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すすみたい。すすもう。すすむとき。

先日のブログ「最近の調子メモ(18年初秋)」で
「畠よりも、実家の片付けや、庭しごとのほうが
大事なのに」という意のことを書いたけど

もっと、さらに、優先すべきことが
あるではないか!

(最優先その1)
家で横になってばかりの母の暮らしの
快適度をあげる&たのしみをつくること。

(最優先その2)
実家のなかの、物理的な
われの居場所をつくること。



畠は、「時季をのがせない」からと
先のブログに書いたが、その元には
「一度休むと(物理的にも心的にも)
再開するのがむずかしいのでは?」
不安があるのよね。

なのだけど、今一番大事なのは
(その1)や(その2)なんだよなー。

現実は、(その1)は頭のなかで
あれこれ考えてはいるのだが、ちっとも
進んでいない。

暮らしに追われ(たとえば
母を風呂に入れるのも一苦労)
あいまにちょこっと畠などをして
肝心なことがあとまわし。



舵を切れない、自分を押さえつけているものは
なんなのだろう? 

(それは一見、外部にあるように見えても
ほんとのほんとは自分のなかにある。とは
ぼんやり想像しているのだけれど
その辺の核心に近づけないまま
時間だけが過ぎる)

今は、高齢親子の暮らしをよりよくする
ことに注力すべきなのに

なんで、ほかのことに引っかちゃうのだろう。

プランター秋きゅうり

9月16日(日)

夢の中、ケアマネさんらしきヒトに
母の状況を一生懸命訴えている。

(「日に23時間、横になっているくらいなら
介護認定してもらい、週一でもどこぞへ
リハビリにでも行ったほうがいいのでは?」
なんてことを最近考えているから?)



午後はホームセンター。
介護系のグッズなど、ちまちま見ていたら
あっという間に一時間ほど経ってしまい
外の苗売り場に(←今日の本命)行ったら
ざーざー雨。

いったん帰宅し、雨の止み間に
お米を精米(5キロ。まだ一昨年の)。



プランターの秋きゅうりを初収穫し
ポテちゃんサラダの晩餐。

(残念ながら、遅めにプランターに挿し芽した
プチトマトは少し花が咲いたものの、実がつかず
収穫ゼロでさよならしました)



ドラマ『この世界の片隅に』最終回の
宮本信子さん(主人公の祖母役)のセリフがしみた。

「・・・悔しい。悔しゅうてたまらん。
でも、生きることは、生きること、だけじゃ。

じゃけんね、いっしょうけんめい、海苔、作る。

んふふんふ(笑)、エエ海苔作る。

んふっ。そう決めたっ」


神社の階段

9月15日(土)

畠のプレッシャーも軽減したので
ここ数日で一番、心身軽やか。



秋祭りの参拝、母の代理で。

わたしがちょうど到着したとき
お参りを終えたものの、階段を下りられなくなった
高齢ご婦人に遭遇し、手をお貸しする。

「春に転んで、ギブスをはめてたの」と
いうご婦人の手。

これまでわたしは意識したことがなかったけれど
神社の階段って、ものすごく高低差がある。

我が母は、雨上がりの道を用心したのと
たまたま外を歩く元気がなかったので
わたしにこのおつかいを言い渡したのだろうけど

(祭りの際、家庭ごとにお供えのものを
持って行かねばならんの。今春までは
母が近所の友達と行っていた)

こんな段差のある所に(母が)介助なく来ないで
よかったわー。と心から思う。



そのまま足をのばし、お買いもの。

「できれば秋刀魚を」と思っていたのだが
あまりに身がやせていて食指動かず
フクラギのお刺身にする。

おはぎ、「餡子」も「ゴマ」も「きなこ」も食べたい
と思ったら、8つ入りのを買ってしまった!

5)逃げ場のない世界で

メンタルの落ちているとき、どうしても人と会わねばならぬ
状況に陥ったら、わたしは自分のうつうつ感を隠すため
とりつくろう策として、明るい系の人格を引っぱってきて
ムリムリしゃべる、というパターンがある。

ありがちでしょ?



逃げ場のないせつなさを
ある女優さんもツイートしており
https://twitter.com/nae_auth/status/1020268573472763905
印象にのこった。

逃げ場のない、演劇的な世界で
わたしたちは生きているのですね。



そういうのは誰もにあることで
要は、それをスルーしてやっていけるか
過剰に意識してしまうかの差なのだろう。

ただし、強者の意見としては、これは危険。
「そういうのは誰もにある(=みんな我慢してるんだ。
おまえもスルーしろ)」と、他人に放言するのは
言葉の暴力。

過剰意識の地獄に陥れば、
(女優さんのツイートしたそれは)ときに
人生をひきずりおろされるほどの足かせになり
スルーの余裕なんてなくなるもんね。

「そういうのは誰もにある」と言うのは
自身に向けた叱咤激励の一コマとして
使うのが無難だろう。







ここ一連のブログ、わたしのなかでは
ざっくりいえばコミュニケーションという
つながりがあったのだけど

途中でいくつか人様のツイートを
都合よく解釈させていただきました。


つまり、人様のツイートを
「妄想のたたき台」にして
一人会話していたの。

(しかし、名越先生の考え方に戻ると
誤解を出発点にしない発展はない・・・)

お詫びとお礼を申し上げます。





逃げ場のない、演劇的な世界で

さてさて、あすも生きていこう。

4)憤ったり、逆怨んだり、愛されたかったり

ひとつ下の続きです

ところで、この意見、分からなくはない。

時と状況により、わたしは懸命に「話しかける」ほうと
「話しかけられる」ほう、どちらかにも傾く。

ムリして話題を探し、相手の低い反応にメゲず
気持ちを削りながら話しかける立場になったときは
のちのち、なんで自分があんなにも頑張らねば
ならなかったのかー(こっちだって好きで話かけて
いるわけじゃない!)と、憤り系の気持ちになるし

また、話しかけてもらったものの、最低限の返事も
できるかできないかレベルの反応になってしまう
ときは、相手への感謝なんてほとんどなくて
「おいおいおい、わたしはココにいるだけで
苦しいのだよ。頼むからわたしにプライベートな
質問しないでくれーーー」と、これはこれで
逆恨み系の気持ちになる。

the 身勝手なのだ。

(自分のかけたエネルギーに見合うような
反応がなかったとき、怒っちゃうのかな。
そして、使いたくもないエネルギーを使う
ハメになったとき、恨んじゃうのかな)



まあ、わいわいと話がはずむ
(どちらかが特にムリしている様子もなく
会話のキャッチボールがすすむ)のは
たのしいけれど

そこに実があるか?といえば
かならずしもそうとは言い切れないわけで・・・。

しかし

明るいエネルギーの交換が
交わされるのは(実なんてなくても)
それだけでいいよね。

(*タテマエ上「明るそう」なのではなく
純粋に明るいエネルギーね)



話は戻って

植木先生の「ホンマでっか」情報であるが

“言葉で空間を埋め尽くすことなく
自分からは話さず、受け答えのみのタイプ”の人が
時差少なく、その場で感情の処理をできるなら

それに越したことはないよねーーと

わたしは思うのだけど

いやいや待てよ、「言葉で空間を埋めることにより
感情の時差が出てくる」のは、大変身に覚えあるものの
わたしの場合、その場ではあまり喋らず静かにしていても
じめーじめーっと、のちまで感情を引きずることも多々あるからなぁ。

(でも、まあ、凹みのギャップは、たしかに
静かにしていたときのうほうが小さいかな?)



明るく振舞って、明るく話しかけるのは
それなりのマナーだと思うのだが

これが度を越えて、身体にしみついてしまうと

自分を殺して、振る舞いに終始してしまう
(=自分の気持ちよりも、表面的な自分に
固執してしまう)ことにもなりかねない。

で、それは

のちに逆恨み系の感情にもなる危険が。

「そういうふるまいが普通」だと思いこむと
「それをできない、しない」人に対して否定的な
感情をもってしまいがちだし

現実は自分で自分を疲れさせている
だけなのに、周囲を怨みたくなることも。

(ま、オラの場合の話だけど)



「空間を言葉で埋め尽くす」タイプは
サービス精神が旺盛ともいえるし

相手との関係が良好であることを
常に望む、八方美人タイプの

もしかしたら
無意識の愛されたい欲の露出なのかも?
なーんてふうに思ってしまう。



自然体が一番いいよね。
とは思っても、「何が自然体?」という
問いが同時に落ちてくる。

3)会話のもたらすもの、無言のもたらすもの

ひとつ下の続きです

「あいさつ」が、私は貴方の敵じゃありませんよ!
をお知らせする意味で発達した・・・という説
あったけ? あったような。 たぶん、あった。

言葉でコミュニケーションをとろうとするのも
それと類似する行為のように思う。

(そういう空気感の延長なのかな。
エレベーターでたまたま一緒になった
見知らぬ人とも会話をするらしいよね
アメリカなどでは)

あいさつが「敵ではない」サインなら
会話のキャッチボールは
「私は貴方を拒んでいませんよ」
「貴方を受け入れていますよ」
に重点をおかれることもあろう。

だから、言葉が優先し、その場での
感情の処理が滞ってしまうのも仕方ないよなぁ
とは思う。

(老人同士の会話が、自分の喋りたいことを
どんどん喋りまくるばかりで、噛み合っていない
なんてことがたとえあったとしても、互いに
「拒まれていない」「相手から受け入れてもらっている」
体感のチャージがなされれば、それでそれで
すばらしいではないか! ←話が飛躍しすぎ?



友人知人が顔を合わせて会話が鈍るって
(ま、状況にもよるけれど、通常は)
互いの関係に or 相手自身のなかに
モンダイ発生中なのかな? って
わたしなら心配してしまうよ。

逆にいえば
「無言」が平気な間柄というのは
とても貴重なわけだ。

(「会って」いながら、会話があまりなく
それなのにリラックスし合えるなんて
わたしにはたぶん未知であり、憧れだ)

「無言」でも「安心」なのは、互いの
深い信頼があるからこそなのだろうなぁ。

(先天的に周囲の波長と関係なしに
寛げる才能をもった人もいるかもしれないが
一般的には家族や恋人など、スペシャルな関係に
ならないと、そういうのは得がたいと想像)



ドミトリーの宿で見知らぬ人と寝食の場を共有したり
喫茶店で他の人の気配を感じつつコーヒーを飲んだり

わたしはそういう時間が好き。

「この場」を埋めるための言葉を探す必要がなく
かつ、誰かのいる安心感が

ほどほど心地いいのだね。


続く


2)「感情と時差」からの転がり話

『ホンマでっかTV』(9月5日放送回)で
植木先生が興味深いことを仰っていた。

。  。  。  。  。  。  。  。  。  。
「後で怒るタイプの人間と
その場で怒るタイプの人間」の違い。

人間の感情には時差がある。
(その場で現れるものと後で現れるもの)

その場を言葉で埋め尽くすタイプ
(サービスで懸命にしゃべるヒト)
→ あまり深い感情の処理をしていない
=本当の感情が隠蔽される。
(口数が多い人ほど、本音を隠している)

よって
言葉で空間を埋め尽くす人は
後になって急に感情が変わる傾向がある。

家に帰ってから、「△△は疲れたな」とか
「本当はあれイヤだったな」とか

友達と普通に話していても、家に帰ったときに
「あんなこと言われたな」と思い出したり
実は寂しかったな、とか、感情の時差が大きい。

いっぽうで

自分からは話さず、受け答えのみのタイプは
→そのときの感情を自分で処理できる

傾向があるんだってさー。

なお、「感情に時差がある」タイプは
女性や子供に多いらしいぞー。
。  。  。  。  。  。  。  。  。  。


ちょっと話は変わる。

なぜ言葉で空間を埋め尽くす行為が
起こるのか?を考えてみたい。

自分の胸に手をあてて思い浮かぶのは
「場の空白感がこわい」「目の前に相手がいたら
言葉をむついでコミュニケーションをとろうとする
マインド」が、しみついているのじゃないかな?
という仮説。

まったくの見知らぬ人なら、無言も平気だけど
これから関係を築こうという相手や旧知の仲で

(どちらかが作業に没頭中というわけでもなく)
(静かさを求められるような条件下でもなく)
しーんという音の響き渡る空間に一緒にいながら
会話がないのは、わたしには気まずい。

そして、ツライ。
(無言がツライのではない。
「気まずい」感覚がツライのだ)

ムリしている意識がほぼゼロで、純粋に
喋りたくて喋っているときもあるわけだけど

「無言空間地獄」を避けるため、懸命に
言葉を探し、その場を言葉で埋めようとする
ことは珍しくない。


長くなりそうなので、続きは別途

1)汝、誤解を愛せ!?

そのうち整理しようと寝かしておいた話
今宵の夜更かしついでにアップしちゃおう。

・   ・   ・   ・   ・   ・   ・   ・



人づきあいは「誤解が標準土俵」だと
意識していれば、あんなことやこんなことで
つまずく必要はなくなるのだ。

「沈黙のないいわゆる会話は、すれ違いか誤解」
「すれ違いと誤解を元にする会話が、通常の対話」
と名越先生。

わたしが日記を書いているのは
「完全な対話が成り立つのは、おそらく内側の自分とだけ」
を心の底で気づいているからだろう。

(=書き続けても、いまだ「完全な対話」には至っていないけど。
常に対話という山を登っている感じ?)





汝、誤解を愛せ!?

「思い入れとは誤解であり誤読」だけど
「誤りこそ、すべての始まりに寄与する」とな。

そうよのぉ、この世から誤解をなくしたら
なーーーんもなくなるかも、とはオラも思う。

(誤解を恐れて生きてまいりましたが
それでは世界が狭まるだけだと、そこそこ体験。

人生の折り返しも過ぎた今
「誤解」を愛するレッスンを!)

・   ・   ・   ・   ・   ・   ・   ・

最近は、おばちゃん魂を育て
ずうずうしく自分から言葉をかけたり顔をつっこんだり
そして面白くないことは涼しい顔でスルーする人格もイイな
と思い始めております。

(誤解がイヤだとか、行き違いが疲れるとか
深読みするのもされるのも苦痛とか・・・
かつてはそんなようなことを、このブログに
散々書いてきたけれど、オラも青かったなー)

わたしの言い分

不特定の方にも届く可能性のある
ブログのかたちをとっていたころ

「誤解されてるなー」という
感想をたまにもらうことがあった。

(あのときは、「ブログ村」というところの
2、3のカテゴリーに参加しており、周囲が
ネガティブ・自虐に酔う気配ムンムンだったので
それを反面教師に、できるだけ
「ネガティブを斬る」「自虐の愚かさを客観する」
内容を書くように心がけていたのです)

わたしは
エラソーな物言いをしちゃうことが多いけど
それは自分がエライと思っているのじゃなくて
そういう未来を望んでいるから。

強そうな物言いもしちゃうけど
それは自分が強いんじゃなくて
強くなれるようにとの、おまじないもこめて
いるのだ。

立派そうなことを書いても、自分がズルいのは
知っているし、理論より感情にひっぱられるし
なにより自分が可愛くて、常に言い訳を探している
人間なのさ。


さいごに。るんさま
無断転載してごめんなさい。



最近の調子メモ(18年初秋)

8月半ば頃から心身調子が停滞気味で
そのうち快復するだろうと思っているうち
早9月後半に。

ああ、そうだった、これが自分の水準だ
と、最近は、あきらめというか
「うぬぼれた自分」と距離を置いて
以前の自分を思い出しているというか。

(なんで力が入らないのだろう…
なんで動けないのだろう…などなどと
考え出しても、自分を苛めるだけ)

(これはウツなのか? それとも怠けなのか?
と悩んだって答えはないし、時間のムダ。
…過去数え切れないほど、そういう自責をし
結局なにも生まれないことを知った…

「仕方ないじゃん。こんな自分なんだもん」と
受け入れる方向に、自分を訓練するほうが
よほど自分のためになる)

それでも、ま、昔とは比べようのないくらい
「やれること(入浴、食事、などなど)」の底力は
上がっているのだから、ブラボー。



涼しくなりかけた頃、わりと(自分比)
よく眠れるようになって、ああもっと寝ていたい
寝るのって気持ちいいな、という後味を
残す睡眠度だったのだが

暖房恋しくなりかけているここ数日は
また寝るのが下手になっている。

起きるのも地獄、寝ているのも地獄
という感じである。

クスリの効きが下がっている印象だし
肉体労働いっぱいして、体力激しくすり減らし
へろへろになっていても、上手く入眠できない。
睡眠界に行っても、どことなーく起きている感じが
ついてまわる。



畠もねぇ、立っているだけでしんどいし
手に力が入らない状態なのに
ふらふらとなりながら
クワで耕して畝を作ったり
・・・・ココロは阿修羅である。

「体調わるいが、気持ちはそこそこ元気」
なときは、なんとか乗り切れる畠も

心身ともに調子のわるいときは
活動することにより、悪魔のような気持ちが
わいてくる一面もある。

なんで(そこまでして)畠?
というのはごもっとも。

(野菜、種まきしたって、そんな量は
食べられないのに・・・。最終的に
捨てなければいけない負荷を思うと
まったく賢こくない行為だ)

それに

畠をやっていると、それだけで
単純に体力使うし
(ヒトにも会うので)気力使うし
もちろん時間を使う。



スパっとやめられたらいいのに

ウダウダウダウダ・・・・の末
《この辺はまだ書けない。ウダウダすぎて》
結局、やめられなくて

「畠へ行かなきゃ。
あれをしなきゃ、これをしなきゃ」という
プレッシャーが

動けぬ心身に襲い掛かる時間は
ほんとうにメンタルを疲弊させる。

畠時間ゼロになれば
実家の片付けとか、庭しごととか
もっとはかどるだろー。

(後者のほうが重要案件なのに
「時季をのがせない」という理由で
ついつい畠のことを優先してしまう)

自己矛盾ーーーー。


背伸びせず、ゆるゆると日常生活などをつづります

はえともみ

Author:はえともみ
ちちんぷいぷい~。
(HSPの自覚あり)
「うつと仲良く! ひきこもりだっていいじゃない」と
開き直って生きてたら
元気になってきました。

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