえすれば、好む好まざるにかかわらず、情とは「うつってしまう」、そんな特性があるのではないか。最近、気がつくと、ぽよよよよ~んと、そんな考えがアタマのなかに出現している。なお、情がうつる。は、人間関係の最強だとも、思う。

9月4日の夜の記

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悲しみ連峰

「悲しみをひとつ超える」というのは、たいがい、「悲しみを乗り越えた。克服した」という意味にとるのが正しかろうが、いや、「悲しみがずんずん進んで、次の悲しみの地点に到達してしまった」(悲しみが連峰のように連なっているとするならば、次の山を登り始めてしまった)という解釈もあるんだなぁ。なんてことを考える。

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憎しみの行方

ちなみに。憎しみの種がまかれた人間の進み方は、2分されるのではないか、と、我は思う。ひとつは、よしもと小説に登場するような、太陽の光、風の音、人の愛情、日々の営みといった、自然治癒によって、種を発芽させずに生きる者。もうひとつは『春のワルツ』のイナのような、「こんな感情を抱いても、おのれをさらにいっそう傷つけるだけ」と知りながらも、憎しみの種を発芽させ、そこに水を注ぐことを止められない者。そして、後者は、おのれがボロボロになるまで、発芽した芽を育てるのだろう。

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わたし

わたしが一昨日ブログ「隣の女」の後半部のような話を書くのは、ある嫉妬心混じった感情から、なのである。もっといえば、このブログのほとんど大半は、憎しみではないが憎しみと見まごうような感情や、あきらかな嫉妬から、書かれている。◆そしてわたしは、どうしてこんな方法で感情を一時処理しなくてはいけないのだろう。どうしてわたしだけが我慢しなければならないのだろう。彼女の穏やかな日常はわたしの血の滲むような我慢から成り立っている。という(ひとりよがりな、しかし、身を削るばかりの)思いに、常にとらわれている。◆わたしが「ぜいぜい…つらいゼ」とこのブログにこぼさないからといって、心が平和なわけじゃない。むしろ、「黙っている」ときこそが、感情を爆破する日にむけての準備なのだと、毎日何百回と呟いている。

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渇望の虜でい続けならなければいけないとの思考を従えて

これを読んだ人は、目がつぶれます。

先ごろの、税務署職員(42歳男性)が名古屋市内の銀行をおそった一件は、珍しく、わたしの興味をひく事件である。わたしの耳にはいった第一報は、たしか2日の深夜、NHKFMのニュースであり、そのときは「・・・容疑者は、仕事(?)の問題と、夫婦間の問題で悩んでいて、なにか事件を起こせば、今のこの悩みが薄らぐと思った」と報じていたと記憶する。ただ、その後の別機関の報道では「退職届を受理してもらうために、悪いことをしでかした」となっている。ま、そのどちらもが動機であるかもしれないし、また、まだほかの動機もあるのかもしれない。■常識的にいえば、「あんた、だからといって犯罪おかすことないでしょ」「aやbという問題を、cという事件でごまかそうなんて、小学生以下だ。cという新たな問題が、aやbを解決してくれるわけではない」「仕事を辞めたければ、そんな方法とらんでも、辞める方法はいくらでもある」、あるいは頭の偏った人は「まったく世間知らずの公職人は・・」と一言言いたがるかもしれない。■他人の目には「短絡的な動機」とみえる容疑者の心のうちだが、わたしは同情を飛び越えて、彼の心のなかに同化してしまいそうである。追い詰められた人間の気持ち。(「気持ち」を抱くのとそれを実行するのには天と地の差がある。とか、犯してしまったからにはその動機にどんな許しもありえない。などという正論は、ここで書く気はさらさらない)。この税務署職員はなにを、どう、追い詰められていたのだろう。追い詰められる過程の日々、なにを考えていたのだろう。と、いうセンテンスを書くだけで、わたしの心は張り裂けそうだ。■わたしの記憶に残る、目新しい「追い詰められた人」の事件は、米国宇宙飛行士による誘拐事件や、米大使館職員(日本人女性)による情報漏えい事件、だ。わたしはその罪を犯した彼女たちに常識がなかったとは思わない。それどころか、常識があった分、そこに至るまで、どれだけ彼女たちが自分で自分を痛めつけてきたのだろうかと想像すると、……(いや、苦しすぎて想像できない)。■憎しみや、憎しみに似たもの、苦しみや、苦しみに似たもの、を、ストレートにあらわせる人間は幸せであると思う。少なくとも、理性と戦い、自己を蝕む時間が少なくて済むのだから。

これを「犯して」しまったら、どんなに楽になるだろう。それはもう、三日三晩、水を飲まずに砂漠をさまよっていた人間が水を渇望するが如し。の願い。しかし、それは同時に新たな苦しみを生むことでもある。「犯した」自分はその罪を、生涯、自責の念とともに背負っていかねばならないのだから。

それを「犯さ」ない限り、その渇望は生涯、自分につきまとってくるだろう。自分がその渇望と手を切るには、それを「犯す」しかないのだ。

寝ても、覚めても、夢のなかまでも、それはわたしを襲ってくる。

渇望、渇望。

渇望を夢想する瞬間しか、安らぎはない。

まるで、金魚すくいの手すくいを、心のなかに抱えているよう。
いつでも破れる準備の出来ている、手すくい。

精神のみならず肉体までをも蝕まれた時間を、気の遠くなるほど過ごし、

もはや夢想のなかではなく、現実の世界で実行するしかないと

心に決めたとき、これまた、今までとは違う戦いが始まる。

「犯す」ことを決断してしばらくの日々は「異常のなかの幾分の精神安定」を得ることができても

次に、未来に約束された自責の念に(まだ犯したわけでもないのに)苦しめられる。

そして、
これを犯さなければ一生自分は渇望の虜でい続けならなければいけないとの思考を従えて
実行の決断を、その「揺るぎ」から守らなくてはならなくなる。

押してくる、未来の自責の念が巨大化し、

やがて誕生する「犯さないほうがどんなに楽だろう」という思考がどんどんと勢力を伸ばそうとするのを

「犯さなければ一生自分は渇望に苦しめられるんだ」という思考が必死で阻止しようとする。




ぐふふんっ。今年のGWは、このような心模様でありました。

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なつかしく、あたたかい場所

昨夜、乙女本を開いた。そして、「食」にまつわる話などを読みながら、うんうんっと、たいそう心地の良い時間を過ごし、「あー、わたしはこういう世界を好む住人なんだ、やっぱり」と、なつかしく、あたたかい、わたしのなかの居場所をたしかめた。◆けれど、生きるとは、なんと残酷なのでしょう。次第に、(なにがきっかけだったのか、自分でもわからない)、なつかしくも、あたたかくもない場所に、わたしは下りていってしまった。◆青空の朝も、鶯の鳴く昼も、木蓮が風に揺れる夕も、毎日、まいにち、たいていなにをしていても、(そう、家族とご飯を食べているときも、病院の待合室に座っているときも)、わたしは、わたしをとらえる、異性にまつわることから逃れられないでいる。魂がそれと共鳴することでしか、存在できないとでもいうように。(いうまでもなく、それは痛い痛い行為である)。◆乙女本を読みながら、なつかしくも、あたたかくもない場所に下りていったわたしは、わたしが彼になにをわかってもらいたかったのか、それを整理する方法を、頭のなかでシミレーションしていた。それはとても具体的で、実現できたなら、どんなにすっきりするだろう。いや、もはや、彼は関係がない。彼や彼にまつわる記憶はツールに過ぎず、わたしがこだわっているのは、「わたし自身」なのだ。そう思えるほどに、時間は流れた。

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「3月の雨」

今、ラジオから、ブラジル音楽「3月の雨」が流れている。
しかも3曲連続。
歌い手はそれぞれで。

今日(というか、もう昨日ですね。ただいま28時いくらか過ぎ)の金沢は
雨ではなく粉雪が舞っていました。

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安っぽい3

「足がそこにあるから、君はそこにいるんだぞ」

声が聞こえる。

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