ともみ@ピクニック

ジョブズのTシャツ

何事も、自らが「選択」したほうが
よりストレスなく生きられる、とは限らない。

「枠に生きる」自由ってあると思うし

もしかしたら、ただ、漂っていて

目の前にやってくるものを、Yes も No もなく
こないしていくことに専念するほうが

能力を発揮しやすいときもあろう。

「選択する」って、どんな些細なことでも
エネルギーを使うものだもの。

ふー。

但し、カラダが拒否反応するものには
0.00000000001秒で遠ざかったり

「これはしない」と、あらかじめ決めておいた
類のことは無視したり

不条理なモノモノに対しては、「自分を守る」のを
優先する勇気をもって・・・ね。

             *

ジョブズさんが毎日、黒のTシャツを着ていた話とか

「家事の時間割」をつくるといい、って話には

なるほどなぁ、と思う。

興味のないことに、「世間」の常識をもちこんで
自覚の乏しいエネルギーを漏らす必要はない。

( ↑ 例えば、お洒落好きな人はお洒落を愉しめばいいのであって
お洒落が苦痛な人は「毎日違う服を着る」強迫観念から離脱すればいいのだ)

「掃除しなくちゃ」それから「書類の整理もしなくちゃ」など
しなくちゃしなくちゃの天秤ストレスを抱え、結局、両方やらない・・・顛末よりも

「何曜日は、○○分、~の用事をする」と
( ↑ 月曜は玄関、火曜は窓、水曜は洗面台・・・、土曜は書類、等)
おおざっぱにスケジュールを決めておいて

あとは黙々それに従う
(=頭はつかわず、体を用事に費やす)ほうが
色々な意味で、ラクである。

             *

以上

「選択の労」って、可視化されにくいけど
あなどれないわよね、という話でした。


補足*「家事の時間割」だが、履行できなければ
「できないまま」でいい、と割り切ること。
間違っても「翌日に二日分しよう」などと思わぬこと。
それが大事なのかな。

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ぐず子

「算段するクセがある」と書いた。

(時間とかお金とかの算段ね)

しかし、自分を省みて

「算段してよかった~」と思うこと
あまりない…?

ほとんどない…?

それよりも
「算段して、結果、残念ー」になったことの
ほうが多く印象に残っているような。

(そういえば、算段すること自体にも
時間や気持ちを浪費しているのよね。
まったく忘れていたわ)

おまけに、わたしの悪いところは

算段を重ねた挙句、それをまた「迷い」の
材料にもしがちってこと。

あー。

すぱっと決める。

決めたことを、ぐずぐず考え延ばさない。

決めたことを実行する。

この3点を守れたら
人生はまったく違ったものになるだろう。

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反省エレジー

歯医者の当日キャンセル
(先生はじめ、皆様、ごめんなさい)

「社会マナーをまもれない」自虐は
ひとまず棚の上に置いといて

「こうなったら、こうなった、で
実家の(延長)滞在をプラスにとらえよう」
とは思いつつ・・・。

夜になると、「ああ、あそこで頑張っていれば
歯医者という、プチ仕事がおわったのにな~」
など、くよくよ虫がわいてきそうにもなる。

小さな約束を守れないのは
悲しいことでございます。

             *

話を色々端折る。

あれこれ、(どういうスケジュールだと
出費が少なくてすむか etc )算段するクセが
わたしにはあるのだが

なんも考えず、たんたんと

「目の前のこと」だけに集中するほうが

トータルの負担は減るのだろうな。
( ↑ お金も、時間も、心も)

長年、わたしは「決まったこと」をするのは
窮屈だと考えて生きてきたけれど

薄々、それは違う、と気づき出している。

その場その場で決めて生きてゆくほうが
小さなことであれ、大きなことであれ
総じて負担は大きく、大変なのだと。

             *

いまだ「人に決められたこと」をするのは苦手の
意識が強いけれど、せめて「自分で決めたこと」は
こなせる人間になりたい。

(再度言うが、そのほうが、ラクなんだよ~。
自分の負担が減るのだよ~)

(今回だって、歯医者の予約を取り直さねばならんし
当分、実家と一人宅の往復問題につき
またクヨクヨする日が続くだろう)

人間は多少縛られていたほうが
自由に生きられる――と知るのは
あふれる自由のなかにいる副産物。

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物理的演出

11月10日(金)

ハイホー、今日は一人宅に帰るぞ
(遅い夕方、歯医者なのだ)と

午前中からあれこれ動いていたつもり
なのに

お昼ごはんを食べて、シャワーを浴びたら
(12時間以内にもお風呂に入ってたのだけど・・・
砂埃にまみれ玄関の掃き掃除などをしたので)

出かける30分前になっていた。

今から、髪を乾かして、服を着て
荷物をまとめて、などなど、出来なくはないが
ダッシュ行動したくない気分。

           *

あー、歯医者をキャンセルしてしまった。

(昔はちょくちょくあった、こういうこと。
近年は大人の約束・・・基本的に約束しないが。
歯医者などの予約が必要なもののみ・・・履行率が
アップしてたのだけどな)

そして、乗車予定の列車を逃がしても
歯医者の時間までには二本くらい列車があったのだけど
いずれも乗り換えの待ち時間が長くて、それに耐える
気力もなかったのだ。

           *

という、トホホな事情で、またしばらく実家滞在。

(何度も書いているが、こういうのって、こっそり、
深層にいる自分が「一人宅に帰りたくない」と願っていて
現実で「それに沿うような物理的」演出を施しているのだろうな。

ま、本日は、ギリギリの時間ラインで
意志をもって「実家延長」の選択をしたわけだが)

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コーヒー飛び散る

11月10日(金) おまけ

今日の残念なこと。

きのうの天ぷら油がもったいないなーと
お芋を揚げて(油の再利用して)から慌てて
片付けものをしていたら、熱々フライパンに
手が触れてしまう。 熱っ! というより 痛っ!
・・・食材干したり、こんなことしているから
列車に乗りそびれたともいえる・・・

あー、一人宅に戻らなかったなぁと思いつつ
縁側でコーヒーを飲もうとしたら
カップを倒してしまい、机の上のクロスと
ひざ掛け代わりの電気毛布&薄布団と
絨毯の上に勢いよく、コーヒー、飛び散る。

しかし、まあ、久々の気持ちいい空でした。

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柿、日光浴

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過日、「苔玉か!」の容貌になった
カビだらけの干し柿を

「食べる!」「中は大丈夫!」と
言い張る母と喧嘩しつつ

「まだ残っている柿で、あたらしい
干し柿を作りなよ・・・」と処分した。

(名残惜しいと、母が冷蔵庫にしまったのを
忘れたころに、そっと捨てた。とも云える。
・・・日々、こういうバトルなのである)

毎年、干し柿を作っている彼女、近年
上手くつくれたことがないのじゃないか?

今年も、わたしの処分した「苔玉」以前にも
青カビが生えてしまったものが何十とあったらしい。
(手間隙かけたのに・・・と、彼女は自分の手仕事が
ムダになることが嫌で「食べる」と言い張ったのね)

で、今年、何度目かの干し柿。

納屋の二階の軒下がいつもの位置だが
先日、雨の前に取り入れておいたものを
青空広がった本日は、カシの木に移動。

(今日は「干し物」日和でした。せっせと
カマスを塩干ししたり、カット大根を干したりも)


*その後&おまけ*

干し柿は、吊るす前に熱湯消毒するといいと聞き
あらたにその手法を取り入れた母様。

アルコール度の高い酒で表面を殺菌し
干すのもいいのかな? 

ちなみに、わたしは干し柿は好きじゃなく
焼酎漬けの柿もいまいち手が出ない。

・・・大量の保存食・乾燥野菜等を作り
→ 満足 → 放置 → 忘れる というのは
彼女のお決まりコースなのであるよ。

(食べるというより、作るのが趣味なのね)

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ひきこもりと欲

ニー仏せんせいといえば
こちらの話もメモしておこう。

「ひきこもり  初期仏教」的な捉え方は
倒錯であると、さらりと指摘していらっしゃる。


パスカルは「部屋の中でじっとしていられないことが人間の不幸の根源だ」と喝破したけれど、現代では部屋の中で静かに過ごして満足な人が大勢いる。ただし、それは「刺激なしでも満足できる」ということではなくて、「部屋の中でも刺激は十分に得られてしまう」という、この話の想定外の変化なんだよね

                             ◆

そういう意味では、単に新しい刺激を得るためのコストが技術によって大幅に減少した(だから部屋の中でじっとしていてもよくなった)というだけのことであって、常に新しい感覚の対象を求めて渇望し続けるという人間の本性は、パスカルの時代から(もちろん)何も変わっていないと言える。

                             ◆

こうした技術は今後さらに進歩するでしょうし、セクサロイドからカウンセリングAIに至るまで、よかれ悪しかれ私たちは、従来は生身の人間に求めていたものを技術によって代替させて、他者と関わる労力をより節約するのでしょう。変わらないのは、人間が刺激なしには生きられないということだけです。

                             ◆

時々、「一般社会と交わらずに引きこもって暮らす人々のライフスタイルは、初期の仏教と通じるところがあるのではないか」という質問を受けることがあるのですが、私はこれには懐疑的ですね。当時の仏教者が目指したものと、現代人の引きこもりが満足しているものとでは、まるで方向が逆だと思います。

                             ◆

ゴータマ・ブッダの仏教が目指したのは、新しい刺激から幸福を調達しようとする生物一般の傾向性からの解脱ですが、現代において社会と交わらずにひっそり暮らす人々が求めるのは、基本的には「自分が欲する刺激を欲する量だけ享受すること」でしょう。もちろん、後者が悪いわけでは全くありませんが。

                             ◆

要するに、「常に新しい刺激を渇望し、それが得られることを幸福だと感じる」という「人間の自然」に真っ向から逆らうことが仏教の始点なのであって、それは単に己が得る刺激を制限したり厳選したりすることとは、全く質の異なる試みだということですね。それが「偉い」かどうかはまた別の判断ですが。


 ↑  https://twitter.com/neetbuddhist?ref_src=twsrc%5Etfw  2017年10月31日


ひきこもり者は、一般社会で需要のある刺激を
強く求めることは少ないかもしれないが

それは「刺激なく生きていける」というわけでは
なくて、自分に都合のいい刺激は求めているのよね。

書籍、ラジオ、テレビ、ゲーム、インターネット・・・
こういう刺激をまったく得ず、もちろん他者との交流もなく
「ひきこもり生活」を長期おくる、ひきこもり者は
現代、いかほどいるだろうか?

彼ら(わたし含)は欲の少ない人間というわけでなく
むしろ、「刺激の享受と引き換えに、受け取る面倒なこと」
(=社会の当たり前の約束)から逃げているだけの
人間という見方だってできる。

ひきこもり者も、よほどの境地にいかない限り
刺激という欲望に支配されているのである。

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尊んでいるのは、命でなく「自分」?




ちなみに上記の話は、こちらの流れからきている。





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彼の介護体験、そしてわたしの今

きのうのラジオのゲスト
松浦晋也さんの話を一部メモ。

介護のストレスっていうのは、一つ一つは
わりとたいしたことないんです。ご飯作るとか
漏らしちゃったから始末するとか、慣れてしまえば
それはたいしたことないんです。ただそれが
どんどんどんどん積み重なってくる。
やっぱり人間、ストレスの耐性に限度ありますから
気がつくと自分のアタマのなかのストレスのほうが
一杯になっていて、そのところで、非常に小さなストレスが
一つ、ぼとんっと落っこってくる、これが物凄く辛い。

現象としてはたいしたことないストレスなんですけど
自分がいっぱいいっぱいになっているから
ちょっとしたストレスがものすごく辛いというのが・・・。


 ↑ 『大竹まこと ゴールデンラジオ』  http://www.joqr.co.jp/golden/
11月8日生放送より


松浦さんは、科学ジャーナリストが本業で
『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』 の著者。

介護のストレスは、ひとつひとつは大したことではないんです。ですが一滴一滴コップのなかに水が溜まるように積み重なっていきます。しかもしなければならないことが増えていき、終わりがない。家事も排泄の処理も、できないわけではないので、自分でやれると思っているうちに、追いつめられていってしまいます。

 ↑ アマゾンの同本紹介サイトに転載されている、『週刊文春』の書評より。

      *       *       *

わたしは、老母の介護という点において
この数年、グレーゾーンにいるが

・・・外から見れば「元気」な人で、介護とは
無縁にいると思われている。しかしその実・・・

食事も入浴も掃除も生活のあれこれ、彼女だけで
成り立たせるのはむずかしく、(実際成り立っておらず)

カラダが元気で動きまわる分、彼女のやりたいことの
サポートをしたり、後始末をしたり(←ココが我には特に苦痛)
おそらく彼女自身も深く認識していない、影のような働きを
してきたつもりだ。

(同時に、彼女の手足となり、日夜TVの録画・再生をしたり
・・・昭和一桁生まれのおばあさん、リモコンも扱えない・・・
郵便物の処理をしたり、ゴミの分別をし直したり etc
挙げるまでもないことばかりの連続でもある)

褒められないどころか、そんなことをやっていると
誰にも知られることのない日々。

(育児はこれの連続なのだろうな。
どうして介護となると、介護者の負担感情が大きくなるのだろう)

(そしてわたしは、寝たきりの親の肛門に指を突っ込むような
世話をしているわけでなく、痴呆の妄言に毎日付き合っている
わけでなく、徘徊を24時間心配しているわけでもない、今は
ぜんぜん介護とはいえないレベルなのだ、と言い聞かせつつ)

ときどき、グレーな介護じゃなくて
はっきりと介護認定を受ける程度に(老母が)なったほうが
わたし自身の負担は軽くなるのじゃないか・・・と
夢想することがある。

(彼女が元気に動き回る分、わたしが後始末をしなければ
ならないことも多いわけで・・・)

松浦さんのおっしゃる
「一滴一滴コップのなかに水が溜まるように積み重なって」
は、まさにわたしのこの数年の実感であり

そこそこわたし自身が小康のときはいいのだけれど
ひとたび凹んだときは、水がばっしゃーんと溢れ出る
恐さも知っているので

老母の健康寿命&(いわゆる)寿命と、わたしの状態が
どこでどうなるか・・・わたしが母より先に
使い物にならなくなる可能性もある・・・、不安ではある。

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天ぷらナイトなど

11月9日(木) よん

凹みの渦に飛び込むことなく
夜は、天ぷらを揚げる。

舞茸、エリンギ、スライス冷凍しておいた生姜
玉葱、人参、さつまいも、南瓜、ささみ、ちくわ。

(人参は甘ーく、生姜は痺れるくらい辛ーく
ささみは脳内天国になるくらい、ふわふわ)

あと、さばフグを買ってきたので
お味噌汁に。

最近、いつものお味噌をお休みして
(単に、新しいのを開封するのが面倒なだけ)
赤味噌で代用しているのだが

今日の味噌汁にも、(魚に合うのかな?
と思いつつ)使用してみたら、予想以上に
よかった。

白くて茶色い食卓だー。

          *

さばフグは二尾我々の腹に入り
残り二尾は味噌汁の鍋のなかに残された。
夜、この二尾を一旦鍋から取り出し
赤だし味噌汁で大根(粗い棒切り)を
コトコト煮てから、二尾を戻しておいた。

(一鍋で、二度美味しい。はず。きっとね)

          *

ここ数日、夜の台所の窓から
ひょっこり月がのぞいていて
「はっ」とする。

(時季的なものか、色の濃い大きな月。
いつにも増しての存在感を感じるのだ)

すこーしずつ上る時間は遅くなっているはずなのだけど
ちょうど夕飯の片付けをしているとき
冷蔵庫に飲み物などをとりに行ったとき
夕食後の片付けが面倒でちょっと遅めに皿洗いをして
いるとき・・・、こちらは意図しているわけでなく
たまたま台所の窓に目をやる時間が前日よりも
遅くなっているのだが、ほどよいタイミングで
連日、窓の向こうにいるお月さん。

今日は、夜10時をまわっての皿洗い。
だんだん湯気で窓が曇り、大根の煮炊きも加わり
気づいたら、もうもうと窓が曇って、お月さんの
姿が見えなくなってしまったので

生ゴミを捨てに納屋に行ったついでに
道に出て、お月さんに挨拶。

(窓越しには分からなかったが、この数日で
ぐんぐんお痩せになったわね)

あー、わたしは日々、だらだらと生きているのに
あなたは堅実におのれの役目を果たして
今宵もこうして存在していらっしゃるのですねー。

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